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2022/05/15と19と20と

2022/05/15 5:09
おとといの、寄付のはなし。寄付をすることで負担を負っているという感覚は、自分がまだまとまったお金をお給料としてもらっていないというのも要因としてあると思う。金銭的な負担は精神的な負担でもある。

寄付を負担だと感じて踏みとどまった時、寄付は犠牲ではなく愛によって成り立ってほしい、と願った。それで、ちょっと考えてみた。ほんとうに、負担なのか。どうして寄付に関心があるのか。

お金というものの捉え方は色々あるけれど、一つには、自分がそのお金を貰うために掛けた時間が換算されたものだと捉えることができる。つまり、何かに対してお金を使うことは、それに自分の時間、命の一部を払うこであるとも言える。大袈裟かもしれないけど、でも自分の時間、命の一部を払ってもいいと思えるものにお金を使いたいし、そうして得たものはとっておきのものだろう。もちろん、そこまで考えずにお金を使ってしまうこともあるけれど、でも私にとってお金を使うということは、そういうものであってほしい。

一昨日の夜、noteの他に、Facebook でも同じ文面を投稿した。そしたら、何人かの友人が反応をくれて、一緒に考えてくれた。嬉しかった。

その中のひとりが共有してくれた引用文を、ここに貼るね。

わたくしは物ではなく、自発性なのです。希望し、愛し、欲望し、行動する自発性なのです。《あの子はわたくしの兄弟ではない》かもしれません。しかし、もしわたくしが彼のために泣くとすれば、もはや、彼はわたくしにとって異邦人ではありません。それを決定するのはわたくしの涙です。

ボーヴォワール『人間について』

私が一昨日流したやるせない涙は、遠い国々の「兄弟たち」を愛したかった、愛したい、愛している!の、涙だったのだろうと、合点がいった。

だから、愛することに決めた。

寄付をしなければ愛していないということでは決して無いし、愛する形は色々あるけれど、自分の時間を払うという決断の一つの形として、私は寄付をしたい。

愛するって、なんだろうね。まだまだ分かんないけど。でもなんか、うーーん、人を愛することは自分を愛することでもあるんだろうと思う。他人は自分ではないけれど、同時に自分自身でもあるの。うまく言えないけど、でもそう思うの。私にとって彼らの痛みは、自分と距離のある「社会問題」としてではなく、自分自身の問題として存在しているの。だから悲しいし、怒るの。だって自分だから。寄付はもちろん人のためになるけど、私にとっての寄付は、人のためにするものだと思っているわけではなくて、自分とその「兄弟たち」を愛する行為なのだと思う。だから、歓びなんだ。

2022/05/19 17:09

ここ数日、寄付のことについて考えている中で感じたのは、私はこういうとき、感情をとことん優先する人間だなということだ。論理とか、わからなくて、自分の心が納得するものの見方が見つかったら、きっとそれがいいんだろう。すごく偏ってて、一部分しか見れていなくて、頭の中お花畑でも、それでもいいの。お花枯らさないから。私が、水をあげつづけるから。みんなで、お水をあげつづけるから。

ちょっと忙しくしていて、中々調べる時間を取れずにいた。どこに寄付をするか、調べて決めたかったの。こないだの、難民支援の国連団体と食糧支援の国連団体、はご縁があったと思うし、あの団体にしようか、と思ったし、正直すごく、迷っている。うーーん。

迷っているのは、国内の支援もしたいという点、そしてもし複数の団体に寄付するとすると、自分が働いてもらうお金のどれだけを、支援に使うかということがさらに大きな問題になる。

食の支援、についてはここ数年、なんとなく続いていた興味だ。フードバンクに寄付をしてみたり、こども食堂でお手伝いをしたり、フードパントリーでボランティアをしたりした。ただ、どれも続かなかった。支援をしたい気持ちがあるんだけど、でもなんか、積極的に続けようって思えなかったの。どうしてだろう。わかんないけど。うーー。なんか、ガソリンが、ないみたいなの。ガソリンどこにあるの?貧困やフードロスに対して怒ったり、悲しんだりする私は確かにここにいるのに、それがどうして、行動につながらない。わからない。

貧困やフードロスに対して行動している人がいる一方で、食品をたくさん捨てるしかない仕組みのレストランとか、学生寮とか、なんかおかしくて。しょうがないんですよ、って言われて。しょうがないってなに!なんで捨てるのがしょうがないの?なんて、その人に言ったって、その人が悪いわけでもないのに。じゃあどこに「悪」があるの?だれが悪者なの?私はだれに怒りをぶつければいいの?

怒っても、泣いても、自分はどうしたらいいかわからなくて。考えるのをやめて、また自分の「日常」を続けて。はぁ。いやだ。きもちわるい。いみわかんない。いみわかんない!

やっぱりいみわかんない。どうしたらいいの?

ボランティアしたらいい?寄付したらいい?考えなければいい?

きっとなんでもいいんだろう。どれも正解だ。わかんないしらない。

でもなんか、私はなにかしなきゃいけない。そうしなきゃ。そうしたい。どう考えたらいいの?

さっき、日本の貧困を支援している団体を調べたら、子どもの貧困、というワードが上のほうに出てきた。支援する団体をおすすめしてくれるサイトで紹介していた三つの団体は、全部、こどもの貧困の支援だった。

こどもも大事だ。でも大人もいるよ。いないことにしないで!オトナって、なんでもできる人じゃないよ。オトナは、今もコドモだよ。

大人の貧困、についてはとくべつ心が動く。悲しい。

こども食堂はかなり増えてきたけれど、大人食堂というのはさっき初めて知った。そういうのがあってほしいと思ってたから、うれしかった。

生活保護とかもあるけど、うーん、心理的なつながりがあるといいなと思う。それから、食を分かち合う歓び。だから、大人食堂、いいと思う。

ちょっと、もうちょっと調べる。なんかでも、どれにしたらいいかわかんなくなってきた。

とりあえず現状報告。

2022/05/29 22:20

今日は、こないだも連絡をくれた友人と、寄付について少し話すことができた。

こないだ、「私は実感が持てる支援がしたくて、でも寄付はつながりを感じにくい」と投稿に書いたら、彼が「寄付をすることで顔が見えてくるかもしれない。寄付したところから関係が始まるかもしれない。寄付は、自分と相手が繋がるためにする行為なんだ。」って言ったのね。その日そのときは、なんだかピンとこなくて、それでもやっぱり遠いままだ、実感持てないよ、って思ってたんだけど。

数日間、いろんな人が反応をくれたり、自分でもこないだのことを反芻したりしてて、彼の言葉が少しずつ腑に落ちるようになってきた。

うーんとね。金銭的・精神的な負担は、あるかないかで言ったら、まぁそりゃあるんだよ。だけど、それはなんていうか、私が自ら負担したいと思う負担なんだと思う。うーん、そのことについて考え続けていたいって思う意味で自分が望んだ負担なの。何かにお金を使うときって、これに使う必要あるかな、自分の生活に必要かな、これによって自分の生活や気分はどう変わるかなって考えるでしょ。だから、お金を使うことって、それが自分にとって重要であると判断したってことだと思うの。基本的にね。そうじゃないときもあるかもしれないけど。別に要らなかったなぁとか、失敗したなって思うことももちろんあるけどさ。

それで、んーとだから、毎月ある一定額の金額を寄付することっていうのは、自分の頭の中に、そのトピックのための場所を作るということなの。それで、そうしたいって思ったの。考えたいっておもったの。

だから、んーと、考え続けようって思って。それで、やりながら考えようって思った。

今日の夜の時点では、こないだご縁があったWFPと、前に知り合いがボランティアをしていた、もやいっていう自立生活サポートセンターに定額支援を考えている。ゆくゆくは大人食堂にも携わりたいんだけど、あんまり一気に始めると大変だから、とりあえずその二つで始めてみようかなと思う。始めてみてから、考える。考えながら、またぐるぐるもやもやしながら、いろいろやってみることにする。

道にいっぱい石が落ちててさ、転んでひざをすりむいたとする。ひざからはどんどん血がにじんでくる。ばんそうこうしないと、傷をまもれない。ほうっておいたら膿んじゃうかもしれない。ばんそうこうは必要だ。だけど、自分やほかの人が転んでまたけがをするのを防ぐために、石をひろうことも必要なんだ。どっちも、必要。どっちも大事。

ばんそうこうを貼ることと、石を拾うことのいいバランスを見つけるのは、むずかしいと思う。自分がどっちが得意かも、まだわかんない。そういうのも、これから見つけていきたいな。

そんなところかな。今日はおわり。

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