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「自分を客観する」なんて、無理なお話

大人になる、とはどういうことだろうか?何が出来るようになれば、「大人になった」と言えるのだろうか?これは長らく解かれていない謎であり、都合の悪いことに「正しい答えがない」というのが答えであろうか。

それでも、どうにかこうにか大人になるための、苦しまぎれの条件の一つとして、「自分を客観できること」が求められているように感じる。違うだろうか?

たとえば、学生から社会人という身分に転身するとき。あなたは何をやりたいのか?何が得意で、何が苦手か?何が出来て、何が出来ないか?というものを、他人からあれこれと訊ねられる。その際に、よく自己を理解していなかったり、発言と行動が大きく乖離していたりすると、「自己分析が足りない」「自分を客観的に捉えられていない」「自分のことをわかっていない」と思われ、「大人になりきれていないね」というジャッジが下ることがある。

自分の頭の中で起きていること、自分をかたちづくる性質、自分を取り巻く出来事などを冷静に俯瞰し、必要な選択・決断・行動ができる。そんな人が「客観的ですね」「客観性がありますね」と呼ばれるのではないだろうか。そしてそれが出来る人は、ついでに「大人」という称号も手に入れたりする。

でも、本当に「自分を客観できる」人なんて、いるのだろうか?

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先日、ある友達と話をしていた。彼女は、毎日の勤め先での仕事とは別に、大好きな絵に関する活動をおこなっている。本当は絵のためにもっとエネルギーを使いたいけれど、まだ完全にはそれができていない。でも、確実に彼女の夢にじわりじわりと近づく音は聞こえているし、彼女はそれを掘り当てるためのシャベルもきちんと動かしている。少なくとも私には、十分にそう見えていた。

ところが彼女は、「やっと最近ね、"ピラミッドの先端"が見えてきたところかな」と言った。私は、冗談もほどほどにしてくれないか、と笑った。私から見れば、彼女は"ピラミッドの先端"どころか、すでにピラミッドを2つも3つも掘り当てている人間なのだ。

彼女が見ている彼女自身と、私が見ている彼女は、全く違う人間だったのだ。

「ところで」と、彼女は私に言った、「あなたは何がやりたいの?」

私も、彼女のように「表現すること」に興味があるし、今はそれが書き物として表れている。何を書いているときが気持ちよくて、何を書いているときが気持ちよくないか、それもだいたいわかってきた。実力があるわけでもなければ、これからどうするかもわからないけれど、何がやりたくて、何がやりたくないか、どのようにシャベルを動かしたらいいか、そういったことを考え始めた。だから... 私も"ピラミッドの先端"が見えたところ、だろうか。

私がそのようなことをぼそぼそと答えると、彼女はニヤリと笑いながら言った。「そう。だいぶ見えているじゃない、ピラミッドが。」

そう言われて、思わず笑ってしまった。なんだこれは、茶番か?

そう。私が見ている私自身と、彼女が見ている私もまた、全く違う人間だったのである。

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人は、自分のことを客観できていると思っても、案外できていないのかもしれない。自分の中には、どこまでいっても自分しかいないのだ。客観しようとしても、欲望、不安、恐れ、甘え、自信、言い訳、勘違い、自惚れ...そういうものが、"客観する自分"と"客観される自分"のあいだに入って、大いに邪魔をすることもあるだろう。自分を客観したつもりになっても、実はそこには「『自分を客観した』という名前の主観」しか存在しないのかもしれない。

本当に自分自身を客観するのは、きっととても難しい。だからその代わりといっては何だが、私と彼女がおこなった"ピラミッドの発掘"のように、文字通り他人を客観した結果として、自分に跳ね返ってきた言葉を「自分を客観すること」の材料として使うことは、ひとつの手なのかもしれない。

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