麻酔は効かない、摩耗は果てない

鬱病で休職中の身だが、職場の人が企画した飲み会に誘われたので行ってきた。アルコールに弱い上に相当安心できる場でないと気持ちよく酔えないので、そもそも飲み会自体が好きではないが、大好きな先輩の送別会だったので参加し、いつも通りの振る舞いをした。いつも通り。大袈裟なリアクションと上司のお決まりエピソードを引き出すための根回し、後輩が聞き役に徹していたら話題を振るだとか、そんなことをしているとなんだ元気じゃ〜ん!と評価される。
当たり前だ。元気にしてんだよ、以上に正確な答えがない。他の人の送別会で、ベラベラ持論を語りたいだけの中高年が居て、そんなところでいかに苦しいかを自分から語る奴がいたら、それは鬱病ではなく発達障害か人格障害だ。一応、聞かれて気まずくならないようにマイルドかつ簡潔な説明は用意していたが、誰も私の話を何も聞いてこなかったどころが、遮って大声を張り上げていた。それで何を分かった風になってるのか?
現在、ダラダラとせずに他人がいる場所で日中を過ごすことを医者から推奨されている。そういう点で、心理的に安全でない場所に赴くことは社会復帰のためのいいリハビリになったはずだ。また、帰宅してから具合を崩して丸一日寝込んだが、大好きな先輩の話を聞く、そして似合うだろうと選んだプレゼントを渡す、というミッションを完遂できたので良しとする。良くなかったことは、また今度の記事のネタにしていつか許そう。

ポッチャマコピペ

ポッチャマコピペというをご存知だろうか。
無職もしくはそれに準じた社会的承認に乏しい人たちによる匿名掲示板の書き込みの一群で、自身をポケモンの「ポッチャマ」と自認し「ポ」を一人称とすることが特徴だ。哀愁を笑いに変えるユーモラスさが魅力的で私はかなり昔から愛読している。見やすいのでここではバキ童ch公式切り抜きの土岡氏によるコピペ朗読を紹介する。彼の朗読は、彼自身がニート歴3年という背景も含めて鑑賞すると味わい深い。

今回はポッチャマコピペのうちのひとつついて取り上げたい。

これ、凄くないか。

初めてこのコピペを読んだ時に私は衝撃に打ち震え、そしていまだに答えを見つけられていない。ペットを飼うのに癒しだけを求めてはならない。責任感を持つべきだというのは自明だ。では、"ペットを飼いたい"という能動的な働きの根源は?転じて、"子供が欲しい"は?仕方なく世話をすることなど現代では少ないケースで、ほとんどの場合は我々は望んでそれを選んでいる。
我々は、自分の生きる理由を庇護対象に押し付けている。寂しいから、自分だけで生きるのが辛いから、自分より弱い物を生活圏にわざわざ生み出している。こんなショッキングな真実をまさかポッチャマに教わるとは、多くの人はまさか思いもしなかったのではないか。

鬱病リアリズム

またもや説明の必要な言葉を出してしまって恐縮です。(ポッチャマコピペよりも知名度があると思うが。)鬱病リアリズムとは心理学のある分野で提唱された説である。

"うつ病の人は、正常とされる人々と比べて、現実をしっかり把握していると主張する理論があります。それが「うつ病的リアリズム(抑うつリアリズム)depressive realism」理論です。(以下引用)"

注意して欲しいが、あくまで一説であり、臨床に使われるほど有効なわけでも医学の常識でもない。否定的な有識者もいること、軽度の鬱病に限られる仮説であることも念押ししておきたい。一つつまらない話を、という枕を前提に読んで欲しい。言われるまでもないと思うが。

この話で肝要かつ実用的なのは、鬱病患者が"悲観的なわけではない"という一点のみのようだ。悲観的な考えを矯正するという従来の治療方針よりも、現実を等身大で受け止めてると捉えた治療の方が有効なのではないか?という提唱なのだ。鬱病でなければ楽観的なアホだと言いたい訳では決してない。人間の脳みそを含めた自然は正しく捉えることなど到底出来ず、意味があるのは利益がある捉え方のみだ。人口の3-4%の鬱病患者こそ正しいとする考え方はあまりにも不利益なので棄却しよう。

鬱病リアリズムとは酒に酔わない人が飲み会を苦痛に思う状況に近いのではなかろうか。飲み会とは一般に、酒を飲んでシビアな現実を楽しもうじゃないか、という行動の一つだ。くだらないことで大笑いし、酔っ払ってる自分や他人がが面白いみたいな"ノリ"つまり雰囲気が醸成される。そこで、「いや、酔っ払ったところでウチの会社の業績が悪いのは変わらないし、今からでも対策すべきじゃないですか。」なんて言う奴はいない。むしろ、それが分かっていても決して言えないだろう。なぜならこの場では誰も自分と同じ問題認識をしていないし、口に出すことは許されないという肌感があるし、でも自分は一緒にゲラゲラ笑うことも出来ない……その苦しみが鬱病の一要素なのかもしれない。自分が抱えている問題を同じ深度で共有できない。人に囲まれているのに孤独感を感じる、の言い換えがひとつ見つかった。

幽霊が視える

同じく我々の前には問題は常にあり、問題に対する解像度の違いが健常と鬱とを分けるのではないかと言う仮説を提唱したい。鬱病リアリズムを認めた場合の鬱は、霊的存在を認めた場合の霊感に近い。幽霊を居ないものと扱う人が明るく楽観的と呼ばれ、震えながら目を逸らしている人間のことを悲観的と呼ばれている。本当はそこに霊がいることに変わりはなく、一方で恐怖を感じたら飲み込まれて負けてしまうという一面もある。さきほど例えに出した酒をはじめとした嗜好品、食事や買い物といったものに依存するのは、リアルが見えている人間が必死に目を逸らしているからだという考え方もできる。では、我々"麻酔の効かない"人間は、どうすればいいのだろうか。

きっと、答えはポッチャマコピペにある。いや、そうか?と思われるだろうが、聞いて欲しい。立ち返るが、ポッチャマコピペとは匿名掲示板で発言されて今まで残ってきたテキストだ。つまり、誰に強いられるでもなく書いた個人的な出来事が、特に迫害されるでもなく、なんとなくの支持を得て語り継がれたということが考察される。少なくとも、発信者の悲しみは"なかったこと"にはされなかった訳だ。これが、かなり重要な気がする。飲み会であんまりノリについていけないよねとか、どんな幽霊が見えて恐ろしかったか、とか、その人にとってのリアルを「考えすぎ(笑)」と軽視されないこと。それは、人にとって、実は大きな意味を持つのではないだろうか。

悲しみを産むこと

ペットを飼いたいし、子供が欲しいと思う。それはきっと自分だけのためで、自分がこの世にいる必要性を証明したいだけなのだと判っている。世の中に必要とされない事実を受け付けたくないこと、そして自殺は恐ろしいということ、それらの逃避行動にすぎない。
転職した先輩は、自分の目指す社会のために自分ができることを逆算し、業種を変えたのだと言っていた。理想的だ。自分の行動が自分にとって納得できること、誇りに思えることほど大事なことはない。だからこそ人は自分の苦労を語りたがり、他の人の道を貶したがる。

私が胸を張れることは今、ひとつもない。いい大人だけど、できることがあまりにも少ない。ただ、自分をなかったことにされたくないと同時に、他人をなかったことにしたくないという願いだけがあり、文字を打っている。孤独で消えそうな人に届けば幸いと思うし、震えながらお化けの話ができたらきっと最高だ。

オマージュ:少年漫画少女漫画/大森靖子

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