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古文漢文不要論への答えは2500年前に出ている。

「古文漢文って、勉強する必要なくないですか。」と、問われたらどうこたえるだろう。古文漢文不要論はこの時期にネット上に現れる風物詩だ。

昨年はひろゆき氏のこんな投げかけで議論が沸き上がった。

このことは学者も含めて賛否両論さまざまだし、正解はない。専門的な議論は博識な方々にお願いするとして、私からは誰も触れていない考え方を紹介したい。

結論から言うと、古文漢文は必要ではないが、学んだ方が良い。

これは私の考えではなく、中国の代表的な古典、『論語』中で、孔子が述べていることだ。

子曰、弟子入則孝、出則悌。
勤而信、汎愛衆而親仁。
行有餘力、則以學文。


原文だけだとわかりにくいので、書き下し文にする。

子曰く、弟子入りては則ち孝、出でては則ち悌たれ。
(しいわく、ていし いりては すなはち こう、いでては すなはち ていたれ。)
謹みて信、汎く衆を愛して仁に親づけ。
(つつしみて しん、ひろく しゅうを あいして じんに ちかづけ。)
行ないて余力あらば、即ち以て文を学べ。
(おこないて よりょく あらば、すなはち もつて ぶんを まなべ。)

これでもわかりにくいので現代語訳する。

老先生の教え。青少年は家庭生活にあっては孝を行い、社会生活にあっては目上の人に従え。
常に言行を一致させ、世人を愛することに努め、他者を愛するありかたに近づけ。
それらを行なって、なおまだ余裕があるならば、古典を学ぶことだ。


このように、孔子は古典について、誰にとっても役に立たないからやらなくて良いとも言っていないし、誰にとっても役に立つからやるべきだ、とも言っていない。

まずは心を豊かにすることが最優先であり、それをクリアしたのであれば古典をやりなさいと言っている。つまり心の豊かな人間が古典を学ぶことで、より深みのある人間になれる、ということだ。

孔子の考える心の豊かさはとは、親孝行をして、目上の人を尊敬し、言葉と行動を一致させ、世の中の人を大切にし、他者を愛することだ。これらは現代社会で失われつつあり、まるで孔子が私たちに向けたアドバイスのように聞こえてくる。

もちろん、価値観の多様化が進む中で、心の豊かさの定義は、一人ひとり違っていて良い。その定義がどうであったとしても、自分がそれを満たしていると感じたときこそ、古典は心に響いてくるのだ。古典を学ぶ大切さも、古典より大切なことも、孔子は2500年の時を超えて私たちに教えてくれている。

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