本郷地下「バレリーナになりたかったふたり の夏」に寄せて

 それは旧鳥(かつてのTwitterのことを、私はこう呼んでいます)のタイムラインに流れて来た漫画だった。
 デビュー前の短篇とのことで、恐らくは単行本未収録と思しいので、ひとまず旧鳥のポストのリンクを貼っておく。
「バレリーナになりたかったふたり の夏」


 能力はあるのに、それ以外の要因でどうあっても望んだ形で舞台に立てないめぐみ。「女性であること」という条件はクリアしていても、愉しく踊る「おけいこ」から先に進めず、「バレエ」から選ばれなかった毬子。
 それぞれの孤独と澱と岐路とが描かれた短篇で、その繊細な描写と、彼らを描く透徹した、でも優しい眼差しが印象的だった。

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 恵の「ぼくにはできない」と、毬子の「やれないことが増えてきたよ」の「できない」は位相が違う。

 恵の「できない(バレリーナになれない)」は誰の目からも本人にはどうしようもないことだが、実のところ、毬子の「できない」も、本人にはどうしようもない。
 努力でどうにかなるレベルを超えた「実力」というものが、踊りや楽器の世界には確かにある。自分は趣味の域でしかこの愛しいものと触れ合うことが叶わないのだ、その先に進む才を持たなかったのだ……ということを突き付けられるのは、なかなかに辛いことだ。

 確かにある段階までは、正しい努力は報われる。諸条件が同じである限りは「できない」のは努力が(あるいは正しい努力が)足りないからだ……というのは、一面ではそのとおりでもあるのだけれど、でもそれは、あるラインまでだ。そこを超えた世界には、選ばれた者しか行けない。
 特に、「クラシック」というものの世界はそうだ。愉しい横道なんてものは無い。「上手くなくても、やりようで仕事にできます!」などというルートは無いのだ。音楽の場合は、一応は学校の音楽教諭になるとか、街のお教室の先生になるといった道もあるだろうが、しかしそれだけを仕事にしている人は「演奏家」とは呼ばない。別の仕事だ。多分、恵や毬子が身を置くクラシックバレエの世界は、もっとそうだろう。

 努力して努力して努力し尽くした先でしか、自分の能力の限界は見えない。そして、そのような愛と努力との果てに、努力してももうどうにもならないことを知る時が、大抵の人には、来る。
 そもそも、そこまで残れない人が大半なのだ。「努力し尽くす」ことができるのもまた、限られた人だけであるから。

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 10ページから13ページにかけて(旧鳥ポストの4/10)の流れは、残酷な現実と、そこに身を置く者の心の動きが透徹した眼差しで描かれていて、胸が詰まる。 

 10ページにおいて、毬子は他の子達がとっくにマスターしているポジションを維持することもできずに、転んでしまう。
 姿勢を崩すというレベルではなく、派手に尻餅をついてしまったのに、しかし、注意は飛んでこない。転んだ瞬間、毬子は咄嗟に先生の方を見た。「叱られる!」と思ったのだろう。だが、先生は毬子を見てすらいなかった。既に基礎をマスターしている他の生徒に「下ばっかり見ないで」と、より美しいポーズのための指導をしていた。 

 このシーンは、毬子が自身と他の生徒たちとのレベル差を痛感する描写になっていると共に、単に差があるということを超えて、自身が既に先生から見限られているのではないか……と気付いてしまう場面にもなっている。
 見られていなかったのがたまたまであったなら良いが、そうでないならば、毬子はもう、指導時間をかけるだけ無駄だと見做されているということになる。注意されるよりも、これはよほど堪えることだ。


 11ページで、しかし毬子は、母親に対してその焦燥と不安を伝えることができない。
 家で自主練をしていてやはり転んでしまった毬子に、母親は「危ないからもうやめなさい」と声をかける。この母親のセリフは、恐らく毬子にとって、単にこの時の自主練についてだけでなく「バレエ」について云われたものとして響く。
 毬子はそれに対して僅かな「間」の後に、「……次もできなかったら、絶対怒られるよ〜」と曖昧な笑みめいた顔で答える。

 このセリフは「せめて怒られたい」、「あの時先生、私のこと見てもいなかったな」という絶望感と焦り、そして、でもそれは云ったところで多分お母さんには伝わらないのに違いない……という別の絶望感とが、綯い交ぜに表出したものであるように思う。

 学校教育とも会社の新人教育とも違う、残酷なくらいに純粋な実力主義の中では、決定的に才が無いと解ればもう手はかけてもらえない。少なくとも手のかけ方が明らかに変わる。本気の世界であればあるだけ、そういうものだ。
 しかし恐らく、毬子の母にとっては、バレエは勉強の片手間の「お習い事」にすぎない。毬子が身を置く「己を〈そのもの〉に捧げる」世界の感覚は解りようもないのだ。

「もう、指導者に見てさえもらえない」という毬子の絶望感と焦燥は母には伝わらないし、それが全体どういうことであるのかを他人に説明することなど毬子にできるはずはなかった。それを説明することは、自分が見限られたことを認めることであり、劣等感を赤裸々に見せることにほかならない。

 だから毬子は「……次できなかったら絶対怒られるよ〜」という、お母さんにも理解できるレベルの「理由」、そして毬子自身がそうであってほしいと願う──そうでないことを半ば以上確信してしまっている──「予測」を口にすることしかできない。

 母親は、「バレエもいいけど、宿題もやんなさいよ」と云う。それは、「向いてもいないバレエに固執しないで、学生の本分を弁えなさい」といった意味をもって毬子には響くだろうし、実際、母親も幾らかはそのような意味で云っているのだろう。
 その言葉をきいて、毬子はもう曖昧な笑みのようなものをさえ浮かべられずに、「……だって、まだできないのわたしだけなのよ……」と呟く。向いてもいないことに固執してどうするのだと云われても、それでも思いは募るのだ。


 次のレッスンの場面(12ページ)では、毬子はもう、踊っていない。後ろのバーのあたりに立って、音楽に合わせて踊る他の生徒たちを見ている。基本姿勢の維持すらままならない毬子は、音楽に合わせてのレッスンには参加できないのだ。
 スタジオのスペースには限りがあるので、レッスンは交代制になっているはずだ。汗をかいていることからも、毬子は、このシーンの前に踊っていたものと思われる。でも、恐らく、彼女はまた与えられた課題をクリアできなかったのではないだろうか。

 額に汗を浮かべてどこか呆然とした顔をしている毬子。一方、毬子と共に待機する周囲の生徒たちは、毬子よりも手前に描かれた子の背中にさえ汗がない。
 与えられた課題を涼やかにこなすだけの技術と体力が、もうほかの子達にはあるのだ。そういう子達にとっては、この待機時間はひとつの課題を終えて次の指導を待つインターバルだが、毬子は恐らく、与えられた課題をできないまま、集団レッスンから抜けさせられている。

 既に音楽に合わせて踊る段階に進んでいる生徒たちとの、圧倒的なレベル差。まだその段階でない、周囲で待機する生徒たちの中でも、毬子は多分、圧倒的に「できない」。少なくとも毬子自身がそう感じてしまっている。
 このシーンでは、そのような二段階の周囲とのレベル差が克明に描かれている。


 先生から見られてもいないことに気付いて焦りを深め、まだ望みを捨てたくない気持ちと劣等感と、しかしそれは理解されないだろうというある種の孤独感とから、その焦りを母に伝えることはできず、そして次のレッスンにおいて、もう本当に自分は見限られているのだ、厄介者なのだということを悟らざるを得なかった毬子の心持ちを思うと、私は胸が苦しくなる。

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 それでは、男性であるがゆえに、幼い頃憧れた華やかなで可憐な「バレリーナ」にはなれない恵の「できない」絶望はどうだろう。
 この世界が今後ジェンダーフリーに変わっていくのならば、むしろ、恵にはまだチャンスがあるかもしれない。

 恵はトウシューズに、「踊り」というものに選ばれていた。
 彼がプリマドンナとして踊れないのは、「チュチュを身に着けリボンのついた華やかなトウシューズでヒロインを演るのは女性でなくてはならない」というのが、バレエの世界の決め事だからだ。しかしそれはヒトが決めているものなので、そんな日がそう簡単に来るかどうかは別として、いずれ変わらぬとも限らない。

 でも、世界がどう変わったとしても、毬子にチャンスは無い。「踊るということ」に選ばれなかった以上は、バレエの愛し方を変えるしかないのだ。

 毬子はバレエと愛し合うことはできないし、愉しく踊ってきたこれまでさえも、バレエの愉しさ、美しさの本質のその深淵には届いていなかった。努力の果ての、どうにもならない限界を突き付けられる……というのは、愛したものの魅力の奥底に自分は触れられていなかったし、これからも自分には届かない領域があるということを改めて知ることでもある。
 その意味で、毬子は一度も、トウシューズに、踊りというものに、選ばれてはいなかった。

 そうした毬子にとって、望んでも履くことのできないトウシューズで軽やかに踊りながら、それを自ら脱ごうとする恵の姿はどう見えただろう。
「踊り続けることができない」の意味が、踊りに対する「愛しても届かない」の意味が、恵と毬子とでこんなにも違うのに、でも、それぞれに「選ぶほかない」と感じている選択肢は同じであることを、毬子はどう受け留めたのだろう。


 14ページめで、毬子を含めた生徒たちが踊りではない未来を選ぶ話をする時、トウシューズを脱いだ彼女たちの素足がフォーカスされるのが象徴的だ。

「私は公立行くよ」という会話の後、「毬子もそうだよね」という声がかかる。それに一瞬答えあぐねる毬子。そのコマに、彼女の姿は描かれない。中心に鎮座するのは、レッスンが終わって今はもう音楽を奏でないオーディオだ。
 彼女たちは、物理的にトウシューズを脱いで、物理的にバレエ音楽が鳴りやめば、「バレリーナ」ではなくなるのだ。彼女たちを「バレエをする人」たらしめているのはその足を包むトウシューズと、踊りを促すメロディーで、それは外から与えられたものであり、簡単に脱ぐことも止めることもできるのだった。

 しかし、恵は違う。かつて、少女たちのようにリボンのついた華やかなバレエシューズではなく、一人シンプルな男性サイズの布製トウシューズを履いていた恵。そのかつての彼の足元がクローズアップされて、そこへ今の恵のセリフが重ねられる。
「でも、音がやまないんだ」と。
少女たちの華麗なトウシューズに被せられる「でも」と、シンプルな恵のトウシューズに被せられる「音がやまないんだ」は、明確に、「バレリーナとして主演を張れなくとも、それでも、どうしようもなく踊ることを求めてしまう」ということを示している。

 恵は、毬子どころか、ほかの少女たちともまるで違う次元に居るのだ。恵だけが本当の意味で、トウシューズを履いた人間だった。

 トウシューズを脱いでオーディオが止まれば鳴り止まない音に浮かされることもない毬子は、だから、「どうして音がやまないのかわかるよ」と云い、「めぐみはトウシューズが履けないんじゃなくて、もう脱がなくちゃいけないんだよ」と吐き出して、泣く。
 毬子は恵のように、プールの残響音で紛らわせなくてはいけないような鳴りやまぬメロディを持たない。そもそも、そのメロディで踊ったことが無いし、踊ることができない。毬子にとってプールの残響音はただ耳障りなだけだ。そのことが、彼と自分の違いを突き付けてくる。

 12ページで毬子が音楽に合わせて踊る他の生徒たちを見ていた時、多分、音楽は彼女の耳を素通りしていた。描かれる五線譜もまた毬子を素通りして、踊る生徒たちの間を、優しく戯れるようにうねる。踊りのための音楽は、毬子には響かない。
 確かにそこで鳴っているはずなのに素通りしていく他人事めいたメロディと、それに合わせて踊る生徒たちを眺めながら、毬子は胸のうちに「最近いろんなことが、うまくやれなくなってきたよ」と恵に語りかける。そのセリフは、13ページにおいて、プールのガラスドームから射すスポットライトめいた陽光を受けながら静かに目を閉じる恵の姿と対比的に配置される。

 恵もまた背が伸び、身体はますますバレエのヒロインからはほど遠い男性のものになっていく。少女たちに交じって、いつかは……と夢見ながら「うまくやる」ことが、恵も難しくなってしまったのだろう。
 でも、恵はこのプールのシーンにおいて、恐らく聴こえないはずの音楽を聴いている。オーディオが奏でなくとも、バレエ音楽はいつも、望むと望まざると恵の裡にあり、恵を衝き動かす。

 それが、毬子と恵の違いなのだ。
 バレエをやめたのに音が鳴りやまないと云い、「往生際悪いよね」と自嘲する恵を遮るように、「違うよ。どうして音がやまないかわかるよ」と云った毬子は、そのことを、厭というほど解ってしまっている。
 バレエ音楽が物理的にも内的にも、自身のために鳴らない毬子は、もう、本当に、諦めるべき岐路に来ている。一度も本当の意味では「バレリーナ」のトウシューズを履けないままに。

 毬子の「めぐみはトウシューズが履けないんじゃなくて、もう脱がなくちゃいけないんだよ」というセリフは、八つ当たりのようでもあるが、あなたは踊る側の人間なのだという示唆を恵に与えるものでもあった。そしてまた、そうでは在れなかった人間が眼の前に居るのだという叫びでもあった。

 搔き消すべき身を衝き動かす裡なる調べをついに持たなかった毬子は、そのことを、「プールの反響なんてちっともおちつかない」というモノローグと共に噛み締めて、泣いた。

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 その後、毬子は少しずつバレエを諦める。やがて、シニョンにするために伸ばしていたのだろう髪を短く切って、減量もやめてマックを食べて、生活の中に「本気で踊ること」の無い未来へ踏み出していく。
 バレエへと繋がる道を降りて新たな道程の入口に佇む毬子を描く、この物語の紡ぎ手の眼差しは、とても優しい。

 新しい制服を着たショートカットの毬子は、母が記念撮影用のカメラを探す間に、かつてできなかったのだろうポジションを試してみる。
 ピルエットからのドゥミ・プリエ。それは意外にも成功して、毬子は自ら少し気恥ずかしげな顔をし、スカートの裾を直す。

 誰が見ていたわけでもない。ここでたまたまピルエットがようやくできたところで、バレエでやっていけるわけでもない。それでも、最後に、毬子なりの努力が、毬子なりにちゃんと実るのだ。

 毬子は、踊りが愛を返してくれなかったとしても、かつての愛の記憶を友として、人生をやっていく。踊りと愛し合えなくても、疎遠になった、でも大切な友達……くらいの距離感で付き合っていく人生だって良いのだ。
 きっとその友情は、逃れられない狂おしい愛とは違う形で、毬子を支えるだろう。いつも傍らにいるわけではないけれど、振り返ればあの頃あんなに一緒に居たね、という懐かしい友として。

 そして、恵もまた、誰にも見られなくとも踊り続けるのだろう。
 踊りに愛された者がそれをやめることなどできないし、「踊り」の本質は、女性役をできるとかできないとか、その格好で舞台に立てるかどうかなどということとは関係が無い。

 恵は、一人体育館で踊る。

 レッスンをやめてからは、恐らく自主練もほとんどしていなかったのだろう。どうあっても「バレリーナ」にはなれないと強く意識して以来、そんな気持ちにはなれず、踊りから距離を置いていたのに違いない。
 クラシック音楽であるとか、バレエであるとかをやっている人間の一日というのは、ほとんどそれを中心に動く。空き時間は全て練習に捧げるし、そのための「空き時間」を捻出する。そういう生活をしていたならば、プールの手伝いはできないし、ベッドでうだうだしたりもしないはずだ。恵の近況描写は、彼が自主練も含めてバレエから距離を置いていたことを示している。

 練習は、1日しなかったら取り戻すのに3日かかる。3日練習しなければ元に戻すのに一週間。一週間練習しなければ、1か月。本気でやっていればいるだけ、「それ」から離れた時間は如実に結果に現れる。
 だから、練習から離れていた恵は、倒れてしまう。きっとかつての恵なら、こんな倒れ方はしなかったことだろう。

 でも、倒れてしまった後に、恵は眼の前が拓けた顔をする。そうだ、踊るということは、その歓びとは、こういうことだと。彼が本当に愛し、愛されたものは、バレリーナの服ではなかった。多分、バレリーナですらなかった。もっとずっと本質的なもの。
 そのことを知って、恵は再び立ち上がり、誰に見せるためでもなく、今自分が身に着けているのが男子の制服であることも、なにもかも関係無く、独り静かにバレエとだけ手を取りあって、踊り続ける。

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 他の方の感想を拝見して、このシーンで恵が踊っているのは、ジゼルのウィリー(ヴィリス)の踊りであるらしいことを知った。

この方の指摘や、この方の感想です)

 ヴィリスは、若くして恋半ばに死した踊り子たちの幽霊である。スラヴの伝承とされるその名を広く世に知らしめたのは、『ジゼル』の台本の主要な翻案元となった著作の一つ、ハインリッヒ・ハイネの『ドイツ論』だった。

「バレリーナになりたかったふたり の夏」の冒頭ページを見ると、ちょうど真ん中のコマに描かれた本棚のその中央にも、ハイネの『ドイツ論』が並んでいる。
 そして、そのコマの下のコマでは、恵が鳴りやまない調べの中で横たわっている。

 ハイネの記したヴィリスへの憶想は恵に通じるものがあるので、以下に、『ドイツ論』の当該箇所を、岩波の『精霊物語』から小沢俊夫訳で抜粋する。

(略)それは、その地方で「ヴィリス」という名で知られている踊り子たちの幽霊伝説である。ヴィリスは結婚式をあげる前に死んだ花嫁たちである。
 このかわいそうな若い女たちは墓のなかでじっと眠っていることができない。彼女たちの死せる心のなかに、死せる足に、生前自分で十分満足させることができなかったあのダンスのたのしみが今なお生きつづけている。
 そして夜なかに地上にあがってきて、大通りに群れなして集まる。そんなところへでくわした若い男はあわれだ。彼はヴィリスたちと踊らなければならない。彼女らはその若い男に放縦な凶暴さでだきつく。そして彼は休むひまもあらばこそ、彼女らと踊りに踊りぬいてしまいには死んでしまう。(後略)

岩波文庫 『流刑の神々・精霊物語』ハインリヒ・ハイネ著 小沢俊夫訳 p24〜25


「死せる心のなかに、死せる足に、生前自分で十分満足させることができなかったあのダンスのたのしみが今なお生きつづけている」。その一節に、私は恵を想起する。

 恵はバレエという名のヴィリスと踊り続けねばならない「若い男」でもあるが、何よりも恵自身こそがヴィリスであるのだ。誰の目にも見えないとしても、恵は踊り続ける。「あのダンスのたのしみが今なお生きつづけてい」るから──。


 人々にヴィリスの存在を刻み付けた、バレエ『ジゼル』。その台本の原案者であるところのテオフィル・ゴーチエの考える「舞踊の本質」について、慶應義塾大学講師の小山聡子さんは、ゴーチエ自身の言葉を引きながら、次のように指摘している。

 第一に,ゴーチエは舞踊の本質をいかなるものと考えていたか? ゴーチエはこの問題を,舞踊評の中で繰り返し取り上げている。ゴーチェの主張とは,踊る行為以前に存在するストーリーや意味を重視せず,舞踊手の身体の美によってつくられる形や動き,すなわち踊りの振付そのものを舞踊の本質とすることである。彼は既に1837年に次のように書いている ──

   踊りとは畢竟,優美なポーズのもとに美しい
  フォルムを示し,視覚に快い身体の線を展開す
  る以外の目的を持たないのだ。それは沈黙する
  リズム,目で眺める音楽である。
 
   バレリーナに要請されるべき第一条件は美で
  ある,それを忘れては ならない。[中略]
  ダンスとは,身体の線の展開にあったさまざま
  なポジションのもとに,優雅で精緻なフォルム
  を見せる芸以外の何ものでもない。

 当時のフランスでは舞踊に論理的な意味やストーリーを求める傾向が強かった。
 そうした中でこの考え方は非常に例外的で斬新である。

小山聡子「テオフィル・ゴーチエによるバレエ『ジゼル』原案について」/「藝文研究」78巻/慶應義塾大学藝文学会/2000年6月 p.377

 
 踊りとは、身体によって現出せしめられた、沈黙するリズム、目で眺める音楽。それ以外の何ものでもない──。

『ジゼル』もまた、そのようなゴーチエの思想に基づいてこの世に生まれたのだ。
 第一幕はゴーチエの思想からは結果的に離れてしまったことを小山さんは指摘しているが、第二幕のヴィリスたちの踊りは、ゴーチエの原案どおりではないものの、明確に彼の舞踊観が反映されていると云う。
 筋よりも踊りの本質を重視するゴーチエの思想は当時のフランスにおいて早すぎたが、しかし、二十世紀バレエにも通じていく現代性を持っており、その結晶が、今なおバレエの頂点を極める『ジゼル』第二幕、即ちヴィリスの踊りである──というのが、小山さんの指摘するところだ。

 ゴーチエが踊りの本質を、その歓びを注ぎ込んだヴィリスたちの踊り。
 幽けき亡霊となってなお、かつてのダンスの歓びそのままに踊り続ける『ジゼル』のヴィリスたちのその踊りを、恵は独りで踊り続ける。

 かつて早すぎたゴーチエの舞踊観が、やがて二十世紀バレエの潮流へと連なっていくように、踊りの本質的至福のままに〈性〉を超えて〈生〉を超えたヴィリスで在り続ける恵もまた、この世界の行く末で、いつか当たり前に在ることができるようになるだろう。そうであると良い。

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 好きなものに真剣に取り組むことの歓びと苦さ、愛したものに愛されるわけではない、その孤独。それぞれが否応無く「そう在るしかない」向き合い方。
 一見、ジェンダーの話であるように見えもするのだが、多分本作の主眼はむしろそういったところにあるのだろうな、と思う。

「そのもの」から逃れられない人生にも、「そのもの」に届かない人生にも、それぞれの「その先」がある。そのひとつの岐路の一瞬を切り取った、鮮やかな短篇だった。


 本郷さんの単行本『明日、シネマかすみ座で』にも恵くんが出てくると聞いて、彼のその後の歩みが見られるのなら是非読まなくては、と思っているところだ。

 




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