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信長の一番弟子 蒲生氏郷

 織田信長が、見いだし、育成した
「人材」の中でも、「智・弁・勇」の
三徳を備えた、最高の愛弟子は、
蒲生氏郷であった。
 弘治二年(1556)近江国蒲生郡日野(
現・滋賀県蒲生郡日野町)の城主・蒲生賢秀の嫡男として生まれ、永禄十一年(1568)、父の人質として信長の許へ遣わされる。
 幼名鶴千代をみた信長は、聡明さと弁舌のさわやかさ、勇猛果敢な性格、
さらには鋭敏な美的センスに、己に等しい価値をみた。
 信長はこの若者を、自ら一人前の武将に育てあげた。のみならず、美貌の愛娘・冬姫を氏郷に娶せている。
 氏郷は、織田家の主要な合戦、越前朝倉攻め、近江小谷城攻略、伊賀進攻、信州攻めなどに、参戦。抜群の軍功を上げた。
 信長亡き後、秀吉はこの二十歳も年下の武将を賓客のように、もてなし味方の陣営に迎えた。
 だが、氏郷は秀吉には、感謝の念は持っていなかった。
 小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康に先手を取られて、慌てている秀吉に、後世に残る有名なセリフを吐いている。
 「猿(秀吉)メ、死ニ場所ヲ失ウテ狂ウタカ」(『武功雑記』)
 氏郷にとって心服できるのは、亡き信長ただ一人。
 氏郷の名が一躍、天下に轟いたのは、
本能寺の変 のおりである。
 父・賢秀と安土城の守備を任されていた氏郷は、城に残されていた信長の家族を救出し、玉砕を覚悟の上で、明智光秀の自軍への誘いを拒絶した。
 畿内は、光秀の勢力圏内で、ほとんどが光秀を支持。蒲生父子だけが、堂々と己の意志を表明した。
 羽柴秀吉の「中国大返し」が遅れていれば、この父子は討死をしていた。
 また、氏郷が、新しく家臣を召し抱えるとき、いつも同じことを言った。
 「その方が戦場に出たなら、わが家中の者で、銀の鯰尾の兜をかぶり、奮戦している者が目につこう。その者に負けぬように働け」
 その勇者こそが主君の氏郷であった。
ともあれ彼は、率先垂範。
 また、氏郷は学問を積み、中国の古典にも通じ、茶道では『利休七哲』の一人にも数えられている。
 小牧・長久手の戦いのあと、伊勢松ヶ島城12万石に封ぜられた氏郷は、この地を「松坂」(現・三重県松阪市)と改め、綿密な都市計画によって開いている。松坂が江戸時代を江戸時代を通じて、日本有数の商業栄えたのも、もとは氏郷の設計によるものであつた。
 氏郷は秀吉によって、会津若松に転封された。この男以外に、徳川家康・伊達政宗・上杉景勝の「くせもの」三人を、同時に牽制でき、抑え込めるだけの人物はいなかった。
 一代の英雄、自他とも天下人の器と認めた氏郷は、寿命にだけは勝てなかった。
 現在でいう結核性の痔瘻を患い、文禄四年(1595)、四十歳をもってこの世を去った。

索引 戦国武将学 加来耕三 著
   (株)松柏社 2021年

 
 


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