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本音と建前を考える


本音と建前、どちらが大事であるか

建前が大事だと主張すれば、それは建前であり

本音が大事だと主張すれば、それは本音である

なんだか永遠と平行線上を進むようだ。

本音があるから建前がある。
どちらも大事だ。

しかし自分は本音ではなく、建前が大事だと主張する。

そこに建設的な理想があればの話だ


綺麗事化した建前

建前と聞けば「綺麗事」を言う人が増えている。

なぜだろう。

ならば本音は汚いと言うことか?

汚い本音を一つの箱に無理やり押し込んで、中身が見えない様に綺麗な建前で包むのか?


そんな寂しい考え方は今すぐ辞めてもらいたいものだ。


本音は人の精神、魂の声だろう。
魂を磨けば綺麗な声になるはずだ。

それは誰とも違い、また、似ても非なるものである。

勝手に揃う事は無いし、誰かに強制されてはならない。


よって建前は綺麗事だ、と主張する声はその出所が汚いからだろう。


本音があるから建前がある。
要は本音次第なのだ。

ただ本音の全てを噛み合わせて建前にする事は不可能に近い。


まだまだ平行線上にいるこの考えを、お城の石積みに例えて考えてみる。


ヒントは石積み

お城を見る時に石垣、石積みをじっくり見る人は少ないだろう。
自分は職業柄じっくり見てしまう。
積み上げている姿を想像している。

天然の石を隙間なく並べて積み上げていく。
その石には一つ一つにがある。

訓練しないとを見つける事は絶対出来ない。
石の顔とは、その石の一番魅せたい面である。

顔には顎があり頭があり、立てるか寝かせるかを判断する。

その顔を一目で見つけ、あの石の後にはこの石を、と勘で積み上げていく職人さん。

「顔こっち向けろ!もうちょっと顎引け!」
と、自分が18の時の師匠は、集合写真を撮る様に現場で声を張り上げていた。

並べ積み上げた石積みは面(ツラ)が綺麗に揃っている。
そして地震にも耐えうる強度を保ち、城を支える。

一つ一つの石の顔を見せて、積み上げる。
コンクリートの無い時代に強度を上げる積み方を知っていた先人達は本当に素晴らしい。

もちろん石を切り、積む事もあるが、全て同じサイズに揃えて切り出す事はしない。

一つ一つ形は違っても噛み合うと崩れない。
その手法は積み上げられてきた過去の経験から生まれる。

その職人達が死んでも石積みは後世へ残り、遺産となる。
積む技術も内包されている。

石積みはハードウェア、技術はソフトウェアで両方で一つの遺産だ。

その石積みの土台があるからこそ、お城が建つ。

自分はこれを日本人の精神性の象徴であると思っている。

話は少し逸れるが、ピラミッドの様に全てほぼ同じサイズで切り出された石を積み上げるのは、石の顔を作って積みやすい様に工夫してあるからだろう。

その石達はまるで思想強制された奴隷のようで、建造した主を讃える。
ピラミッドは奴隷支配の象徴であるように自分は見えてしまう。


理想の城を建てる前の石積み。

建前はあくまで建前で、お城を建てる為の前段階でゴールでは無い。

良い加減な建前では理想の城は建たないだろう。

ちなみにお城の石積みが弓形に反っているのは土圧とお城の自重に耐える為である。
橋が山形に反っているのと同じで、下敷きを両端から力を加えて反らせば上面にかかる重さに耐えれるのと同じ原理だ。


理想の為に


本音があるのはアナタが自由だから。

本音を噛み合わせる為に建前が生まれる。

噛み合うから強くなる。

だから本音か建前かと言うのは比較するモノではなく、どちらも尊重すべきだ。

ただ、理想を実現するのであれば本音より建前が重要になるはずだ。

よって自分は建前が大事だと主張する。


理想を必要としなければ本音が一番大切だろう。

理想が無ければ皆は等しく自由なのかもしれない。


余談だが、かの有名な秘密結社も元は石屋さんだな。


と、言う話でした。

同じ意見じゃ無くて当たり前。
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