見出し画像

優生思想の根本的な矛盾についての考察

この間、旧優生保護法に関して戦後13件目になる法令違憲判決が出たとのことで少々話題になっていましたよね。

私個人としては当然だしむしろ遅すぎるくらいだと思うのですが、Twitterなどで本件について見てみると意外と優生保護法に賛成している人が多くてびっくりしました。

国家が個人に不妊治療強制とか逆にどこがオーケーなのか教えて欲しいくらいなのですが、世の中には優生思想に共鳴するあまり本件の優生保護法さえも賛成する人がいるというのは新しい学びでした。

というわけで今日は優生思想について少々考えてみたので久しぶりに記事を書いてみようと思います。

優生思想とは、誰もが頭では正しいとわかるのに、誰もが心からは賛同できないモノ。
賛同している人は頭が悪いだけ。

大見出しからちょっと過激ですが、今回私が言いたいことをスバリまとめるとこうです。

まずは優生学の定義から見てみます

コトバンクより引用(https://kotobank.jp/word/優生学-144773)

遺伝子なるものが発見され、親の形質が子供に一定程度影響を与える、というのはいまや一般常識になりつつあります。
ともすればこういった考えの人間が出てくるのは至極当然のことと言えますし、実際には顕性遺伝・潜性遺伝等ありますが、‘‘劣った’’遺伝子を淘汰し続ければ種としてだんだんより優れたものになっていくのはほぼ確実です。
野生動物達がそれを証明しているように。

つまり、優生学、優生思想が正しいということは皆タブーだと思って公言しないだけで実際正しいんです。しかし問題は「賛成できない」ということ。

野生動物における遺伝子淘汰と現代人における遺伝子淘汰

先ほど、野生動物が自然を生き抜くための競争をする中で劣った個体が淘汰されていった例を出しましたが、これは賛成云々の話ではないですよね。

なぜなら動物達は自分たちの意思で劣った個体を淘汰しているのではなく、「自然」という抗いようのない摂理と戦っているからです。
つまり劣った個体を淘汰しているのではなく、劣った個体が淘汰されているだけです。

その点、人間、つまりホモ・サピエンスは違います。

近代法体系の整備された国家で、現時点で「誰かに殺されるかもしれない」「明日生きるか死ぬか」と生存競争に立たされている人間はいないでしょう。

「お金」という世界で1番大きな嘘を皆で信じているがために発生する貧富の差によって困っている人々は居ますが、これは自然の摂理ではなく資本主義という虚構によって発生するものなので自然淘汰とは訳が違います。

戦争による死者も、外交という嘘つきゲームに一部の人間が勝手に失敗したがためにその帰結として起こる、いわば人工災害みたいなものですね。

我々は福祉という概念を生み出しました。

要するに「お金という虚構の椅子取りゲームに強制参加させる代わりに勝った人は負けた人に少し配慮してね」みたいなものです。

これがあるおかげで、現代の、少なくとも近代法体系の整備されている国では野生動物のように自然淘汰される人間はいないのです。

野生動物達が最適と思われる形に進化し、大きくなったものもいれば小さくなったものも、地上で生きるものもいれば深海に生きるものもいる、というように各々生存戦略を形作ってきました。

一方でホモ・サピエンスは「競争し続けて文明を発達させる、その余剰で‘‘現時点での’’社会的弱者も生かす」という方向で生存戦略を作り、種を繁栄させ、生物的に生存してきた訳です。

‘‘現時点での’’とつけたのは、別に現状富を得ている者は社会的強者なだけで生物的強者でも何でもないからです。全員レンガで殴れば死にます。

環境の変化というのは未知数なので、現在のお金や権力といった虚構の上に作った社会における弱者=生物的弱者とはなりません。

どのように環境が変わってどういう性質がその時に必要とされるかは誰にもわかりません。

マンモスを狩るためには槍が必要ですが、お金を稼ぐために槍は不要です。

前置きが長くなりましたが、要するに野生の遺伝子淘汰は自然によって行われるもの、現代人にとっての遺伝子淘汰は人間自ら自分たちの意思で行うものという訳です。

だから正しい・正しくない軸の話とは別個で賛成する・賛成しない軸の話が出てくるわけです。

人間が遺伝子淘汰するにあたって絶対にクリアできない矛盾

では「優生学は正しい、あとは人間達が賛成できるかどうか」のところまで来たわけですが、私は大見出しに誰にも賛成できないし、賛成している人たちは頭が悪いと書きました。

これを今から語っていきます。

先ほどのおさらいですが、人間にとっての遺伝子淘汰は人間が行うものです。
ナチスも、イギリスも、アメリカも、日本も、すべて人間が優生思想を実行に移したわけです。

ここで大きな問題点が、「基準」です。

野生動物なら自然が勝手に決めてくれるので楽チンです。
なぜならその基準に満たないものは他の連中が手を下すまでもなく勝手に死んでくれるからです。

しかし人間の場合はどうでしょう。自然は勝手に基準を決めてくれません。

なので、過去の我々はとりあえず明確に劣っているとレッテル貼りしやすい「障害者」や「アルコール中毒者」、「ユダヤ人」などを標的にしたわけです。

しかし、優生思想に賛同しようと思えば、彼らを断種するだけではまだまだ足りません。

なぜなら「人間を遺伝子的により良くすること」が最終目標だから。

例えば、実際に運動神経や身長などは遺伝によって優劣が決まるものですよね。
(身長に関して優劣があるかは諸説あるかと思いますが、一般的に社会通念上高身長の方がヨシとされているのでその基準を用いました。)

人間を遺伝子的により良くしようと思ったら、当然運動神経の悪い私などは即不良品扱いです。
低身長ももちろん劣等種扱いです。優生思想のためなら淘汰されなければなりません。

外形的な判断はやめて、野生動物を見習って「自分で生きていける人」以外を劣等種としてみましょうか。社会的弱者を劣等種とする訳です。

もちろん何かしらの障害によって自立できない人もいますが、先ほども述べた通りこの世界にはお金や権力という嘘を皆が信じているのでどうしても貧富の差が生じ、一定程度貧しい人が生まれます。
(別に私が原始共産主義者というわけではありません。)

また、前の繰り返しになりますが、そもそもホモ・サピエンスの生物的な生存戦略が社会的弱者も生かすことにあるのです。

お金や権力といった嘘の上に社会を作り、競争させることで文明を発達させ豊かになる。その虚構の競争に着いて来られなかった者も種の手札として生存させる。だからホモ・サピエンスは生物的に強くなれる。
なので社会的弱者=生物的弱者とはなりません。

まとめると社会的に強者or弱者という基準は、「遺伝子的に人間を良くする」という当初の目標を達成するための手段としては非効率的と言えます。

全ての基準で劣等種を淘汰すれば優生思想は実現できる。
しかし、私もあなたも淘汰される。

個々具体例の話はやめて抽象論のまとめに入ります。

「遺伝子的に劣っているか」の判断基準、つまり「コイツら全員淘汰すれば人間は遺伝子的に良くなるぞ‼️リスト」として、基準A、B、C…とあったとします。

「人間を遺伝子的に良くする」という目標がある以上、これらを完徹しないと優生思想は実現できないのです。

基準AとBだけ実行しても人間はまだまだ劣等種ばかりです。

ですが、「自分は基準Cはクリアしてるけど基準Lで見たら劣等種」、「アイツは基準Hはクリアしてるけど基準Jで見たら劣等種」、というように
人間の99.99999999%がこれらの基準のいずれかに当てはまっているのもまた確実なのです

もしかしたら全てのステータスで欠点が一つもない人間も0.00000001%くらいはいるかもしれませんが、これらだけで人間の種としての人口存続を維持するのは不可能なので、「種の繁栄」という大前提に矛盾します。

実際に「170cm以下は人権がない」と発言した人が大炎上したように、人間というのはいざ自分が劣等種扱いされたらワーワー騒ぎ出すのです。

基準自体が相反することもあります。

例えば先ほどから私は社会通念を流用して高身長>低身長としていますが、高身長の人の方が早死にするとするデータもあるので、遺伝子的に見たら高身長も劣等種扱いされる可能性もあるのです。

優生思想に賛同している人は頭が悪いだけ

今までの話で、優生思想が「誰もが正しいとわかるが誰も賛同できないもの」だということはわかったと思います。

では優生思想に賛同している人は全てのステータスで平均以上の完璧ウルトラ超人なのでしょうか。

要するに、優生思想に賛成して「障害者は劣っているから断種しろ」という人間はこういった優生思想の行末が見えていないのです。

「劣っている」の区分がいつ変わるか、いつ自分が「劣っている」側として判断されるか、そういったことに考えが至らず、ただ目に入った情報から脊髄反射的に明らかに劣っていると自分の中で勝手にレッテル貼りをして差別をしているのです。

私は優生思想に賛同している人は知的に劣っていると思っていますが、別の基準で見たら私の知的能力も劣っていると判断される可能性があるので、彼らに「断種しろ」などと驕ったことは言えません。

人権の話は理想論だから噛み合わない

よく優生思想賛成の人に対するアンサーとして「人は生まれながらに自由に生きる権利がある」と言う人がいますが、これで「ああそうか」と言って引き下がっている人は見たことがありません。

これは「人権の話が理想論」で、優生思想に賛成している人は「自分が現実論を語っていると思い込んでいる」からです。

理想論と現実論は決して噛み合いません。具体例を挙げればキリがないです。

私も法律を学ぶ者として人権の話を理想論ではなく現実のものにしなければならないとは思っていますが、まだまだ理想に過ぎないのが現実です(ややこしい)。

それよりも、「確かに現実に即せば優生思想は正しい。けどお前もいつか淘汰されるよ?」というアンサーの方が説得力があると思うんですよね。

余談ですが5chのなんjで有名なレスがあったのを思い出しました。

長くなりましたが言いたいことが文章化できたので久々に書いてみました。
それでは。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?