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死と、希望と、浄土往生のこと

「彼らは最後まで生きることを諦めなかった。」

病床に付し、不治の病と懸命に戦い、力尽きていった人たちを称賛する言葉。

自分の余命がもう幾ばくもないことをわかっていながら、それでも前を向き、最期まで生き抜いた彼らの魂。その「生の輝き」は、美談として語られるに相応しい。しかし、それを語るのは常に旅立っていった彼ら自身ではなく、彼らの死に触れた他者であり、未だ死を経験したことのない生者である・・・。


こんにちは、東野たまです。今回は、「死」と「希望」という二つのテーマに絡めながら、大乗仏教の浄土門における「浄土往生」について書いてみたいと思います。

【一】
さて、彼らは本当に最後まで希望を捨てなかったのでしょうか。生きることを諦めなかったのでしょうか。それは確かめようがありません。そうであったかもしれないし、周囲の人間にはそう映っただけだったのかもしれません。三十代の頃、相次いで両親の死を経験した私ですが、父と母がどんな思いで死んでいったのか、私にはわかりません。

眼前に迫りくる死の恐怖。それはどれほどの絶望でしょうか。明日も自分は生きているだろうと呑気に思っている私のような人間には、到底計り知れません。親、子、配偶者、友人、どれだけ近しい人の死であろうと、「誰かの死」と「自分の死」は全く異質なものでありましょう。

【二】
死んだらどうなるのか。人類は未だ確かな答えを得ていません。たとえどれだけ科学が進歩しても、人智でその答えにたどり着くことはできないでしょう。肉体が滅び、精神活動が停止するのだから「無になるに決まっている」というのは、命を物質的側面からしか観ていない、余りにも短絡的な憶測と言わざるを得ません。にもかかわらず、多くの現代人にとって、死ぬということは、すべてが終わること、つまり無になることと同義のように受け取られているのも事実です。私たちは死について、あれこれと定義しようとしますが、正確には、ただ「わからない」ということしか言えないのです。

死、それは凡そ人間の人生で起こり得る最悪の事態ではないでしょうか。それは多くの現代人にとって、闇であり、恐怖であり、絶望でしょう。生に安住していたいと願う人間は、我が身をできる限り死から遠ざけようとするはずです。「いつまでも健康で若々しく・・・」、まるでそれが、人類共通の幸福の条件であるかのように。

しかし、いくら願ったところで、人間は生老病死から逃れることはできません。無常の風はいつ私たちを連れ去ってゆくか、誰にもわからないのです。例えば、突然「あなたの命は持ってあと一か月です」と医者に告げられ、絶望せずにおれる人がどれほどいるでしょうか。稀に「私は死ぬことなど何も怖くない」という人がありますが、いざ余命一か月と告げられても、「そうですか。はい、わかりました。」と言えるでしょうか。冷静にその現実を受け止め、残された月日を後悔することもなく、死に怯えることもなく、平穏に過ごせるでしょうか。私にはできません。やはり死ぬのは怖いし、死にたくないと懇願する自分がそこにいるでしょう。この世でまだやり残したことがあるのにと後悔するでしょう。人間は誰もみな必ず死ぬと頭ではわかっていながら、自分だけはまだ死なないという、ある種矛盾した前提で生きているのです。そういうものに、自分の死、しかも突如突き付けられる死を受け入れよ、ということほど耐え難い苦痛はないでしょう。

【三】
人間は弱いもので、ともすればいとも簡単に絶望に支配されてしまいます。とても悲しいことですが、一年間の自死者の数の多さを見ても、そう言わざるを得ません。しかし、たとえどんな苦しみの中に在っても、希望だけはその強大な絶望に打ち勝つことができるのです。人間は未来に希望を持てるからこそ、いかなる過去も現在も受け入れることができるのではないでしょうか。反対に、完全に希望を失った人間には、絶望しかありません。希望とは、普段日常生活であまり意識することはないのかもしれませんが、人間が生きる上で極めて重大かつ不可欠な意識活動なのです。

多くの場合、未来への希望とは、「生きてさえいれば何とかなる」、「命までは取られない」などと言われるように、あくまで「生を前提とした希望」のことを指すでしょう。だとしたら、本当に目の前に死を突きつけられ、いよいよ自分の番が来たのだと知らされたとき、果たして人は絶望することなく、死の瞬間まで希望を抱き続けることができるでしょうか。非常に難しい問題です。しかしこれは、誰もが必ず直面する現実なのです。様々な捉え方があるでしょうが、事実として人間は死の前では完全に無力です。科学技術の発展や医療の進歩で、死を先延ばしすることはできるかもしれません。しかし、いかなる手段を用いても、死を回避することだけはできないのです。みないつかは必ず死んでいかねばなりません。たとえそれがいつ、どのようなかたちで訪れたとしても。

【四】
世界には様々な宗教がありますが、死を問題にしない宗教はまずないでしょう。多くの宗教は、苦しみ多い人生を生きるための拠り所であると同時に、死の先にある世界に何らかの希望を見出すことによって、死を超越することを目的としているのではないでしょうか。それは「信仰心」と言い換えることもできるでしょう。しかしそれは、生きることに絶望したとき、死に魅了されるということではありません。死は生に絶望したものたちへ用意された最後の逃げ道ではないのです。そして、決してそうであってはならないのです。もちろん死んだらどうなるかなんて私たち人間には分かりようがありません。だからといって、いたずらに死を否定し、生だけを肯定することも、死を肯定し、厭世的に生を否定することも、等しく人間の迷いに他なりません。ひっきょう私たちは死に対し、自分たちではどうすることもできないのです。なぜなら、生者は生の側に立っている限り、死が何たるかを絶対に知り得ないからです。

では、どうすればよいのでしょうか。人は、どんなに豊かで充実した人生を送ろうとも、死を前にしたとき、最期は絶望するしかないのでしょうか。

【五】
お釈迦様は説かれました。お任せせよと。親鸞聖人は、仏説無量寿経(大無量寿経)こそが「真実の経」であると示されました。そこには、阿弥陀仏が法蔵比丘に身を落とされ、五劫の思惟、兆載永劫の行により、救われる手立てのないこの私をどのようにして救うのかが説かれています。つまり「仏願の生起本末=南無阿弥陀仏のお謂れ」が、そこには説かれているのです。阿弥陀仏は三世十方をくまなく見通されました。そして生死の輪廻を永遠に流転し、苦しみの世界から自力では絶対に抜け出すことのできないこの私を、必ず救うと誓っておられるのです。あらゆる諸仏、菩薩に見棄てられた私を、必ず浄土に往生させ、仏に成らせると。「南無阿弥陀仏」という名号になられ、一切衆生ではなく、「この私」を救うと、今、言っておられるのです。それを信じられるか、納得できるか、それが本当に真実かどうか、私が判断するのではありません。私の実感の有無など、仏の救いの妨げにはならないのです。私はそのまま仏の仰せの通り、その人智を超えた大きな智慧(他力)にお任せするだけなのです。仏の呼び声に、ただ「はい」と頷かせていただく。それだけなのです。

しかし、これがなかなかできないのが人間です。私たちの迷いは限りなく深いものであり、しかも、その迷いに自分では気づくことすらできないのです。「自分が正しい」という邪見驕慢の心が誰の胸にも渦巻いているのです。そもそも大多数の人は、お経というものが人間の言葉ではなく、真実を説く仏の言葉(仏説)であるとは思っていないでしょう。なので、その言葉に耳を傾け、仏のお心をいただこうなどという殊勝な心が起こるはずがありません。人間には煩悩があるのではなく、煩悩こそ人間の当体であり、私たちは煩悩でできているのです。そんな「煩悩具足の凡夫」にとって、仏の言葉を「そのまま聞く」ということがいかに難しいことか、信心ひとつを説かれたご開山(親鸞聖人)のご苦労が偲ばれます。

般若波羅蜜多心経(般若心経)に説かれているように、自ら煩悩を断ち切れば仏に成れるでしょう。つまり、自力で覚りを開くということです。仏説に嘘はありません。しかし、私たちは煩悩を捨て去ることなど絶対にできません。そもそも何が煩悩なのか自覚することさえ容易ではないのです。この地球上で未だかつて煩悩を自ら断ち切り、仏に成られたのはお釈迦様ただひとりと言われております。いかに厳しい行を実践し、高い功徳を積んだ高僧であろうと、覚りを開くことは叶わなかったのです。ましてや私たちのような凡夫の生活は、仏道修行などとは程遠く、そのすべてが煩悩に突き動かされているのです。阿弥陀仏はそのような私たちの姿をすべて見通された上で、「そのまま来い、必ず救う」と言われているのです。煩悩いっぱいのままのこの私を仏にすると。

【六】
これはなにもお経の中だけの、遠い昔の話ではありません。仏教は常に「今」を問うものです。その深遠なる真理の世界は、三世(過去・現在・未来)を貫くものであり、もちろん私たちが生きている現代にも変わらず息づいているのです。そして阿弥陀仏の救いは、今も等しく万人に至り届いているのです。最も大切なことなので繰り返しますが、「お前を救う」という仏の言葉に、ただ「はい」と頷かせていただく。それが他力信心であり、それ以外に何もないのです。仏は私の今生の命尽きると同時に、私を仏にすると誓われています。つまり、私の死は終わりではなく、仏の世界に生まれていく始まりなのです。仏のお浄土へ生まれ往く、それが浄土往生という世界なのです。

浄土真宗の安心(あんじん)とは、刻一刻と死という絶望に近づいてゆく人生が、一歩一歩お浄土へと歩ませていただく、全く行き詰まりのない希望の人生に転換するということなのです。私はそのように受け取らせていただいております。これ以上の安心が在りましょうか。これは凡夫の私の煩悩から起こった心ではなく、全くの仏心(ぶっしん)が私の心に直入したということに他なりません。

【七】
もっと書かなければならないことがたくさんありますが、今日はこれくらいにしておこうと思います。また別の機会に書いていきます。ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます。

さて、これを読まれてあなたはどう思われましたか?東野たまは、頭がおかしいか、現実逃避した人生の敗北者か、完全に宗教にはまったイタい人間か、そう思われたかもしれませんね。皆さんがそう思われるのも無理はありません。仏法とのご縁とは実に不思議なものですから。私がこのような文章を書いているのは、何とか伝えたいと思っているからです。たとえひとりでも、このnoteをきっかけに仏縁をいただいてほしいと願っているのです。それは、私に至り届いた「信心」という宝を、私ひとりで握りしめていてはおれないからです。託されたバトンは手渡していかなければならないのです。

【八】
人智の限界も知らず、仏の慈悲と智慧に出遇うこともなく、自己の認識という狭い世界に囚われたまま、迷いの中で命を終える。自分が迷っていることにさえ気づかず・・・。これほど虚しいことはありません。釈尊(お釈迦様)がなぜこの地球に人間としてお出ましになられ、そして仏となられたのか。その意味を、私たち人間は尋ねていかねばなりません。浄土真宗七高僧(龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導・源信・源空)も、聖徳太子も、親鸞聖人も、覚如上人も、蓮如上人も、鈴木大拙師も、清沢満之師も、安田理深師も、祖父江省念師も、大峯顕師も、梯實圓師も、伊藤康善師も、西光義敞師も、因幡の源左同行も、浅原才市同行も、六連島のお軽同行も、みな私と同じく阿弥陀仏の本願の中に生きた人々でありましょう。彼ら一人ひとりが、信心のバトンを繋ぎ、私に真実を伝えてくれたのです。そしてみな等しく、すでに成仏され、この私に働きかけてくださっているのです。それが如来ということなのです。私が頭がおかしいのなら、彼らもまた、みな狂人だったということになるでしょう。なぜなら彼らの信心と私の信心は全く同じもの、阿弥陀仏からいただいた全くの仏心だからです。

【九】
どうか冷静に見つめてほしいのです。刹那的・享楽的な世界で生死の真実を観ようともせず、ただ煩悩に突き動かされ生きている日々。「幸せ」という、喜びに覆い被された自己の執着心を満たすために生きている人生。私たち現代人の命の在り方を。日々他者の命を奪い、それを喰らうことでしか繋ぎ止めることができない命。そんなことはお構いなしに、自分の幸せ、自分の家族の幸せを追求し、声高に人間文明の発展を叫ぶ。これこそが現代人の大きな迷いなのではないでしょうか。私たちには何が見えているというのでしょうか。何を聞いたというのでしょうか。聖徳太子は、「世間虚仮唯仏是真(せけんこけゆいぶつぜしん)」という言葉を残されました。有難いことです。今、私たちが立ち返るべきところは、ここしかないように思えてなりません。

一介の凡夫でしかない私にできること。それは、累代の善智識の口を通して語られる仏の言葉を、ただ真実と受け取らせていただき、今度はそれをひとりでも多くの人に伝えていくことです。阿弥陀仏は誓われ、すでに成し遂げられているのです。私たちに、何ひとつ条件をつけることなく。


浄土往生
死で終わらない世界

凡夫が仏に成るという
私が仏に成るという

不思議なことが人生では起こるものです・・・

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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