古事記と言霊
【天地あめつち 初めて 発ひら けし時、 高天たかま の原に成れる神の名は、 天之御中主あめのみなかぬしの 神。次に 高御産巣日たかみむすひの 神。次に 神産巣日かみむすひの 神。この 三柱みはしら の神は、みな 独神ひとりがみ と成りまして、 身み を 隠かく したまひき。】
「高天原」は「タカアマハラ」であり、老子「道徳経」の「玄のまた玄衆妙の門也」の「玄」と同じ意味がある。
「天之御中主神」は「アメノミナカヌシ」であり、天に向かって右回りする(実際は左回り)円の中央の存在を示す。
「高御産巣日」は「タカミムスビ」であり、「ムスビ」が重要ワードです。
「ムスビ」は「おむすび」をつくる動作であり、「おにぎり」に言霊は無い。
【ここに 天あま つ神 諸もろもろ の 命みこと もちて、伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱の神に、「この漂へる国を 修おさ め 理つく り 固かた め 成な せ。」と 詔の りて、 天あめ の 沼矛ぬぼこ を 賜たま ひて、 言依ことよ さしたまひき。】
イザナギの「イザ」は「前へ」「進む」の意味であり、「ナギ」は草薙の剣の「ナギ」と同じで、ナギ払うということ。
「凪」は穏やかな海の状態を示すが、「奈具しく」の「奈具」と同じですね。
【「丹後国風土記逸文」に記載されている「奈具社」
八人の天女が比治山の上にある、真奈井の池で身を清めていたという、この地に住む和奈佐(わなさ)と言う老夫婦が、丁度行き合わせ、そっと一人の天女の羽衣を隠してしまった。
羽衣のある者は天に戻ってしまったが、残された天女は、水に身を隠していた。老夫婦は天女に向かい「私たちには子供がない、どうか私達の子供になって下さい」と頼んだ。
天女は「私一人、下界に取り残されてしまいました、この上は、お言葉に従います」と言い、それから10年ばかり一緒に暮らした。
この天女は、万病に効くという酒を造り、そのことにより老夫婦は大そう金持ちになった。
ある日、突然、天女に向かって「お前は、わしらの子ではない、家を出て行け」と言う、天女は「自分から望んで、子供になったわけではない、頼まれて子になった、なぜ、今になってその様なことを言うのか」と言ったが、許してくれない。
嘆き悲しみ、家を出てさ迷い歩き、竹野郡舟木の里の奈具の村に来て「やっと私の心は、なぐしく(おだやかに)なりました。」と言いとどまった。
この天女が「奈具神社」に祭られている豊宇賀能売命であると言う
もとあった奈具村、旧船木村は、嘉吉年間(1441年-1443年)の洪水で消失。
『止由気宮儀式帳』にある「比治真奈井」、『倭姫命世記』にある「与佐之小見比治之魚井原(与謝郡比冶山頂麻奈井原)」に比定される、候補地の一つとされる。元伊勢であり、外宮の元宮の論社の一つ。】
「ナグシク」とは草薙の剣と同じベクトルを持ち、封じ込める意味を持つのです。
ただ、一応書いておきますが、本来、「草薙の剣」とは、「ひふみ」であり、「マコト」なのです。逆三角形の底に封じ込められていた蘇民さんの女神が目覚めぬようにする力でもあったのです。
「凪」は、また、イザナミの「ナミ」、つまり、「波」(七五三)に相応じて付けられた漢字です。
「ナミ」とは、七五三縄と同じ意味であり、封じ込める、自由を奪うという意味を示しています。
余談になりますが、丹波の羽衣伝説中の天女は和奈佐(閉じ込める)の「老夫婦」によってひどい仕打ちを受けます。そして文中の『復至竹野郡船木里奈具村、卽謂村人等云「此處我心成奈具志久。」』の記述のように、この村を「安住」の地とし、ここで死すことになります。
このお話は、蘇民さんの女神の不遇な立ち位置とその理由を物語で示したものです。もう何度も書いてますが、「奈」は生贄を表す漢字です。「老夫婦」は一般人であり、蘇民さんにとっては、獣民です。
この最後の土地が、「竹野郡船木里奈具村」であることが、かぐや姫のお話に繋がっていきます。
竹取の翁が、竹の中で光る「かぐや姫」(かがやく姫)を発見し、本来の居場所である「月」に帰るまで守り育てるのですね。
「翁」は、「ハ」と「ム」と「羽」で出来ています。「ハ」はヒラクことであり、「ム」はトジル意味です。正確には「ム」では無く、「ウン」ですが、そこは突っ込まないで置きましょう。ただ、「ム」は「無」を示しています。「羽」は両方のハタラキです。
「翁」は活殺自在なんです。獣民を生かすも殺すも自由自在な力を持っているんです。
「かぐや姫」のカラダは「三寸ばかり」となっていますが、これは「三位一体」の力を持っている、本来は創造神であると掲示しているのです。
「かぐや姫」は「かくくや姫」であり、つまり、「かかし姫」(言霊上そうなる)なのです。「蛇姫」なのです。
「かぐや姫」は最後に「月」に帰りますが、なぜ月なのでしょうか?
私の今までの書き込みを読んでいらっしゃるならわかっていることでしょう。
一部抜粋 【「月」 moonと「精神」 mindの語源はともに印欧語の manas、 mana、あるいはmenであった。】
「真奈井」の意味がわかりましたか?
「三種の神器」は、八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉の総称です。
「勾玉」は蘇民の女神(クンダリニー)が封じ込められていた時の有り様でした。
「剣」は鳥居までの参道であり、鏡は飛鳥時代の有り様です。
ただ、「鏡」は自分自身が光を放つわけではありません。つまり、月と同じでしょ。
ああそして、「鏡」は「カガ目」であり,「蛇の目」なのです。第三の目でもあります。
八咫鏡・天叢雲剣・八尺瓊勾玉とは、「大き蛇の火」にとっての有り様を示したものであり、つまり、「九ノ八七」の有り様です。
もう文章が長くなってきたので、最後に、以前にも書きました次の文章を紐解いて終わりにします。
【是以伊邪那伎大神詔、吾者到於伊那志許米志許米岐穢国而在邪理。故、吾者為御身之禊而、到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而、禊祓也。】
「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」とは?
「ツクシ」は「九」であり、「ツクス」でもある。最高の場所である。また、春の山菜として有名な「ツクシ」と同じように上昇ベクトルである。
「ヒムカ」は上昇し広がっていくベクトルであり、下から多くのものを支えるハタラキをも示す。
「タチバナ」は、上昇し、燃え上がるようなベクトルです。
「オド」は「音」でもあり、「アマサカル」でもあります。つまり、上昇ベクトルの言霊集のようですね。
「アハギハラ」は、正しき「ひふみ」のことです。ご苦労して下から支える火のミハタラキが先ず立ち現れ、後に、水のミハタラキが沿い和し、横に組み結ぶ有りようなのです。