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【読書】『オスマン帝国』

 「そういや、イスラム史って読んだことないぞ?」
と思ったのでちょうどいい。
 本書は、オスマン帝国の歴史の13世紀末から1922年の滅亡までを扱っています。
 日本だと鎌倉時代から大正時代。
 そんなに長く続く王朝も珍しいけれど、それをどうやって継続させたのか?
というところを書き留めておきます。

ポイント
 オスマン帝国が600年の命脈を保てたのは?
柔らかいイスラム教
柔らかい統治システム
「兄弟殺し」と「鳥籠」による王位継承システム

柔らかなイスラム教

 トルコ民族は部族紐帯によってまとめられるのだが、このつながりの欠点は、強力なカリスマを持ったリーダーがいなくなるとバラバラになってしまうところ。
 そこで、オスマン帝国創世期の人たちは、イスラム教の聖戦にたずさわる「信仰戦士」という方法で、共同体意識を持たせることに成功しました。
 「聖戦」「信仰戦士」というとなんだかかっこいいけれど、実のところは「略奪」を自分たちにとって都合のいい言葉で言い換えただけ。
 周りの人たちからしたら、迷惑な話だ。

 しかし、オスマン帝国として初期の段階でイスラム教を採用したのがラッキーだったところ。
 イスラム教の特徴の一つは、厳密な法理論を発展させたこと。
 それは、国家の運営にとって貴重な技術。
 へんてこな宗教ではなく、イスラム教を採用したことが、彼らの発展につながっていくことになる。

 オスマン帝国においても、もちろんイスラム法は施行されていた。その一方で、その時々の必要に応じてスルタンが命じた布告や、新たな地域を征服したさいに尊重された在地の慣習法などが、カーヌーンと呼ばれて運用されており、場合によっては、イスラム法とカーヌーンの定める内容が矛盾することもあった。しかし、帝国が辺境国家の域を脱し、正統的なスンナ派イスラム帝国として自己形成を遂げてゆくに並行して、ふたつの法のあいだの矛盾の解決する必要に迫られてゆく。

 現実を優先させるのが、オスマン帝国における「イスラム」。
 やっぱり宗教を都合のいいように利用したのではないか? という気がしなくもない。
 ただ、宗教の宿命なのだが、それが生まれた時は必要だった戒律でも、時を経て、テクノロジーが進化すると、宗教が都合が悪くなってしまう。
 それを、オスマン帝国では柔軟に対応して切り抜けました。
 例えば、

  • デヴシルメ制度(領内のキリスト教徒を奴隷として徴発。イスラム法では脱法)

  • 王位継承の際の「兄弟殺し」(後述)

  • 現金ワクフ(金融制度:イスラム法では違法)

 「現実をどうすんだよ!」という声に対して、「こうすればいいんだよ」と対策をとり続けてきた。
 共同体としてイスラム教が必要だけど、宗教の戒律と現実がちぐはぐになってきたら現実を優先させる。
 理想と現実を突き付けられたら、柔軟に現実に対応していったのがオスマン帝国のイスラム教なのです。

柔らかい統治システム

 オスマン帝国は中央集権国家である、とよくいわれるが、その在り方は一様ではない。君主をとりまく登場人物たちの編成や関係の変化、王権の拡大と制限という大きな潮流の移り変わりのなかで、集権化と分権化を反復し、そのたびに権力構造は洗練されていった。

 トルコ人は、モンゴル高原を故地とした遊牧民族。
 でも、帝国内にはセルビア人、チェルケス人、ギリシア人、アラブ人、クルド人、アルメニア人などなど。
 帝国の版図が広がれば、統治システムも変わるもの。
 そして、600年もあれば、新たなテクノロジーが統治システムにひびを入れていくのも、宿命。
 ティマール制、デヴシルメ制度、イルミエ制度等々のシステムも、帝国の規模に合わせ、また時代の変化に合わせ、柔軟に対応してきたのです。

王位継承:「兄弟殺し」と「鳥籠制度」

 1451年、二度目の即位をはたしたメフメト二世が行ったのは、弟アフメトを処刑することーーーーースルタン即位時にその兄弟を処刑する「兄弟殺し」の慣習の創始。
 トルコ・モンゴル系の王朝は、カリスマ的指導者の存命中は強力なまとまりを発揮するが、指導者が死去すると、後継者争いで分裂し、短期間で崩壊する。
 オスマン帝国が命脈を保ち得た理由の一つは、兄弟殺しによる王位継承者候補を制限したことにある。

 触れないわけにはいかないので触れるしかない。
 古今東西を問わず、後継者争いとか王位継承争いで、国力衰退からの滅亡の例はある。
 それをどうやって、オスマン帝国は克服したのか?
 殺しておくっていう非人道的な話なのだが、これもオスマン帝国のイスラム法では合法。
 確かに、内乱でも起きて国土があれるよりは被害が少ないんだろうけれど。
 ただ、頭に入れておかなければならないのは、当時の医療技術。
 生まれた子供が大人にかる確率が低かった時代。
 後継者を確保したいと思えば、「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」方式でとりあえず、後継者の確保をしておく。
 しかし、それで用済みとなれば殺してしまえというのは恐ろしい話だ。
 現代の医療技術に感謝しなければならない。
 そして、庶民の生まれであることにも。

 メフメト三世の即位後、幼い弟たちが処刑され、イスタンブルの人々を嘆かせた。
 次のアフメト三世が即位しても、事情はともかく、弟ムスタファは処刑されなかった。以降、完全になくなったわけではないが、自動的に処刑されることはなくなった。
 殺されなかったスルタンの兄弟たちは、宮殿の奥深くに隔離され、外界との接触を断たれた。これを、「鳥籠」制度と呼ぶ。

 いくら何でもそりゃあひどい話だ、と当時のイスタンブルの人たちも思っていたのだ。
 殺されるぐらいだったら、幽閉の方がマシかな。
 しかし、どう考えても、庶民の生まれであることの方に感謝をしなければならない。

まとめ

 オスマン帝国が600年の命脈を保てたのは?
柔らかいイスラム教
柔らかい統治システム
「兄弟殺し」と「鳥籠」による王位継承システム

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