✂を見てハサミだと分かること
ベッドはもぬけの殻で、壁に掛けられた小さなホワイトボードには、今日の担当の看護師さんの名前のほかに「14:30~ リハ」と書かれていた。
ナースステーションで見学していいかどうか確認して、わたしは初めて ”リハビリテーション科” に向かった。
そこはパッと見はバレエのレッスン教室といった雰囲気の、左側の一部の壁が鏡張りの場所で、手すりの付いたポールが対になって置いてあった。
右奥の2畳くらいの広さの ”小上がり” みたいな一段高いスペースに、患者さんたちが座っていて、先生と腕を上げたり下げたりしている(ように見えた)。
鏡の壁の横に木でできた数段しかない階段、それから、昔、体育館にあったバスケットボール入れみたいな金属製のあみあみのカゴに、色々な大きさのボールが入っていた。
あれ? ココじゃなかったのかな?
入り口を入ってすぐの死角に、小さく区切られたドアのないブースがいくつかあって、身体が左に15度くらい傾いて、車椅子からはみ出しそうになっているヤツの背中を見つけることができた。
そうだった、そうだった。
まだ全然動けないんだった。
主人はこの前ご飯を食べさせてくれていたKさんと机を挟んで座って、リハビリをしていた。
いや、何か話をしているようだった。
机の上に ”もの” が置かれていて、Kさんは主人と何かをしゃべりながら、それを出したり、引っ込めたりしていた。
「これは、何ですか?」
「ハサミ。」
「それじゃあ、これは?」
「鉛筆。」
「これは?」
「本だね。」
これは、リハビリ???
これが、リハビリ???
アタマの中はクエスチョンマークで埋め尽くされた。
「あ、こんにちは!!」
Kさんは部屋をこっそりのぞき見しているわたしにすぐに気づいて声をかけてくれた。
「リハビリをしているところ、見学してもいいって聞いて、来ちゃいました。横で見てても大丈夫ですか?」
「もちろんです!そちらに座ってください。」
「ご主人って、めちゃくちゃ計算するのが早いですね!本当にすごく早いっ!」
「暗算は元々すごく早くて。営業職で、毎日、数字を扱っていたっていうのもあるのかな?」
「そうそう、俺、小学生の時、公文習ってたから!計算は得意だしー!!!」
子供みたいに自信満々で、謙虚さの欠片もない物言いが、なんだかわたしに突き刺さる。
「 ものの名前もすらすら出てきますし。」
「???」
もの?って? え?
なんなんだ? この会話。
そんなの当たり前じゃないの?
いやいや、違う。
このやりとりを、ヤツはなんとも思わないの?
失礼な!とか、そんなの分かるに決まってる!って思わないの?
それに答えられたからって「だから、なんなんだ?(怒)」って。
当たり前じゃないか、って。
答えられないわけがないじゃないか、って。
「ただですねぇ……」
と、少し言い淀んで、
「ちょっと左が見えづらくなってるみたいで…。さっき、こんなこともやってみたんですけど…」
文字や記号が規則的に、あるいは不規則に、羅列された紙のところどころに蛍光ペンで印がついていた。
「見落としがちょこちょこあります。」
「え? どこを? これの何を見落とすんですか?」
「この、左端の部分です。この黄色いところ…。」
「???」
左側にだけにある、不規則に並んだ黄色いマーカーの印たち。
どこをどうやったら、それを見落すことができるのか???
「なんかさー、俺さー、見えてないみたなんだよねー。」
なんだそれ?
どうして毎回そんなに呑気なの?
フツーなの?
だってさ、見えるって言ってたじゃないの、ちゃんと見えてるって!
世界が違って見えるって、ココロの問題じゃなかったの?
そうして、ようやくわたしは、Kさんは看護師さんじゃなくって、言語聴覚士さんだっていうのが分かって、「言語聴覚士」なんていう言葉そのものも、人生で初めて知って、主人はやっぱりずいぶんまずい状態なんだって、本当に、気づいてしまったのだった。
とっくの昔に、気づいていたんだ。
よね?
ちゃんと分かっていたよ、 ね?
でも、でも、でもね、✂を見て、それがハサミだとちゃんと分かることは、めちゃくちゃすごいことなんだよ!!!!!
そのことが分かるまで、ワタシにはもっともっと長い時間が必要だった。