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「あなたはわたし、わたしはあなた?」 日曜日にワンオペする父親の話

 平日、朝八時四十分。私が通勤準備を完了しバッグを背負って家を出発しようとする瞬間である。幼稚園への出発準備が終わりそうな妻が私に何気ない話を始めた。私はその質問からこの会話が長くなりそうな雰囲気を察し、『今この話をし出すと電車に間に合わないぞ』と考えて焦る。私はその話を振り切り職場へと向かう。

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 数日後の日曜日の朝。

 毎週日曜日は、妻が朝から夕方まで仕事があるため、私が三歳の息子と一歳の娘の面倒を一人でみることになっている。私にとってちょっと憂鬱な日だ。子ども・子育てが嫌いというわけではない。一日がどのように展開していくか全く読めないため、二人の面倒を一日しっかりとみられるか不安だからである。

 時間は朝六時頃。妻は出勤の準備を始めていた。妻の出発の前までに洗濯物など全て終わらせて部屋をある程度片付けようと思って動いていると、その物音で娘が起きた。当初の計画が崩れそうで焦りが出る。時間は六時十分。ここで私の口から妻へポロッと何気ない一言が出た。

「出発をあと二十分待ってもらっていい?」

 妻はその瞬間に私の顔を見る。

 妻が正直その時にどのように思ったかは分からない(聞いてみてもいいのだが)。ただ、妻が私の顔を見た瞬間に、私の頭の中に罪悪感が発生し、『あれ、この状況は今回が初めてではないぞ?』と思った。

 この罪悪感の根源と過去の類似した状況についての検索が頭の中で高速に始まった。 

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  最初に、この罪悪感への自問自答が起こった。「今は六時十分。いつも六時三十分頃に妻は家を出ているから、あと二十分家にいることをお願いするのは悪くないよね。」と自答。しかし、「あれ、でもな、『何時に出てもいいよ、五時台に家を出てどこかのカフェでゆっくりしたら』と(優しく、カッコつけて)前に言ったことがあったな。言っていることとやっていることが違うじゃないか。」と自分の心の中のリトル・ヒグラシが過去の記憶を持ち出して痛いことを言いだす。なるほどこれが罪悪感の根源らしい。 

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 一方で、この状況に近い過去の記憶の検索が完了した。

 思い出された記憶は、平日、朝八時四十分。私が通勤準備を完了しバッグを背負って家を出発しようとする瞬間だった。

 どういうことだ?と困惑したがすぐに理解した。平日・朝八時四十分と、日曜・朝六時十分の「出勤」という状況において妻と私の立場が逆転していたのだ。あなたはわたしに、わたしはあなたに。

 そうか、私の出勤直前に妻が始めた何気ない話は、一人で子ども達を見ることへの漠然とした心細さ、焦り、不安等から無意識に発せられたのかもしれない。そう思うと私の頭の中のモヤモヤが晴れた。

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 そんなことが頭の中で数秒間交錯した後、私は現実に戻る。

 妻は私の何気ない一言を振り切らずに受け止め、快く娘の面倒を見て六時三十分に家を出ていった。お陰で私は部屋をある程度片付けることができた。本当にありがたい。

 思えば、息子の幼稚園への出発の準備が終わらないとき、私は電車を一本か二本遅らせることがあった。その際に妻は「今夜は遅く帰ってきてもいいよ。」と言ってくれた。しかし本当に遅くまで仕事をして帰ってくると、妻は本当に大変そうだった。一方で、私は妻の出勤を遅らせたが、「遅く帰ってきていいよ」と言う余裕を持ち合わせていなかった。

 わたしはあなたに(まだ)なりきれていない。

 私が六時十分に発した一言。それはこれから始まる一日への不安から出た一言だったのだろう。最愛の子ども達が「天使」にもなり「悪魔」にもなり、そして天邪鬼という「鬼」にも化ける時もあるから不安が伴わない訳がない。「鬼」が怖いのは子どもだけではなかったようだ。いつのまにか、子育てを通じた「感情を耕す喜び」よりも、「感情を荒らされる不安」の方が心の中で優勢になってしまったのだろうか? 

 娘を着替えさせながらそんな思考を巡らせていると息子が起きてきた。今日はまだ何をするかはっきりと決まっていない。「まずは朝食を作ろう。なんとかなりそうな気がする、うん。」頭の中で気持ちを整理し、私はソファーから立ち上がる。私の子ども達との日曜日が始まった。

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