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"つながり"の時代、「おめでとう」の境界線

「お誕生日おめでとう」

この、たった一言の挨拶が、昔よりも簡単にできなくなってしまったのは私だけではないはずだ。

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中学生の頃、よく学校の友達の誕生日を聞いて回って、ひとりひとりの日付を覚えていた。人の名前や誕生日を覚えるのはあまり得意ではなかったけど、当時所属していた部活のメンバーの誕生日くらいは、顔を見れば日付がポッと出てくるようにはなっていた。

誰かが誕生日を迎えると、周囲の友達はお祝いをした。いつもより凝った手紙を書いたり、デコレーション・メールを送ったり。カラフルなメモ帳やシール、香り付きのペン、キャラクターのハンカチなど、ちょっとした贈り物をすることも流行っていた。

当時の私にとって、「誕生日おめでとう」は何ら難しいことではなかった。

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ところが、SNSが流行し始めてから、ひとりひとりの誕生日を覚える必要がなくなった。それどころか、わざわざ誕生日を尋ねる必要もなくなった。SNSが「今日は〇〇さんのお誕生日です」とご親切に教えてくれたり、誕生日を忘れれば何かのプロフィールをこそっと見れば確認できたり。大した"つながり"もない割には、いとも簡単につながれるようになった今の時代、だいたい毎日が誰かしらの誕生日だ。だから、特別な人でもない限り、全ての"友達"の誕生日なんて覚えていられないのだ。

しかし、いざ「今日は〇〇さんのお誕生日です、メッセージを送りますか?」と聞かれたとして、その全員に「おめでとう」を送るだろうか?正直に言おう、私の答えはNOだ。あなたもきっとそうだろう。

時が経つにつれて連絡を取らなくなってしまった人。あの頃はあんなに仲が良かったのに、何かの拍子で言葉を交わさなくなってしまった人。ただ何となく「おめでとう」を送らなかった人。年を重ねれば、いろいろと"事情"が出てくるし、おめでとうを送らない"言い訳"をでっちあげるのも上手くなる。

一つ確実に言えるとすれば、山ほど増えたはずの"友達"の数には反比例して、中学生だったあの頃よりも「誕生日おめでとう」と心を込めて祝うことは少なくなっているのだ。

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かく言う私も先日、誕生日を迎えた。私の友達にも「今日は るみさんのお誕生日です」とお知らせが届いたようで、たくさんの人がSNSを通じてお祝いのコメントを送ってくれた。わざわざSNSではなく個別でメッセージをくれた人もいたし、贈り物をしてくれた人もいた。(皆、ありがとう!)

「誕生日おめでとう」が面白いのは、毎年そう言ってくれる面々が少しずつ変化することだ。去年の誕生日では見知りもしなかった人が今年は一番に「おめでとう」と言ってくれることもあれば、予想もしていなかった人から特別な便りをもらうこともある。そしてもちろん、届かなくなった「おめでとう」もある。

この変化は、そんなに嫌いじゃない。毎年祝ってくれる人が少しずつ変わるということは、自分が身を置く環境が少しずつ変わっていることを示すからだ。言い換えてみると「おめでとう」と言ってくれるのは、その時期に特に自分と深く関わりがある人が多い。「私は今、この人たちに気にかけてもらっているのか」と認識し、感謝することができる。

(ただ、誕生日を祝ってもらうことが絶対だとは思わないし、「おめでとう」を言わなかったからって「もうあいつは友達じゃない」なんてことは、ちっともない。昔からの親友は毎年私の誕生日を忘れるし、私もそれをよく知っている。)

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誰かと何かを祝うことには案外、エネルギーが必要だ。「誕生日おめでとう」を送り忘れても、家族か恋人などでもない限り、よほどひどく責められたりはしない。それなのにわざわざ指を動かして「おめでとう」と文字を打ったり、あれこれ贈り物を考えてくれたりするなんて、ある意味すごいことだと思うのだ。今年、何人に年賀状を送っただろうか?年賀状はもとより、今や年賀メールやLINEも送らなくなってきたこの時代に、わざわざ筆をとり「あけましておめでとう」を送りたい人がいれば、きっとそれはそういうことだろう。

毎年、少しずつ変化する「おめでとう」の境界線を眺めながら、来年の私は一体誰からの「おめでとう」を期待するのだろう、と想像している。

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