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徳川家康の人使い

 織田信長は、昔からいる宿老たち。
柴田勝家、丹羽長秀、などを使いながら、中途入社組、明智光秀・羽柴秀吉などを抜擢し、柴田・丹羽らと競わせた。
 
 一方、徳川家康。信長の人使いなどを
みて、部下の能力、心情を考えながら、
使っていった。家康は、自分で言ってもいるが、人の長所を見るようにしていた。また、忠臣の子は忠臣になる、という信念があった。
 武田家滅亡のとき、武田勝頼に最後まで従っていたのが、土屋昌恒という重臣だった。昌恒は、勝頼の自刃のあと、介錯し、自らもそこで自刃していった。
 それを聞いた家康は、「忠臣の子は忠臣になる。昌恒の子を探し出せ」と命じている。なかなか、見つからなかったが、駿河興津の清見寺にいるところを見つけ出し、秀忠の小姓としている。
 元服のとき、秀忠から、『忠』の一字を与えられ、土屋忠直となり、上総の久留里城主二万石の大名に取り立てられている。

 現代も、部下の能力とモチベーションの兼ね合いを考えながら、上司、経営者は、使っていかねばならない。
 
 歴史というのは、人が作っていくものだから、戦国時代に限らず、江戸時代、
幕末、明治、大正、戦前の人の織りなす
様を観察できる学問である。

 だから歴史は、面白いのである。

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