セックス、ジェンダー、変態プレイ

子宮内膜症のために低容量ピルを4年近く使っていた。とある用事で入院した際に断薬を余儀なくされ、久しぶりに月イチでの生理を体験すると、こんなに金が掛かったかしらとか、こんなに手足が冷えたかしらと新鮮に不愉快な気持ちになれた。
絶対に匂いなんてしないのに、小ぶりのポーチを持ってるだけで男子生徒から「生理だろ」「臭い」と揶揄われる、みたいな嫌な話がある。何割が言ってみただけのフェイク野郎なのかは知らないが、実際に私も他の女の人の匂いで「いま生理だな」と分かることがある。何を言うかが知性で何を言わないかが品性とよく言われる通り揶揄うのは決して行儀のいいことではないが、月経時の女性から血や特有の潮臭い匂いが漏れてしまうことがあるのは事実だ。私は身をもって感じるし、実家の猫に付き纏われ、入念に匂いを嗅がれたことで確信した。獣に知性はあれど品性はない。

民話伝承で、よく「女人禁制」というワードが出てくる。そのうち、山の神は女神で嫉妬深いから女は立ち入らないように、みたいな話は頻出するイメージがある。また一説によると、そういった山のなかには肉食獣が多く生息していることがあり、女性の経血に寄せられてそれらが人を襲うことを防ぐための伝承だと聞く。これは男女平等だとかそういう"気概の問題"ではなく生死に関わる原則という主張とセットで目にした記憶がある。

トランスジェンダーの女性は、こういった山には立ち入らないのだろうか。目的地に挙がった山が女人禁制の場合、自分は肉体は男性だが自認は女性なので入りませんと言うのだろうか。先述した通り、女がその山に入るべきでないのは"月経があるから"であり、もちろん、トランス女性はこれに当たらない。だが、女湯に入ったり、婦人科を受診したり、女子校に入りたがるトランス女性は山に入らない選択をしそうだなと想像に難くない。

最初に私の立ち位置を表明しておくと、私はジェンダー平等が為されればいいと願っている。フェミニストと言えばフェミニストだ。"フェミ"の3文字を蜥蜴のように嫌う、もしくは「いや、私はそういうんじゃないから」と保身に入ってしまう臆病な方も少なくないと思うので、もう少し厳密で、かつ具体的な言い方をしようと思う。

私の理想は"女体に性的魅力や専業主婦的家事スキルが必須でなく、男体に乱暴さやサラリーマン的奴隷スキルが必須でなくなること"だ。

一方で、女体が男体と同レベル働く必要も、男体が女体と同レベルに育児をする必要もないと思っている。そういう意味では今のフェミニズムの大流、少なくともツイフェミの流れとはズレている。上記のように思う理由はシンプルで、生殖器の形とホルモンバランスで出来ないことはあると言う事実を、私は甘く見ていないからだ。女体は月一で(個人差はあれど)体調不良を起こすリスクがあり、男体は子供が産まれるまでの十月十日を通常のホルモンバランスで過ごす。労働に費やせる時間や親としての自覚の形が男女の肉体に依って異なるのは理性だとか理論だとかでどうにかなるものじゃない。オキシトシンを意図的に排出できる人がいるだろうか?
そんな差異はある上で、好きな方向に自分の人生の時間を使っていい社会が望ましいと思う。男だから弱音を吐かず女を邪険に扱い馬車馬のように働けとか、女は控えめに男を立てて家庭を守れなんて抑圧は、どちらも平等にクソだ。双方が双方にとって邪魔な表裏一体の一つの問題だ。どちらが辛いか比べる経済的な理由があるならばぜひ述べて教えてほしい。

長くなったが、私は"生殖器による違いを受け入れた"上で"振る舞いは生殖器によらず選択できる"のが良いと考えている。セックス重要視かつジェンダー平等論者だ。その立場から言わせてもらうと、はっきり言って、トランスジェンダーこそジェンダー差別主義にしか見えないのだ

※混同されると困るので明言するが、"性同一性障害"はトランスジェンダーに含まない。肉体嫌悪なく、自認が肉体より優先されると主張している者達を今回はトランスジェンダーと呼ばせてもらう。性同一性障害をお持ちの方はこれらの騒動にご心痛のことだろうと思う。どうか、ご自分の心を守って欲しい。

セックスは身体の性でジェンダーは性的役割と呼ばれる。例えば、"セックスが女だけど自認は男なので、女のジェンダーである共感性の高さや可愛らしさを求めないで─"これは紛れもなくジェンダー差別者の言い分だ。性自認と肉体が異なる人にとって、旧態然とした男女観を貫きたい理由は、差別される側から差別する側に立ちたい以外にあるだろうか?

少し話が逸れたので肉体的な部分を掘り下げる。

"トランス女性が肉体にはペニスをもち、しかし自認は女なので女子寮に入り、性対象は女なので同室の女に勃起する。これを嫌がるのはトランス差別だ─。"

こういった事案でトランス女性が声がでかいとか結局男体ファーストだとか女体の潔癖さだとか、そんなことは横に置いて、あまりにも難解すぎることに着目したい。性自認と肉体的性のどちらを優先すべきかなんて問題は、女だとか男だとかを神聖視して対立させようという気がなければ起きない。前提が歪んだ問題は解けるはずがないのだ。人間のアイデンティティを性別のみに委ねず、血液型ぐらいの自然な感覚で考えてみてほしい。科学的にはB型だけど私は几帳面な性格でA型の人と相性がいいので自認はA型です。だからA型を輸血されるべきだ。そんなトランス血液型が流行らないのは、血液型が神聖視されていないからだ。血液型が医学的には重要な一方で、その人自身の価値とは一切関係がないからだ。性別なんていうのも、そうあるべきだとジェンダー平等論者の私は思う。

女だ男だの価値をどうしても諦められないのであれば、現実的な案としては寮の名前をヴァギナ寮とペニス寮にすればいい。温泉はちんぽ湯とまんこ湯にしよう。おっぱいバレーを正式な競技名にするのは問題があるが、女子大ではなくメコ大というのは語感も近くて良いのではないか。いや、性同一性障害のオペ済の方が自分は生まれつきの性器を持っていないと感じてしまう可能性を考慮して、"二ツ穴トイレ"と"一ツ棒トイレ"の方がいいかもしれない。そんなことより、重要なのは、珍棒用ロッカーで着替えるからと言ってあなたが男だと言われている訳ではないことだ。それは股に棒がついていることを示すだけで、視力検査の時に「コンタクト着用」に丸をつける程度のことだ。どんな股の形をしてようと、股の形に合った施設で服を脱ぎ肉体的を発揮する限り、自分の性をどう自認して表現するかは縛られるべきではない。もしも不安があるのならば、レイプから通りすがりのヘイトスピーチまで、全ての性器保持者が声を揃えてNO!と言い、温泉やロッカーやトイレや学校から性暴力者とレイシストを排除しよう。そうすれば、性自認というものが他人の誰にも奪われない権利であり,"同時に"そして他人の誰にも注意を払われないありふれたものになる。そういった自己表現を保証された地盤が作られてはじめて、トランスジェンダーが性という檻から解放されて、強迫観念に悩まされずに安心して生きれるのではないかと私は思う。トランスジェンダーがいま苦しいのは、自認が不可侵で自然な、取るに足らないことだと思えない現状のせいであって、本人に罪がある訳ではない。ただ、目指すべき未来についてもう少し考えて欲しい。

「男だけどフリルのついた服を着ちゃう姫カットの自分←」的な自己陶酔はアンダーグラウンドの性的倒錯スレッドで細々とやっていただくとして、百貨店では:の記号ではなく!の記号で示されたトイレに入り、お気に入りのコスメブランド店員と新作のチークについて話す。そんな、性自認をわざわざ表明しなくてもいい社会を目指して、トランスジェンダーに不都合があるだろうか?これは自意識過剰だった10代を乗り越えた者の一体験に基づくが、自分がどう見られるかを自分のすべてであるかのように固執するより、何を選択しても構われない社会の方が息がしやすい。おそらく、公開露出の変態プレイが目的でない限りは。

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