#30 聞く前に自分で答えを出したい

私は一度考え込むとずっと考え込めるタイプだと思う。中学時代に自宅で解いていた数学の問題でわからない問題があったときは、部活中にもその問題について考えていた。すぐ答えを見たがる人もいるだろうが、一旦考えてしまうと何とか自分で答えを導きたいという気持ちに駆られてしまうのである。

だから人と喋らなくとも自分の頭の中で考え事をすればよいから無言状態でもあまり飽きることはなく、そのため一人でいることに対してのストレスというものはほとんどない。自分の頭の中で何かを考えていれば退屈にならないからである。トイレや入浴中にスマホを持ち込む人もいるだろうが、私は持ち込まない。トイレや風呂ではスマホと離れられるからこそ自分の中でいろいろ空想も含めて自分の世界に入り込むことができるから楽しい時間である。

こうして自分で答えを出すべく喋るわけでもなく自分の中で考え続けることは面白い反面、社会的には仇ともなりうる。

例えばアルバイトでの作業でわからないことがあったら答えが出るまで考えるよりも他の店員に聞きに行った方がよい。この場合、自分で結論を出すことにはあまり価値がなく、それよりも素早く判断して場を回していくことの方がよっぽど価値があるとされている。これは、アルバイトのみではなく集団で活動するほとんどの社会生活上でそうだろう。他の人々と共に行動しているわけだから、自分の都合で他者を待たせるわけにはいかない。考えるとするならば、その場ではなく帰宅してから、一人になってから宿題として考える分には結構である。

今はそのことについて理解したが、数年前まではそういった認識にはなかなか至っていなかった。自分で答えを出したいから結果として全体の業務が遅れてしまうし、時間をかけたとて自力でその場で答えを導けない場合がほとんどであるからスピードも質も中途半端で終わることがしばしばであった。

だからといって自分で答えを出すことは面白いことだと思うから完全にやめたくはない。ではどうすればいいかというと、、、現時点では何も浮かばない。

それで困っている。社会では自分の発想よりも既存の事柄を踏襲することがほとんどだから1から自分で発想するということはなくなる。発想したとて、よっぽどの天才でない限りはその発想は社会的にありふれていることが大体であり、重要なものではない。

ただ、既存の内容踏襲に対して個性を発揮できるとするならば、それは物事に対しての見方、つまり切り口である。

これは、「思考の整理学」において、編集について個性が触媒になるといった内容が書かれてたことや、「トークの教室」で身の回りにありふれた出来事でも話者の切り口次第でその人にしかできない面白いトークになるという内容が書かれていたことに共感したことからこの考えを推すに至っている。

そう考えると、ただのコピペにもなりかねない調べ学習でも資料の選択やその中に書かれた情報に対しての解釈の仕方は、一旦自分を通すから十人十色になる可能性を秘めている。そう考えれば、同じことを調べるにしても調べものというのは十分に魅力を秘めているように感じられる。

今回書くにあたり過去の自分が書いたものを見てないので内容が被っているかもしれないいるかもしれない。

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