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 優秀だった 今川義元

今川義元。戦国武将としての評価は
低い。
 大軍を率いた今川義元が、寡兵の織田信長に、桶狭間の戦いで、討ち取られたからだ。

今川義元は、臨済宗の住持、雪斎を軍師に招き、
武田信玄・北条氏康との間に
「甲相駿三国同盟」を結び、
西三河まで、領国を広げることに
成功している。

 領国経営として、富国強兵に取りくんでいる点も特筆される。
 今川領国である駿河・遠江・三河の
米の生産高は以外に低かった。
そのため、安倍川上流の安部金山、
大井川上流の井川金山があり、
その産金額が莫大だった。

 また、徳川家康が今川義元の元で
人質になっていたが、人質ではあるが、将来を期待され、博識の義元の軍師、
雪斎の薫陶を受けたことは、その後の
家康の人間形成に影響を与えている。

なぜ、今川義元が、尾張に侵攻したのかは、織田信秀が死んで、侵攻しやすいと思い、また、伊勢湾の津島港、熱田港の
貿易が、魅力的だったのでは、ないか?

この記事は、小和田哲男先生の見解に
負う所が多いが、

 今川義元は、決して凡庸な武将では
なかったようだ。

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