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私の求道体験記 ②言葉と人間

 前回、「仏教は宗教か」というテーマで書かせていただいた際に、お釈迦様が真実・真理である「法」をどのように人々に伝えたのかというと、それは「言葉」だったという話をしました。「言葉で伝える」というと何とも当たり前のような話ですが、実はこれが仏教を理解する上で、また、人間というものを理解する上で、非常に大切なことなのです。

私たち人間はなぜ言葉を有しているのでしょうか?

意思疎通を図るため?
相手に思いを伝えるため?
ものごとを具体化して考えるため?
嘘をつくため?

 人によってさまざまな考え方、捉え方があると思いますが、「なぜ?」と問う前に、そもそもその問われているところの「言葉」とは一体何なのか、私たちはそれをきちんと理解していると言えるでしょうか?それがわからないことには、ほんとうのところの「人間はなぜ言葉を有しているのか?」という問いには絶対に答えられないはずです。

 言葉とは何なのか。私は今もそのことをずっと考えております。そして考えれば考えるほど、言葉とはつくづく不思議なものだなあと感じます。ある意味それは、人間そのものであると言えなくもないかと思います。

 例えば、このnote上で多くの方が書いた言葉(文章)を私は読むことができます。私自身も言葉を書いたり、誰かの書いた言葉に対して、コメントしたりしています。そうして相互に想いや感じたことを伝え合っているのです。それはとても楽しいことであり、素晴らしい体験と言えます。一方で、私はこのnoteで知り合ったほとんどの方に直接お会いしたことはありません。つまり、私にとって皆さん一人ひとりとは、皆さんが書いた言葉そのものでしかないということです。皆さんも「東野たま」という一人の人間がどこか(京都なんですけどね)にいて、それを書いているんだなと認識していると思います。しかし実際のところ、皆さんが知っているのは「東野たま」という人間そのものではなく、「東野たま」が書いた言葉だけということになります。これは何とも不思議な感覚ですね。

 「言葉の力」というものがあるとすれば、それは、出会いの可能性を時間と空間を超えてどこまでも押し広げてくれる力だと思います。人生で実際に(物理的に)出会える人の数というのはごくごく限られたものです。しかし、人は言葉を通して実際に出会えない人、絶対に出会えない人、そう、すでにこの世に存在していない人とも出会うことができるのです。書物はその最も分かりやすい例ですね。多くの先人たちが言葉を残してくれたから、彼らの考えや思いに触れることができる。つまりそれは、言葉を通して彼らに「出逢うことができる」ということなのです。

 先日、不思議なことがありました。私の父は2014年に他界したのですが、時空を超えて父に会うことができたのです。と言っても何もファンタジーのような話ではありません。うちに古いローテーブルがあります。これはもともと実家で使っていたものですが、両親が他界したことで私が譲り受けました。そのテーブルには二つの引き出しがついていて、その中には、爪切りやハンコ、もう使わなくなったWifiのルーターなど雑多なものを入れております。なぜそんなところにそれがあったのか、今でも分かりませんが、ふと見るとそこに、緑色のハードカバーの分厚いノートがあったのです。表紙には「自由日記」と書かれていました。

 一ページ開くと、この日記帳を購入した日と思われる、1968年○月○日と、日付が書いてありました。半世紀という時間の空気に晒され、すっかり黄ばんでしまったページ。しかし、そこに綴られた二十歳だった父の言葉は何処へも行かず、そのままその日記帳の中にあったのです。私は胸に熱く込み上げてくるものを抑えることもせず、それをすべて読みました。父は、詩もたくさん書いていました。父が詩を書くなんて全く知りませんでした。当たり前のことですが、私が知っている父とは、私が生まれ、私の父になったあとの父です。この日記帳に言葉を綴ったのも、紛れもなく私の父なのですが、それは、私の全く知らない父でした。これを書いた時の父は、私の存在はおろか、私の母にさえ出会っていない一人の青年だったのです。そんな若かりし日の父に、彼が残した言葉を通して私は出逢うことができたのです。不思議な感慨とともに、その時ほど言葉の力を強く感じたことはありません。だから私は、言葉というもの、書くということを大切にします。

 お釈迦様が遥か2,600年も前に説かれた真理が、時空を超えて私に届いたということ。想像すると凄いことですよね。これも言葉の力の成せる業(わざ)であり、ここに至るまでに、多くの人々がそれを繋げてくれたからこそ、私は仏法を聞くことができたのだと思います。そもそもお釈迦様は覚ったといいますが、その覚りというものは、本来、不可思議・不可唱・不可説なる世界であって、到底我々のような凡夫が理解したり、認識したりできるようなものではないはずです。しかし、お釈迦様は、その真理を自分一人だけで握りしめるようなことは決してしませんでした。この真実清浄なる世界を、一人でも多くの人に伝え、苦しみから救ってあげたいという慈悲の一心で、人間でも理解できるように、生涯を通して人間の「言葉で」丁寧に紐解いてくださったのです。

言葉があるから、考えられる
言葉があるから、理解できる
言葉があるから、喜べる
言葉があるから、苦しんで
言葉があるから、その苦しみを 超えられる

 私たち人間にとって言葉とは、ともすると意志疎通のためのツールのように思われがちですが、それはあくまで言葉の一側面、一機能であって、本質ではないと思います。人間は、言葉を持つがゆえに悩み、苦しみ、恐れ、迷い、生きているのです。そして、また、言葉によって救われていくのです。




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