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力(パワー)に抗う力と屈する力、そのあいだ

社会生活をしていると、嫌でも「力(パワー)」と対面する瞬間がある。

「私は国家の権力にねじ伏せられて...」という恐ろしいことこそ滅多にはないものの、ふだんの日常の中では力(パワー)の上下関係を感じることってあるだろう。お偉いさん、社長さん、上司、お客様。先輩、後輩。ベテラン、新人。

力(パワー)に負けず、自分が正しいと思うことや成し遂げたいことを達成するのはかっこいい。そんなふうに見える。強いものに屈して簡単に潰れるよりも、自分の意思を持って何とか進もうと頑張るのは、なんか良さげだ。

ただ、こういった力(パワー)への「抗い力(あらがい・りょく)」を持つのは相当エネルギーがいるし、大変である。私も過去は「そう簡単に力に負けてたまるか!」「自分の意思を主張するのは大事だ!」と思っていた。力に屈するなんてどんなに苦しくて辛いことか、そう思っていたが.... 

力に屈してしまう方が、案外楽だったりするんですよね。

社会生活をしていると、「偉い人」がたくさん現れる。そしてそういう「偉い人」と過ごすうちに、自分の考えは到底及ばない、恐れ入った、と感じてくる。そうすると徐々に、自分の考えていることは基本的には間違っているので、何事もまず間違いを正すことから始めなければならない、そのためには「偉い人」に色々と仰がなければならない、という気持ちになってくる。別に圧力をかけられているわけでもないのに、自然にそう感じてしまうのだ。

そうなってくると、「偉い人」に抗うなんて以ての外だし、間違いを犯さないためには強い力に従っておくのがもっとも安全牌に感じてくる。自分の間違いを肥大させかねないリスクを犯してまで、力に抗うのが馬鹿らしくなってくる。

こうして、いとも簡単に力に屈するようになって、力(パワー)への「屈し力(くっし・りょく)」がどんどん上がる。

もう何を言われても神経反射で屈してしまい、あまりに「屈し力」が上がりすぎると、しまいには何も感じなくなってくる。強い力には黙って従っておけば一旦大丈夫だろうと、屈することに苦しみも感じない。

ところがある時、「偉い人」はもちろん偉いのだが、常に「正しさ」と同じ場所にいるわけではないのだと、ふと気づく瞬間に出会う。そうなると、どれだけ強い力の陰にいたとしても、物事がちぐはぐに進んだり、上手くいかなくなったりするのだ。

違和感を感じたポイントで自分の意見を主張してみたり、それはいかがなものでしょうと言ったりして、プチ「抗い力」でもいいから発揮してみたら、案外良い方に転がった、ということがある。しかし、人には「出る幕」があれば「出ない幕」というのもあるので、ここは黙って頷いておくのが吉、という場合も大いにある。この見極めが、とても難しい。

この、力(パワー)への「抗い力」と「屈し力」は両極端なものではないようで、「そのあいだ」のちょうどいいところを探すのが、社会生活とか世渡りのミソ的なやつなのかもしれない。そして、それで悩んだり模索したりしている人は、案外いるのかもしれないと思っている。少なくとも私は、「そのあいだ」という場所をうろうろしているので...

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