第11回現代短歌社賞「わるく思わないで」(井口可奈)への長い長い雑感――ことばと新人賞「かにくはなくては」雑感を添えて

 後輩、というか友人(この歳になると二、三歳程度の年齢差などあって無いようなものだ)の中村きのこ、こと井口可奈が現代短歌社賞を受賞した。めでたい。めでたいので、一緒に気の違った量のケーキと焼肉を食べた。良質な脂、良質なカロリーは液体のように内臓に馴染むらしく、中年二人でもぺろりといけてしまった。こわい。

 彼女の短歌をまとまって読んだのは、実は今回が初めてだった。それというのも、私は韻文を読むことが苦手だからだ。
 韻文は小説以上に、イマジネーションの飛躍を可能にする、鋭利に研ぎ澄まされたことばの群れであると思う。
 韻文的な感性で書かれた小説というものはあるし、井口可奈の小説作品はまさにそのようなことばの感性に貫かれているのだが、小説のことばと韻文のことばとは、少し性質の異なるものである気が、私はしている。井口可奈は韻文的なことばを小説のかたちへも昇華できる作家のひとりだ。
 ところが、それを読む私には、韻文的なるものを的確に捉える受容体が無い。そのために、私は韻文に対して苦手意識があるのだった。

 小説に関して云えば、井口可奈はわりあい最近「かにくはなくては」で、第4回ことばと新人賞佳作を獲っている。これがまた大変に良い作品であるので、本作についてはいずれ別途きちんとした(?)感想を書きたいと思うが、現代短歌社賞受賞作「わるく思わないで」の雑感を記すにあたって、ここでも、小説「かにくはなくては」に少しだけ触れておきたい。小説の話のほうが語りやすい、という私の都合もあるにはあるが、何より、「わるく思わないで」300首のうち、少なくとも「現代短歌」に掲載された30首は、小説「かにくはなくては」で描かれたことと通底しているように思われるから。


 選評を読むと、「かにくはなくては」は審査員からさえ、わけが解らない何かをわけが解らないままぽんと放り出してある小説、云ってみれば描かれていることに特に具体的テーマ性は無い作品、という読まれ方をしているらしく思われ、私はそのことに驚いた。私自身はこの作品を、わけのわからない不条理を面白がるタイプの小説だとは全く感じなかったからだ。
 むしろ、本作はいかにも純文学的な「自己と、他者としての世界との間に発生する違和との折り合い方」について真摯に向き合う、かなりテーマ性の強い作品であるように思う。

 冒頭から登場する「かに的なるもの」、それと対比される「豚バラ的なるもの」がそれぞれぜんたい何のメタファーであるか、そのことを解りやすく示すために、著者がかなり心を砕いているのが感じられる。作中の全ての要素が、それらを読者に段階的に理解してもらうために巧まれて配置されていると云ってもよい。

 例えば、かには、温室すなわち自身の裡なる本来の居場所、心奥とでも云うべき場所にこそ最も多く実る。そしてその場所とお手洗い──すなわち自身が身の裡にとりこんで蓄積しやがて変容した様々なものを、自身の裡から排出する場──との間を繋ぐ通路にも埋まっていて、非常灯のように光を放ち、暗い道を照らす標ともなる。加えて、その光は、最もかに的である部位とも云うべき「かにみそ」において、より強く放たれる。
 これだけで、まず、「かに」がなにがしか個人に内在する性質や感覚のメタファーであるらしいことが浮かび上がってくる。

 作中、かに的なる性質は人によって有する割合が異なり、まるで有していない人も多いことが描かれ、語られる。また、他者のかに的なる性質を摂取することで、「かに」的ではない人であっても後天的にある程度その要素は自己の内部に補填できるらしい……ということも後半で示される。しかし、自らが本来的に有しているのではない「かに的なるもの」を血肉として定着させるのはやはり難しいようで、定期的に摂取し、咀嚼し、かに的であろうとする営みを続けていく必要があるという。
 これらを考え合わせると、作中で語られる「かに的なるもの」は謂わば感性の領域の性質を指し示し、「かに的なるもの」の補填行為とは、読書であるとか芸術作品の鑑賞であるとか、そういった行為とそれが個人に齎す効能のメタファーであるらしいことが見えてくる。
 そして「作品の受容」というものは、遣り方を過てばその意図に拘らず、時として作品の消費・作家性の搾取になってしまうこともある。恐らく、この作品にはそういったことまで含意されている。

 一方、豚バラの性質は世俗の醜悪な残酷さにも繋がるけれど、何と云っても美味いしカロリー満点。脂ぎってギトギトだったりするが、それも含めて、世間の大体の人は豚バラが好きだ。そして面白いことに、豚バラもまた上手いこと正しく扱えれば、機能の仕方は異なるものの、かに的なるものと同様に自己の領域と世俗とを繋ぐ標になってくれる。
 便利で不思議な豚バラステッキ! 登場した時には思わず笑ってしまった。その発想の的確さとユーモラスさに舌を巻く。

 かに的なるものと豚バラ的なるものは、強烈に対立する要素でもあるが、しかし、どちらも実は同じところに人を導くことが可能であり、同時に、どちらにもそれぞれ、危うい要素がある。
 美味しい豚バラチャーシューを作って喰わせてくれる人の良いラーメン屋の親父であるとか、豚バラステッキであるとか、二つのバランスが取れていないとなかなか生きにくいというセリフであるとか。そうしたものを通じて、本作では、この両つの要素が単なる対立項ではないこと、「豚バラ的なるものは害悪でかに的なるものが善きものである」と主張したいわけでは全くないのだ……ということも、きちんと示されている。

 社会で生きていく以上は、豚バラ的性質もまた幾らかは持っておく必要のあるものなのだということ。
 豚バラ的性質が著しく強く、かに的なるものをイメージすらできない者にとっては、「かに的なる者」の存在やその本質が「そこに在る」ということすら認識困難で、時に不可視化され、実在すら疑わしいものと感ぜられてしまうということ。
 そしてまた、そのことはかに的なるものへの悪意や好悪とは必ずしも関係無く、たとえ家族であってもそのような不可視化に至るような、ほとんど断絶とも呼ぶべき「わからなさ」「わかられなさ」は生じうるのだということ。

 かに的なる性質を持っていないくせに「持っている人」を装い、自分を蟹だと思い込もうとしている蟹男の、矮小な惨めさ。脆弱でお粗末なハリボテで蟹の外形を真似る蟹男に対して、豚バラ的なる性質をも手にしたがまだそれを扱いきれずにいる主人公、すなわち「かに的なる性質が極端に強く、その自覚もある者」は、ひどく残忍な心持ちを抱く。蟹男の悲哀に苛立ちを覚えて甚振ってしまう、しかもそこに暗い愉悦を感じてしまう、その感情のリアリティ……。
 その主人公の姿は、悪い意味での「豚バラ的なる者」の典型として描かれたかつての同級生の姿・行為と重なり合うように、作中に置かれている。

 そういった「かに的なるもの」と「豚バラ的なるもの」をめぐる事柄が、本作では丁寧に描かれていくのである。


「かに的なるもの」──すなわち、個人にとって否応なく生とその意味の本質そのものであるが、しかし集合体としての「世間一般」の括りとは時に上手く折り合えないこともある謂わば「感性」に属する性質──と、「豚バラ的なるもの」──すなわち、世間一般で生きていくのに必要であるが時に個人がその枠からはみ出すことを強烈に忌避する、良く言えば「常識」、悪く言えば「俗悪」、もう少しバランスを取って云うならば「世俗的」なるもの……に属する類いの性質──、そして生きていく上でのそれらのバランスの重要性と困難さ……。「かにくはなくては」は、とても雑に云うならば、そうしたものを描いた作品であろうと思う。
 徹頭徹尾、ずっとその話をしている小説なのであって、だから、全然わけが解らなくはない。

 そしてまたそのことは、「イマジネーションの飛躍のある言語表現」「ワンダー(驚異)のある小説表現」の面白さがこの作品に無い、ということを全く意味しない。むしろ本作はそのようなワンダーに満ちている! その上で、丁寧に筋道立って、描くべきテーマの輪郭を照射していく作品であるのだ。それを両立させる手腕にこそ、小説家としての井口可奈という作家の稀有な強みと凄みがある。

 こと本作に限って云えば、「この作品はこう読めば良いんですよ」という補助線を、ちょっと過剰なほど親切に引いてくれている小説であるように、私には感じられた。どちらがよいというのではないが、井口可奈のもっと昔の小説作品は、もう少し読者の「ことばのイマジネーションによる連想能力」を、ある種信頼する書き方がなされていたように思う。

「かにくはなくては」で描かれたことを、もしもこれ以上に「わかりよく」書こうとするならば、それはもう小説の枠組みのことばではなく、論説文の、つまり、豚バラのことばになるしかないのではないか? という気がする。(この無粋な文章がまさにそれなわけだけれども)。


 さて、「かにくはなくては」の解釈論はいずれもう少しきちんと書くものとして、この記事で書きたいのは短歌群(そんな言い方があるのか解らない、多分無いのだが、どう書いて良いか解らないのでこう書きます。それくらい、私は短歌無知無知ギャルです)「わるく思わないで」の雑感である。

 と云っても、先述したとおり、私は短歌というか、韻文が解らない。
 韻文における「かに的なる性質」が、私は極端に弱いのだ。その苦手意識のせいで、後天的にかにを補うことも、ほとんどして来なかった。
 小説の場合は私の持つ豚バラステッキがわりあい良い形で機能しやすく、私の中の多少の「かに的なるもの」も上手く発光して筋道を照らしてくれるので、「全然わからない」と途方に暮れることは、幸い、そんなに無い気がしている。(尤もそれは、私の読書量があまりに少なすぎるから、まだ手に余るような作品に出逢っていないだけという可能性が非常に高い)。

 ところが、韻文になるとそうはいかない。かにが駄目なら豚バラステッキ、この場合で云えば「理論」とか「メソッド」に頼りたいところだが、短歌には本歌取りの文化もあるし、先行する歌や歌人といった土壌みたいなものが、詠むにも読むにも大きく影響してくるような、ある種の「作法」が必要になるイメージがある。
 小説にだって一定の「読みの作法」はあるにはあるのだが、韻文のそれとはちょっと性質というか、位相が違う……という感じがする。(なお、今私が何もかもの文末を曖昧に濁しているのは、私が短歌や韻文のことをまるで解らずにイメージと偏見で話しているからです)。
 つまり、韻文における「かに的なるもの」と豚バラステッキ的なものの両方を私は持っていないわけで、これではどうにもならない。

 どうにもならないのだが、しかし「わるく思わないで」を読んで驚いたのは、まず、全ての歌がスッと気持ちの良いリズムでからだに入ってくるということだ。平易なことばで、かつ極めて韻文的に優れた言語センスでもって紡がれている。
 これは私の個人的な感覚だけれど、韻文については、平易な言葉であればあるだけ剥き身の「本質」に近い感じがあって、纏うものの少ない分、「紐解く」のが難しい。感性で理解できないと、もう手が届かない……という気がしてしまう。
 ところがこの歌たちは、そのことばの連なりの強度ゆえであろうか、「韻文が読めない人」(=私)「韻文の素養がまるでない人」(=私)であっても、あるところまでは小説の読み方でも読むことが可能で、私は再び驚く。つまり、結構、「どうにかなる」のだ、ある程度は。どうにかなるように、より多くに届くようにつくられている。

 ここで付記しておくと、本来300首の作品である「わるく思わないで」から30首をピックアップしたものを、このようにストーリー性をもって読み得るということは、恐らく選者の選定と並べ方の妙でもあろうと思う。編み手の仕事としても、この誌面は実に見事だと感じた。

「わるく思わないで」に話を戻す。
 井口可奈はことばの遣い手の本質として、韻文の畠の生まれ育ちであると、私は認識している。当然、短歌にしろ俳句にしろ、厖大なインプットが、彼女の裡にはあるだろう。しかし、彼女の作品たちはしなやかで、「私を育てた土や水は確かにあるけど、そんな来歴を知らなくたって、ここに稔った果実は誰でも美味しく味わえるよ! 難しいことは置いといて、食べちゃお!」という健康な色艶をしている。
 どう云えば良いのか、決して世間に迎合するような歌ではないし、解ってほしいというような欲求を前面に打ち出した作風でも全くないと思う。むしろ小説と同じく自己と他者の間に生まれる断絶めいたものとの葛藤とバランスとを、真摯に、でも軽やかにひとり歌い続けているように見えるのだが、同時に、豊かに開かれている感じがする。

 以下、現代短歌に掲載された「わるく思わないで」からの30首抜粋と選評とを読みながらだらだら井口可奈本人に送った感想を、少し手直しして載せておく。

──────────────

 あ、この短歌たちには、かにくはなくてはに通じることがかかれている、という気がした。たとえば、

身から錆みたいに手から海老が出てぽんぽん揚げるわたも取らずに

「現代短歌」No.100  29ページ

であるとか。同じ甲殻類だからということでもないのだが、でも、それも自分の中ではイメージが通じたところはあるのかもしれない。

 掲載された冒頭4首に、他者とのどうにもならない断絶、その断絶にすら無自覚な他者の存在、それでもとにかく望むと望まざるとそうした他者と接する機会がどうしてもあるということ、その時に自分の中に生じてしまうもの……。そういうものの手触りを、私は、今この場のことみたいに蘇らせられてしまった。
 あんまり自分の感覚にひきつけて作品を受け留めすぎるのは、きっとよい鑑賞ではないなとも思うのだけれど、この四首は、もう、ぶわっとそうなってしまったのだ。

 ここで私の云う「他者」とは、単に「他人」のことであるよりは、自己と異なる全て、自己の外の「世界」に属する総てに包含されているところの者……というニュアンスが近い。

あなたたち(わたしたち、とあなたたちは言った)ゆっくりすべりおちる滑り台

前掲26ページ

 思わず「うわあ……」という声が出た。そのどうしようもない諦念の底冷えするような手触りが、あまりにそのまま、今、ここに、立ち顕れたので。

 あなたたちの中にあなたたちの範疇の言葉とその連なりとしての思考で自覚すらなく勝手に私を括らないでくれ、ましてやそのように括ることに何かの意味を持たせようとすることは……! と思わずにいられないことが、かなりある。
 でもそういう私の言葉は「わたし」のものとして「たち」から切り離して他者に受け留めてもらうことが、どうやらとても難しいのらしい。
 私の背景には、勝手に「あなたたち」の知るほかの誰かや何かが読み込まれ(なるほど、テクストとしての「わたし」なるものとは確かに常にそうであるほかないのだろうが)、その一方で、あやまたず示そうと慎重に選んだつもりでいた「私」のことばの端々は「あなたたち」に無造作に読み替えられ、あるいは読み落とされてしまう。

 そのようにして「わたしたち」ということばで「あなたたち」から括られたり除外されたりするたびに、色んなことを諦めているな、と思う。
 そうして諦めるしかない場面に出会すたびに、ゆるやかに「あなたたち」は私から遠ざかり、ああもう一緒に居られないね、と私は思う。
 それはある意味では私が「あなたたち」を下に見ることなのかもしれないのだけれど、決してそんなふうに思いたいわけではない。しかし、でも、やっぱり、もう少し俯瞰した視点を持てる場所に立ってほしいのだけどな……と「あなたたち」に思ってしまう。それはやはり下に見ること、その傲慢であるのだろうか。そうなのだろう、という気持ちと、そうなのか、本当に? という気持ちとが、在る。

 そのような場面や出来事は、私にとっては「あなたたち」があなたたちの愉しい遊戯として独自のルールでもって(そして子供らしい邪気を伴って。子供が無邪気だというのは嘘だ)自ら望んで滑り落ちることで「わたし」の居る場所から離れ落ちていく現象に見える。
 でもきっと、彼らにしてみれば私こそが、滑り台遊びで一緒に落ちようと云っているのに「私はあんまり興味が無いから」と一人高みの見物を決め込んでいる、お高く止まった厭な子供に見えているのかもしれないな、と思う。
 そしてまた実際、私は、そのような「厭な子供」であるのかもしれない。

 あなたたちとか、わたしたちとか(彼らが云う「わたしたち」とは、まったく、いつでも私にとっては「あなたたち」である!)そういう言葉に思う色んなことが、全部ここに、この歌に凝縮されていて、なので私は「うわあ……」と声が出てしまったのだった。

「あなたたち」というふうに私も括りたくない、括りたくないけれど、あなたたちが「わたしたち」という括り方で「あなたたち」として連帯したがるから、じゃあもう、私もあなたたちを括りますね……という諦念と苛立ちと自分で自分を裏切るような居心地の悪さと、でも仕方が無いな……という気持ちと。
 この歌で繰り返される「あなたたち」ということばのうちにそうした響きを聴いて(幻聴かもしれません)、私は「ぐわあ……」と呻く。

 その、「うわあ……」や「ぐわあ……」は、日常で感じる時は間違い無くダメージで、それは結構いつも抱えていて、まあそれが生きてくということなんでしょう、と解ったような顔をして普段を過ごしているのだけれど、皆これに堪えているのだろうし(本当か?)、まあこのくらいのことはね……と自分を宥めながら誤魔化し誤魔化し日々をやっているようなところがある。そのことを、

どうしても熱がありそれは微熱で、隠せないほどではないけれど

前掲26ページ「わるく思わないで」1首め

で、鮮やかに突き付けられる。これに続く

残念なことばかりが頭の中にあるそれでも夕食は炒飯

前掲26ページ2首め

で、こういう小さな、しかし確実にダメージとして蓄積していく諸々を抱えて、だけど美味いもん喰って、つまり自分の機嫌をとりながらバランスを取って、生きていかなくてはね……みたいなことを思う。
 一方で、そんな「生きていかなくてはね」なんてことさらに思うまでもなく自分の中がどんなでも美味いもんはいつだって美味くて、何故なら飯もまた俺の「他者」だからなあ……などとも思い、そしてまたそれらのことには、諦念に似たやり切れなさと、諦念に似た救いとが、ふたつながらあるな……と思った。


 30首の短歌はそういうところから始まる。
 そして次には、そのような「微熱」を生んでいく、気まぐれでよくわかんない「あなたたち」への「対話できる気がしない」という気持ち、読み手である私(今この文章を書いている私個人)にとってはほとんど怒りに似た諦念であるところのその気持ちを、ぐわっと素手で掴まれるような、

夏の雨わかられているという気がしないんだよね。あなたたちには

前掲26ページ3首め

という歌と、前掲のあなたたちわたしたちの歌の二首とが畳み掛けてくる。
「、」でも空白でもない。「。」による、「わかられているという気がしないんだよね。」という投げ出された断言に、対話が可能であるとあなたたちに思うことがもう本当に無理なのだ、という感覚が如実に表れている気がする。

「あなたたち」のことを気紛れでよくわからないと感じるのは、彼らの発話の背景に「わたし」が思い至らず、互いが異なる文脈に立っているためかもしれないのだが、しかし少なくとも「わたし」からは「あなたたち」がそのように見えてしまう。あるいは、「あなたたち」から見た「わたし」もそうなのだろう。
「夏の雨」はコロコロ変わって、まるで読むことができない。無論、雨が降るには降るなりの合理があるが、しかし同時に、雨はこちらの都合に配慮したり寄り添ったりすることは決して無い。人間もまた、雨をコントロールすることはできない。そうして、気紛れに降る雨は、じめじめした夏の湿度を更に高めて気を滅入らせる。雨に罪のあるわけでもないのだが、しかし、それはもう、何だかどうしようもなく「そう」なのだ。

 それでは、ここに並べられた30首の一連の歌の中ではずっとそういう「対話不能であることの苦痛」が描かれていくのかというと、そんなことは全くないのだ。

あの服みんな着てるよなって服が服屋で少し違う色

あたりから、「わたしたち」「あなたたち」ではなく、「わたし」と「あなた」のこと、それぞれを括らずにいまいちど「わたし」自身や「あなた」を捉えていく営みが試みられているように思われる。

くらがりになにか座っているそれはわたしでした!みたいなことじゃなく

この歌にも、それがよく現れている。
「それはわたしでした!」という安易な同化や同定を、この歌の主体はよしとしない。そう云ってしまえば楽かもしれないところを、慎重に「みたいなことじゃなく」と客観する距離を保つ。
 この歌からは、単に「集団」からの距離というよりは、「わたし」や「あなた」を個として捉え、自己をさえ安直に定義せずに見極め、ただしく個として在ろうとする意志を感じる。

 括られることや自己と他者のどうしようもない断絶への著しい疲弊と、それでも個を見つめていこうとする営み。恐らくその転換に置かれているのが、

洗濯機まわるエリーゼのためにかもしれない曲はほそながい川

の歌であるように私は思う。
 上手く聴き取れないがどこからかかそけく聴こえる、知らない誰かの弾くか流すかしているのだろう「エリーゼのために」、楽聖が決して成就しないことを知りながらそれでも無償の愛を託した輪舞形式のその曲。今流れているのが本当に「エリーゼのために」かどうかは解らない、別の楽曲であるかもしれないけれど、でも、「エリーゼのために」であるかもしれないと、この歌の主体は(もしかしたら半ば祈るように)思っている。眼の前でまわる洗濯機の輪舞曲ロンド、その水流はひとところで今は激流めいてぐるぐる回っているけれど、やわらかに紐解いていくならば、それはいつか「エリーゼのために」へと連なっていく細くて長い水脈に変わるのかもしれないし、あるいは、こうして回っている今だって本質的にはそうであるのかもしれない。

 この歌の主体は、「わかられているという気がしないんだよね。」という冷え冷えとした諦念を知っているが、それでもなお、この世界に対する愛みたいなもの、エリーゼのために的なるものの微かな気配を日常の中に聴き取り、洗濯機の中の自家撞着めく水の渦に、か細いが途切れること無く世界へと繋がっていく水脈を見出してみせるのだ。

 もっとも、本来は300首の作品群であるわけなので、この30首だけを見てその中でこの歌を「転換点」という取り方をするのも変なのかな、妥当ではないことなのかな、とも思うけれど。

うすまっていくジュース飲むすこしだけ熱があるから鳩とばないで

の歌で、再び「微熱」という語が出てきて、「うすまっていくジュース」に自分の機嫌を取ることの難しさが少し滲む。弱ってると色々難しい時がある。
 そんな時、穏やかであろうとする心を持ち続けることを志向する意志と、だからこそ胸をざわめかせないでほしいという息を潜めるような祈り。

 そうした微熱に苛まれながら、でも、それでも、やわらかで甘くて美味い、壊れやすくて簡単にぐちゃぐちゃになってしまう杏仁豆腐を、この人、この歌の主体は「どうでしょうすべてわたしに任せてみるのは」と云うのだ!

これからの杏仁豆腐どうでしょうすべてわたしに任せてみるのは

 杏仁豆腐は、元々漢方薬であるところの杏の仁(核)を、苦味を抑えて服用しやすくするために生まれたたべものだ。何事かの核心とその苦味とを包み、やわらかに甘く香りながらつるりと喉を抜けていく、しかしすぐに壊れてしまいかねない儚さの、「杏仁豆腐」というもの。
 その、扱いの難しい繊細ななにものかを、「任せなさい」と自信満々なわけでも、押し付けがましいわけでもなく、むしろ「どうでしょう」と他者にそっと伺いを立てながら、しかし同時に覚悟をもって、自ら引き受ける。それも、ことさら重々しい覚悟ではなくて、肩の力の抜けた軽妙ささえ感じる。この歌の主体(作者という意味ではない。作者という言葉の、なんと扱いの難しいことだろう)は、既にそのようなしなやかな強さを有しているのだ。
 それはこの人があのエリーゼのためにの「ほそながい川」をゆっくりと巡って、そして今もなおめぐりながら体得していったものなんだろう……というようなことを思う。

ベーグルにやさしくしたい噛みちぎるときに狩猟の気持ちがよぎる

という30首最後の歌の、凶暴な野生の気持ち、もし私ならば「わかられているという気がしないんだよね。」となった時に同時に生まれるそれに近いかもしれないそれを、弾力のある美味しいもちもちベーグルにぶつけるところとか、それでも「やさしくしたい」という気持ちであるとか。
 そこに、冒頭の不穏さが、解消の方法とバランス感覚とを得てユーモラスに昇華された気持ちのよさを私は感じる。

 私もベーグルにやさしくしたい人であれたらなあと思うが、同時に、やっぱり狩猟の気持ちがよぎる瞬間が私の人生にもある、と思う。せめてベーグルにぶつけるくらいの、ユーモラスな程度の「遣り場」と「遣り方」を見付けていきたいし、きっとそれが上手く生きていくということなんだろう。

──────────────────

 
 評を少しずつ読んでいる。

和菓子屋のわたしと遠いたたずまい愛はそこにもあるかもしれない

 この歌、私も好きだ。あ、断絶を投げ出さないのだな、そういう連作では全然ないのだ、ということが、この歌で明確に示される。その意味ではこの歌も30首の並びのなかのひとつの転換点、あるいは標石みたいな感じがする。

 大辻さんは「和菓子屋のわたし」という区切り方でこの歌を捉えているのだが、私は「和菓子屋の/わたしと遠いたたずまい」という区切りで捉えており、「和菓子屋というもの」の持つ空気や良さは「わたし」的なるものからは遠いけれど、でも「わたし」はそのような和菓子屋とか和菓子を好ましく思っていて、そのことこそが意外と「愛」というものの核心であったりするのかもな、みたいな歌なのだととった。
 なので、大辻さんの仰言る、和菓子屋の女将になった私と今の私との対比という発想は全然無かったから、ええーっ面白い読み方……! と思った。人に読まれるって面白い、こんなに違うのだな。そこで区切るなら、確かにそういう情景を導くことも可能だ。

 杏仁豆腐の歌も、全然自分とは捉え方が異なっていて、驚く。愉しい驚きだ。なるほど、音! 私は韻律の感覚が弱いから、そのへんの良さはパッとはなかなか入ってこないところがあって(もちろん、リズム気持ちいい! という程度の感覚はある)、なので、ああ〜確かに! となりながら大辻さんの評を読んだ。
 この歌の具体的な解釈や想起されるイメージについては、大辻さんの言は私にはそんなにしっくり嵌ったわけではないのだけれど、それは着目したり自分の中に刺さってくるものの違いなんだろうなと思う。へえ、そういうふうに情景を想起するのか……! という面白さがある。 

 杏仁豆腐の歌で云うと、私はこの歌は仁丹の歌と響き合っている気がしている。先ほどの私の杏仁豆腐の歌の感想にも、仁丹の歌の影響が出ていると思うので、仁丹の歌のはなしもしておこう。

さわらないようにしている仁丹をあなたはぐちゃぐちゃにさわれてすごい

 かなり攻撃力の高い歌だ。
 仁丹は元は気付け薬として、今は清涼剤的なものとして知られる商品だが、ここではなにとなし、例えば『西遊記』の八卦炉が生命あるものを取り込んで練り上げる「仙丹」に近いイメージも重なってくるように思う。つまり、なにものかの核心を凝縮したような、ある種神聖ですらあるもの……。「仁」(核)と「丹」(練り上げられた丸薬)の意味するところがそうしたイメージを喚び起こし、かつまた、「杏仁豆腐」のイメージへと連なっていく。私にはそんなふうに感じられるのだった。
 それを「ぐちゃぐちゃにさわれてすごい」というのは、本当に褒めているというよりは、ものごとの核の解らなさ、そして解っていないからこそ無造作に触ってぐちゃぐちゃにできてしまうその無神経さへの、呆れと羨ましさとを伴う驚嘆だろう。
 この言葉をもしも自分が向けられたら……と思うと呼吸が止まる。でも、多分、誰かからこれを思われていることが、絶対にある。私自身だって、誰かにこれを思うことがある……。どうです、この、破壊力の高さ! 

 ところが、先述のとおり、終盤の杏仁豆腐の歌では、同じ「ものごとの核心に触れるということ」を歌いながらも、この歌の主体は「どうでしょうすべてわたしに任せてみるのは」と云うのだ。
 仁丹の歌から杏仁豆腐の歌への流れを見ると、一連の歌の主体の中に、大事なものを「さわらないようにして」おくことをやめ慎重に触れていこうとする態度、今ならばそれを試みていくことができるという、自らに対する信頼のようなものが生まれていることが見て取れるように思われる。
 私は、そのような文脈でこの二つの歌を読んだ。


 北山さんの評のことばについては、私にはあまりよく解らなかった。

 この30首を見る限り、北山さんが評するような「ガーリー」さであるとか、「不思議」──この「不思議」はニュアンスとしては恐らくプラスの意味の、つまりワンダーの意味の「不思議」ではなくて、「ガーリー」に付随するものとしての「不思議ちゃん」といった、どちらかというとややマイナスの意味合いに近いものとして仰言っているような気もするのだが、その前提で合っているとするならば──そういった要素を見出すことは、むしろ困難なことばの群れであるように、私には思える。
 何故そのように私が考えるかについては、ここまで綴ってきた読みによって既に示していると思うけれど、いま少し詳しく書き足しておこう。

「ガーリー」という言葉は、ここでは、「幼い女性性」といった意味合いで用いられていると見て、概ねよいだろうと思う。
 そこで、まずはこの歌から「幼さ」を読み取るのは難しいのではないかと私が考える理由を示す。

 まず、この短歌群に顕著なのは、自己と他者との関わりによって生ずる摩擦や断絶、そうしたものとの付き合い方とバランス、それを体得していく難しさである。
 しかも、これらの歌の主体は、どうやらそのような自己と他者の困難をうんざりするほど実感しているにもかかわらず、世界を、そこで生きていくことを、愛そうとしているし、実際それなりに愛しているらしいのだ。
 その愛着や愛おしみのようなものの気配は、既に示したとおり、和菓子屋の歌、エリーゼのためにの歌、そして杏仁豆腐の歌あたりに色濃い。
 自己と他者の葛藤の怒りを描くだけであったなら、少女的であるかはともかくとして確かに思春期的ではあるのかもしれないのだが、ここまで述べてきたような愛おしみとバランスの難しさとを知るこの歌の主体からは、むしろ思春期を抜けた成熟を感ずるように私は思う。

 次に、「ガーリー」に含まれるある種の女性性をこの短歌群から読み取ることが可能であるのかどうかも見ておこう。

 北山さんが読み取られたとおり、これらの歌の主体が女性であるとして、この短歌群で歌われている「困難さ」のうちには確かに「女性たるわたし」と「それに対する他者としての世界」との間の困難さを含む部分も当然無いわけではない、のだろうが、それは「わたし」の中に「女性である」という要素があくまで一要素として含まれるからにすぎず、その困難さの本質は、「女性性」に還元されるものでは決してないように思う。

 例えば、「わかられているという気がしないんだよね。あなたたちには」の冷え冷えとした諦念は、ジェンダーを問わず、普遍のものではないのだろうか。
 あるいは、「あなたたち」「わたしたち」と雑にカテゴライズして断絶し合うディスコミュニケーションも、ジェンダーとは何ら関係が無いものであるように、私には思われる。

「幼さ」や「女性性」からやや離れた話になるが──とは云いつつも、実は相通じている気もしているのだが──「わるく思わないで」の主体を「喧嘩っ早い」と評する北山さんのことばも、私には幾分意外だった。
 むしろ、対話すら困難であることへの「どうすりゃいいの」という諦念であるとか、あるいは怒りであるにしても、外に向けてバチバチやり合うような攻撃性というよりは自己の内部で燻るそれのほうが強く表出した短歌群であるように、私には思える。その意味では、これらの歌から立ち上がってくる主体は、むしろ「喧嘩っ早」くなれない人……である気さえする。だからこそ、

サーフボード倒してまわるほかのみんなにはできないことをできてどうする

というように、明るく愉しい海辺でサーフィンを愉しむ「ほかのみんな」、あるいはそれを眺めて愉しそうだねえと受け容れている「ほかのみんな」、またあるいは本当はちょっと迷惑だなとか自分とは相容れないなと思いつつ目を逸らしてやり過ごす「ほかのみんな」との対比として、そんなことをしたいつもりでは決してないのに「みんなにとって愉しいこと」「みんながとりあえずそういうものとして受け容れているもの」を台無しにしてしまうことのある自分への忸怩たる思いと、でも、皆が愉しそうにしていたり迎合していたりするものが良いものなわけではないし、反発するものがあったって良いよな……という思いと、いやでも自分が積極的にそうしたいというわけでもなくて……のせめぎあいが「できてどうする」のフレーズに立ち顕れてくるのではあるまいか。

 北山さんはこの歌を以下のように評している。

サーフィンってちょっと特別だから、そういうことにはあまり価値をこの人は見出していない。なんだけど、サーファーにとってはサーフボード倒して回られても迷惑じゃないですか。なんかそういう、ちょっといちゃもんつけてるみたいな感じがキュートでおもしろいなと思って。

前掲32ページ

 そして、その前提として北山さんがこの短歌群を以下のように位置付けていることが示されている。

これといった通しのテーマは薄いみたいなお話だったんですけど、私は、バンクシーみたいな、なんて言うんですか、ちょっと喧嘩腰で、世間をおちょくるみたいな。そういうところがあるなと思って読んでました。

 私には、この歌は、北山さんの読み取った「自分にとって価値のない、他者にとっての特別な何かへのいちゃもんをつけるキュートな喧嘩っ早さ」よりも、前述したような心情のせめぎあいにこそ主眼があるように思われる。 
 もし本当にこの歌の主体が喧嘩っ早いなら、「できてどうする」ではなくて、「サーフボード倒してやれ」といった方向性になりそうなものだ……という気がするのだが、どうだろうか。もっとも、「喧嘩っ早い」の基準は人それぞれではあろうから、どうあれサーフボードを倒してる時点で喧嘩っ早いと見做すというのであれば、それは確かに、そういう取り方もあるだろうな……とは思う。

 また、この読み方の相違は、「みんなにはできないこと」を「サーフボード倒してまわる」行為であると取るか、「サーフボードで愉しむこと」のほうであると取るかによって生じた違いかもしれない。
 北山さんは「サーフィンってちょっと特別だから」と述べており、このことばからは「サーフボードで愉しむこと」を「みんなにはできないこと」と位置付けていることがわかる。その文脈でいくと、確かに「みんなにはできないことをできてどうする」という言葉はこの歌の主体から「みんなにはできないサーフィンというレジャーをする人」に向けたものという取り方になるだろうし、「サーフボードたおしてまわる」という行為も、サーファーへの苛立ちの発露という取り方になるのだろう。筋道としては解る。
 しかし一方で北山さんは、この一連の歌の主体が「集団性とか、同一性を求めるところ」への腹立ちを抱いていることを読み取って、「わるく思わないで」の歌の主体について「エキセントリック」と評しているのである。
 北山さんの仰言るように、サーフボードの歌の主体が、みんなにできない特別なことをするサーファーに苛立っているのだ……と読むのであれば、この歌の主体は「特別ではないみんな」の側の立場で特別ぶっているサーファーに苛立っているという読みになると思うのだが、これは「わるく思わないで」全体に対する「集団性や同一性を求めるところ」へのむかつきという北山さんご自身の読みと、矛盾を来たしているように私には思える。

 いったん女性性に話を戻そう。

いかにもという洗剤を使ってるひとがわたしに強くでてくる

の、「いかにもという洗剤を使ってるひと」を、北山さんは

洗剤のいかにもな感じのいい香りを振りまく女性が私に強く出てくるっていう。なんかバチバチの関係性が見えるんですよ

前掲32ページ

と表現し、そこに女性を読み込み、女性同士のバチバチを読み取る。
 しかし、独身者であれば男女を問わず自分で洗剤を選んで自分で使用するだろうし、私自身、「いかにもな洗剤の香りをさせていつもパリッとしていて意識の高い良い人なんだけど何かいつも正論でうっとうしい、独身男性社員の先輩」をすぐにイメージすることができる。同様に、もちろんそのような女性像もイメージできるが、少なくとも「洗剤」から即座に自明のものとして「女性」が導かれるというのは、一読者であり一生活者である私から見ると、ちょっと飛躍があるような気がしてしまう。

またあるいは、

速いビーム シャンデリアの空間撃ちぬいて肖像画にほくろを増やしてく

の「肖像画」についても

これなんかバンクシーだと思うんですけど。肖像画のきれいな女性の顔に、ビューッとほくろを足しちゃうぞという。こういうどんどん突っかかっていく感じがおもしろいなと思って。

 と、やはり北山さんは、特に説明無く「女性」を読み込む。バンクシーの作品群は、ことさらに女性を描いたものに加筆する傾向があるわけではない(と認識していますが合っていますか……?)ので、その文脈からも「女性」を即座に読み取ることは困難である気がするし、少なくともそこに女性性を読み込む筋道の説明を要するように思う。

 いずれにしても、これらの歌に描かれたものは女性であっても男性であってもよく、どちらであるかはあまり影響してこない類いのことが歌われている歌であるように思われる。

 私はこの一連の歌の主体について北山さんが仰言るように「突っかかっている」とか「バチバチしている」とは思わないが、しかし、北山さんの読み取られている「集団性とか、同一性を求めるところ」への苛立ちは、確かにこの歌たちの中に在ると思う。だがそれは、既に述べたとおり「女性だから抱くもの」では別にないだろうし、そもそもこの30首から、明確にこれらの歌の主体が女性だと断定するのは困難な気がする。ただしこれについては、審査員は300首の作品として眼にしているわけで、300首全てを見れば明らかに女性の主体だと解る形の作品であった可能性はあるけれど。

 ともあれ、ここに掲載された30首だけで云うならば、北山さんの評を読んでいると、なんだか、歌に描かれた登場人物にも歌の主体にも、北山さんがご自身のフィルターでもって敢えて積極的に「女性性」を賦与しようとしているように、私には思えてならなかった。
 何故ならば、この作品のことばの群れから、どのようなことばの連想でもって北山さんがそこに「女性」を見出したか……という根拠と筋道が、評の中で示されないからだ。

 作品全体のことばの響きについては、ほかの先行する歌人の影響に触れられてはいるのだが、しかしそれらの歌人の作家性や歌と、井口可奈の作家性やその作品はイコールではない。また、韻律の影響と内容の影響は分けて読まれ、語られるべきことであろうと思う。
 もし先行歌人の歌からの繋がりをもって井口可奈の歌に女性性を透視するというのであれば、せめて、例えば「先行歌人たちは「洗剤」という単語をこれこれこのように女性性の象徴として使っており、井口可奈のこの歌のこういうことば選び、こういうフレーズから井口可奈もまたそれらの洗剤の登場する先行歌を意識していることが明らかであるので、井口可奈の用いる「洗剤」という語にそのような女性性、少女性を読むことができる」といったふうに、論拠と筋道を示す必要があるのではあるまいか。
 それが無ければ、それは客観的に追証不能な感覚的飛躍に基づく「感想」に留まってしまう気がするのだが……。もちろん、これが受賞作の選評でなければ、感想なら感想でもよいのだろうけれど、読者である私は「選考座談会」と銘打たれたその枠組の「評」としてこのことばを読んでいるのであって、やはり戸惑ってしまう。

 さらには、「女性」や「ガーリーさ」を読み取った理由が示されないままに、つまり北山さんが恣意的に読み込んでいるように見えるその「評」というよりは「感想」に基づいて

引っかかってしまうのは、そういうエネルギーを孕んでいる女性の主体、不機嫌で傍若無人で、エキセントリックなところがある主体像を出すのに、やっぱりガーリーな感じが入ってきちゃうんだなとか、ちょっと不思議な感じになっちゃうんだなっていう。そういうところが、(中略)わりと典型的な部分もあるんじゃないかなっていうふうに感じますね。

 というマイナスの評価が導かれるので、言葉を選ばずに云えば、何だか、かなりアンフェアな評価の仕方であるように思えてしまうのだった。
 それは本当に「この作品」を読み取った上での評価なんだろうか、ほかのなにものかを勝手に読み込んでいるのではなく……? という気持ちになってしまう。

 ここまで書いてきたことによって伝わるものと信じているが、私はこの作品が低く評価されたことや、北山さんの下した評価そのものに不満があるのではない。「評価の仕方」に幾分か難があるように思える、ということを云いたいのだ。
 その根拠と筋道が示され、それが論理的整合性を持ってさえいれば、自身の読み方や評価と真逆であったとしても、「なるほど、確かにそのような読みは成立するし、それに基づくならばそのような評価も妥当であろう」と思うだけの話である。

 北山さんが評の中で採り上げている 

月おぼろあなたに言ってるのって言われあきたよ水は透明

この歌を北山さんは

いろいろあって、むかついて、反発して、怒って、喧嘩してるよっていう。なんかこんなにバチバチな主体像ってめずらしいなと思って見てました

 と読んでいるのだが、「喧嘩してるよ」をこの歌のどこから読み取ったのだろうか、と私はしばし考え込む。
 この歌単体だと、仰言るところの「バチバチ」は、「月おぼろ」の語のはかなさ、「水は透明」というある種静謐なことばで終わるところからも、ちょっとイメージし辛い気がするのだが、もしかすると、ほかの歌から既に「バチバチの主体像」を(私から見ると幾分恣意的に)読み取っており、そこに繋がる歌としてお読みになった結果……ということなのかな、とも思う。そうであるとすれば、筋道自体は何となく見えはするのだが……。

 私は、この歌は、「わたし」ではない虚像に向かって「あなたに言ってるの!」とシャドーボクシングしてくる何者かがあんまり多くて(「わるく思わないで」のほかの歌との連なりで読むならば、「あなたたち」が「わたしたち」と括るその行為も水鏡に向けたシャドーボクシングのひとつだろう)、そういう人たちが見ている「わたし」の虚像は、多分透明な水鏡に写ったその人自身の考えや経験を投影したものなんだろうな……というような、ある種の諦念と疲弊を歌ったものであるように思える。
 これは、読み手である私自身がそういうふうに感じる場面が多くて、それを重ねて読むからかもしれないけれども。

 そして多分、「水は透明」というフレーズには、そのような水鏡の暗喩、いわば諦念をもたらすマイナスの要素だけではなくて、わたしたちの間にあるものは本当は透明であるはずだ、透明なものに透明なまま触れていたいというような願いに近いものも、私は少し感じる気がするのだった。
 これはそれこそ、ほかの「わるく思わないで」の歌たち、特に杏仁豆腐や和菓子屋の歌の気配からの連想だ。

 いずれにしても、北山さんの読み方、「ガーリー」であるとか、あるいは「洗剤」や「肖像画」という単語に積極的に「女性」を読み込んで女性同士の対立のこととして読み、それに基いて「不思議」(ここで用いられたこの言葉は、井口可奈の小説を評して度々使われる「不条理」の語とほぼ同じ意味合いである気がする)と評してみたり「典型的」と断じること自体が、まさしく「月おぼろあなたに言ってるのって言われあきたよ水は透明」だなあと私は思い、何だか「ふふふ」となったのだった。

 これはこれで、受賞作と選評を並べて掲載したことで生まれる妙だろう。その意味ではやはり良い誌面だな、と思う。


 佐藤さんの評については、私に云えることはほとんど無い。何故ならば、このことばを私は「評」と見做すことが困難だからだ。

 北山さんの場合は「主体像」ということばをお使いになっていたので、少なくとも、「作者個人と作家性」、あるいは「作者個人と歌の主体」は仮にどれほど近く見えても同一ではないし、読む側もそこは切り分けるべきである……という観念自体は前提にあるらしいことがうかがえたのだけれど、佐藤さんの「考え方が幼い」という評は、それが歌の主体に向けたものであるのか、作者へ向けたものであるのかいまひとつ不明瞭で、そのことにまず戸惑ってしまう。

 今更記号論だのテクスト論だの作者の死だの作家論と読者論だの……の話をするのも野暮であろうから一切合切省くけれど、もしこれが作者に向けたことばであるなら、そもそも、「その作品」を読んでその作品に向けられたことばでないので、作品の話をしたい読者としては、「本来妄想以外で読み取り得ない作家個人ではなく、ことばから読み取り得る作品の話をしてほしいのです」になってしまう。

 そんなことは自明であるから示さなかっただけで、もちろん歌の主体に向けたことばである、つまり作家でなく作家性のはなしをしているのだ……ということであるならば、幼さを読み取るという読み方は当然あって良いと思うけれど、「選評」のことばである以上は、少なくともやはり、「どこからそのように読んだか」の根拠と筋道を示してほしいな、と思う。私は、個人の無根拠な感想文を読むためにお金を払ってこの雑誌を買ったわけではない。
 いや、本当のことを云うと、きのこ(井口可奈)が献本分をくれたので、私はこの雑誌に今回はお金を払っていないのだ! なので、これでも、比較的穏やかな気持ちでこの選評を読んだ。お金を払っていたら、多分、怒ったと思う。

 評するという営みは、作品のことばを的確に掴み取り、それをより多くに届く形に、その核を露わにさせて示してみせる、そのような「ことばの営み」であるはずだと、私は思っている。
 そしてまた、それが出来ないのならば、評に基づいて良し悪しを論ずるということも為し得ないだろう。何故ならば、そのような営みに基づかない選は良し悪しではなく好悪での選定にならざるを得ないからだ。

 もしかすると紙幅の都合で佐藤さんの中にきちんと存在している読みの根拠と筋道が掲載されなかっただけかもしれず、なので、「今回の誌面を読む限り」という限定付きで……ということは付記しておきたいと思うが、私は「わるく思わないで」への佐藤さんの今回のことばは、自身に掴み取れないものを「レベルの低いもの」として切り捨ててしまう感想文に見えてしまい、また感想文であるにしても、作品を「幼い」という主体の(と敢えて書きます、そうであったと信じたいと思います)人間性に安易に結び付けるようなことばを用いるならば尚更、そのことばが作品内容から導かれる評として適切であると判断した根拠と筋道は、極めて慎重に示される必要があるように思う。
 それを為さなかったことについては、「作品」と「ことば」に対するある種の不誠実であるようにさえ感じてしまった。

 もっとも、これは明示しておきたいと思うが、そのことをもって佐藤さんにしろ北山さんにしろ、「ことば」全てに不誠実なひとであるとか、能力が無いとか、そんなことは全く、一切、思わない。
 それはひとつには、私がお二人の評者としてのお仕事をほかに知らないから安易に断ずるべきでないということもある。そしてそれ以前に、お二人は評を本来のお仕事にされているわけではなく、歌人であるのだ。
 つくることと読むこと、読んだものを適切に解体再構築して別の言葉に落とし込むこと、それらは皆それぞれ異なることばの営みで、異なる技能と感性を要するしごとだ。そして、それぞれのしごとと領分には、互いに敬意が払われるべきである。

 全部できちゃう人も稀には居るし、幾つかはできる、という人も居るが、大抵はできるにしてもそれぞれのしごとについてレベル差があるものだし、いずれかは本当に苦手で全然できない、というケースだって、当然多い(というか、普通は大体そうだ。全部出来ない人だって沢山居る)。それは単に、それぞれに相応しい「ことばのフィールド」があるということにすぎない。

 その意味では、賞の選者であるとか評者であるとかに相応しい人をアサインする、というのもまた、編集企画側の大事な仕事なのだろうなと思う。そしてそのような適切な選者の選定ができる、ということもまた、特異な能力であるのだろう。
 ひとつの文学作品をめぐっては、ことほど、ことばにまつわる様々な職能とそれを持つ人々が必要であるのだなあ……ということを、改めて思う。

 34ページ、「大辻さん! それです!」となった。ちゃんと評の言葉で、どのように作品と向き合うべきかを示しているの、とても良い。作者と作品、そしてほかの評者、全てへの配慮がある。
 この30首を選んで並べたのも大辻さんなのだな、と思うと、歌人としてのみならず、選者・評者として、また編者としての良質なしごとに感嘆してしまう。

「わるく思わないで」の評としては、ここに掲載された中では平岡さんのことばが私には一番しっくり来た。「フェミニズム」の括りではないと思うけれど、「この世界がなにか自分にとって居心地の悪いものであるみたいな感覚」がはっきりあるがそれをがなり立てない……という一連の歌に通底するものは本当にそうだなあ、となりながら、平岡さんの評のことばを読んだ。

───────────────

そろそろこの雑感をまとめていこう。

「わるく思わないで」の中で、この歌の主体は、自己と他者のどうしようもない断絶や、断絶を認識してもらうことすら困難なことへの諦念を抱いている。その諦念は怒りや憎悪にも似たそれであったり、静かな愛に似たそれであったりする。そうしてそのような様々な色合いの「諦念」を行き来しながら、時にバランスを崩し、それでも、うまいバランスを探りながら生きて在る。

 そのことは、実は小説「かにくはなくては」で描かれた営みと同じであるように、私には思えるのだった。井口可奈という作家の今のところの関心事は、そのあたりにあるのかもしれないな、と思う。

 先述の通り、小説でも(ちょっと親切すぎるくらいの書き方で)同じテーマを扱いながら、今のところそこに触れる評をほとんど見かけないことに、私は少し驚いている。
 謂わばこれは井口可奈という作家にとっては、大きな武器を封じられた闘いになっている状況であるはずで、でも、「韻文的なワンダーのある、かつスッとからだに入ってきてしまうことばのセンス」という「韻文のひと」としての井口の持つもうひとつの強力な武器で評価されてのことばと新人賞佳作受賞……という印象だ。

 井口可奈は今回の「わるく思わないで」の受賞のことばで、

わたしはどんどん短歌になっていく。そのことは他の創作を諦めることではない。どれをも高めることになる。と思います。

と述べている。力強さと同時に、井口が自身の能力を適切に見極め、自己プロデュースの仕方をよく解っていることが伺える。

 私から見ると、「かにくはなくては」はこれまで私の読んだことのある(全部読んでいるわけではない)井口可奈の小説作品の中でも、筋とテーマが非常にわかりやすい作品だった。
 しかしそれが「不条理でよくわからない作品」として今のところ世間的には受け留められているらしいところを見ると、恐らく、井口の「小説的にテーマを的確に抉り出す手腕」(かなり高いと私は思うのだが……)よりも、井口の「韻文的ワンダーの面白さ」のほうが、世間的により高く評価されやすいのは確かではあるのだろう。

 同時に、「かにくはなくては」と「わるく思わないで」を並べてみると、井口可奈が営んでいることは小説でも短歌でも本質的には、つまりその核の部分では同じであるように思うし、だとすれば確かに、韻文のことばを進化・深化させて、その営みをさらに多くにより深く伝わり得るものへ高めていくことは、きっとそのまま、ほかのことばのフィールドでもそれを可能にしていくことに繋がるのだろうな……と思う。

 井口可奈がそのことばで、わたしを、そして色々な背景と断絶を抱えた本来括れない集合体であるところの「わたしたち」をどこへ連れて行ってくれるのか、今後の作品が愉しみである。


────────────────

長い雑感の長い余談

 あとでもうちょい章立てなり整理なりするかもしれません、あとちょっと傲慢で攻撃力の高い言葉があるかもなのでもう少しマイルドにするかもしれない……。すみ……すみません……。
 でもあの、作品には……やっぱり……それぞれのフィールドで、それぞれのフィールドの誠実な姿勢とことばで向き合うのが礼儀だし、悪意の有無によらず(※今回も悪意は一切感じていません)それが為されていないと思われる時にはちゃんと他者から指摘が為され、業界として改められていくのが望ましいと……一読者として……思っております……。

 元々ここに書いてあることは概ね井口可奈に直接伝えている事柄なのですが、特に小説については、ちゃんと作品の内容の話をしてくれている人がなかなか誌面上でもおらず、そのへんに誰か言及してくれ〜!!!!作品の解釈の話をしてくれ〜!!!!の気持ちが作者としてもあるということ、それを誰かがしてくれたらもっとそういう読み方や話をしてくれる読者が増えるのではないか……と感じているという主旨の話を本人から聞いて、そんじゃあまあちゃんと整った文章として出そうとすると時間がかかるから、とりあえず雑感として出すか!!!!! と思って、ビャッとこれまでに井口可奈に送ったもんをまとめて加筆したのがこれです。

 雑感とはまとまりのない感想のことで、まとまりがないので、こんなに長くなりました!


 井口可奈と私はこれまで数年に一回くらい逢うねといった距離感の付き合いで、なので私が井口可奈の人間性を知っていることが「かにくはなくては」の読みに影響している……みたいなことは、恐らく特に無いと思います。
 ただし、かにくはなくてはを読んで感想を伝えたことでむしろ急速に互いの心理的距離が近くなった感じはあり、私もまた、かにくはの読解を補助線に「わるく思わないで」を読んだことは否めません。
 その意味では「わるく思わないで」の読解については、意識的に「作者像」をサブテクストにしない努力はしたつもりですが、まあ知ってしまったサブテクストに何ら影響を受けないというのも難しいことでありますので、フラットに読めていますと言い張るのはちょっと厳しいかもな……とも思います。
 読みの背景を開示しないことは読み手として幾分アンフェアであろうと思いましたので、ここに付記しておきます。

 それはそれとして、私は、これは井口可奈の作品に限らずですが、よい文学作品のことばの群れから、良き読者であるところの皆さんがどのようにことばたちを捕まえて新たな群れを形成し、毛を苅り、糸を紡ぎ、織物に仕立てていくのか、その営みを眺めることを愛しています。
 色んな方の、それぞれ豊かで巧みなその機織りのわざを、沢山拝見できたら嬉しいです。井口可奈の作品についても、そのような色とりどりの反物がたくさん生まれていくことを願っています。

 以上余談でした。こんどこそ、おしまい!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?