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おおらかに自分自身の主(あるじ)となる

最近「自分軸で生きる」という言葉をよく耳にします。これは、自分の生産性によって自分の存在意義や社会的価値を他人に決められるような生き方ではなく、自分自身が「人生の主人公」として自分らしく生きるといった意味で語られるところであると理解しております。

家庭、職場、友人関係など、私たちは実に様々な人々との複雑な繋がりの中で生きています。自分の回りの人々が自分のことをどう思っているかは、誰でも少なからず気になるところでありましょう。家族や友人、同僚や上司から好ましく思われているか、仕事の成果は評価されているかなど、私たちは常に「他人の目」に晒され、ある種、品定めされながら生きています。このように他者という外的要因に振り回されながら、一喜一憂している人も少なくないはずです。

しかし、他者の自己に対する評価、いわゆる「他人軸」で生きる生き方は非常に疲れます。常に人の目を気にして「きちんと、立派に」生きるのは、息が詰まることでしょう。人に良く思われるために本来の自分を押し殺してしまう。このような生き方は、本当の意味で自分の人生を生きていないのではないかという疑問も生まれてきます。そこで多くの人は、「人が何と言おうと私は私」と自分自身に言い聞かせ、他人軸で生きる生き方はもうやめようと思うのです。

実はこれは、ものの捉え方や考え方を意識的に修正していくことでかなり高い確率で成功するでしょう。他人の意見や価値基準に振り回されず、自分らしく生きる。それができたら素晴らしいことですね。しかしここで、ひとつ注意すべき点があります。他人軸ではなく自分軸で生きるということを、自分が好きなように、生きたいように生きる、言い換えれば、「感情の赴くままに生きる」ことだと捉えてしまうと、思わぬ落とし穴があるかもしれません。

感情は自分の正直な心の現れであり、それに素直に従うことこそ一見、自分軸で生きる生き方そのものだと考えられがちです。しかし、この感情というものがなかなかに曲者なのです。

他人軸で生きるのはやめたはずなのに、今度は自分の感情に振り回されて生きている。結局生きることが辛いことに変わりがない。このような事態に陥るケースは少なくありません。そして、なぜそうなってしまうのかという原因に自分ではなかなか気付くことができないため、一層苦しんでしまうこともあるのです。

怒り、悲しみ、喜び、不安、疑いなど、私たちは自分で意識的に「こう思おう」としているわけではないのに、感情は休むことなく次々と沸き上がってきます。深く落ち込んだり、涙が出るほど感動したり、カッとなって頭に血がのぼったり。感情は常に忙しいものです。その、実際には自分ではコントロールできない感情というものを自己や自分らしさと捉え、感情のままに生きることが果たして自分軸で生きることと呼べるでしょうか。本当の意味で自分軸で生きるとは、沸き上がってくる様々な感情を、ひとつ高い視座から冷静に見つめ、それに流されることなく、その主(あるじ)となることではないでしょうか。ともすると感情のほうが自己の主となってしまっている。そんなことはないでしょうか。

他人軸と思われていたものは実は私の中に様々な感情を引き起こす、言わば「要素」でしかなく、その起こされたところの感情こそ私たちが本当に対処すべき対象なのだと思います。褒められれば「嬉しい」という感情が起こり、けなされれば「悔しい」という感情が起こります。つまり、他人軸、自分軸といっても、実際に向き合うべきものはやはり自分自身でしかないということです。自分のことは自分が一番よく分かっていると思われている方は、本当にそうだろうかと一度自問してみることをお勧めします。

さて、自分の感情に対処する上で大切なものは何でしょうか。様々あると思いますが、私は「おおらかさ」ではないかと思います。これは、人に対してのおおらかさということもありますが、ここでは敢えて限定的に、「自分の感情に対してのおおらかさ」という意味で捉えてみてください。おおらかさというのは言い換えれば「フラット」ということです。感情は凪ぐことのない波のように常に動態であり、次々と際限なく起こってきます。それはそれで良いのです。無理やり抑え込んだり、無くそうとしたりする必要はありません。ただ、「今、自分はこういう感情を抱いているんだな」と、そのままの自分の姿を、フラットに見つめてみることが大切です。これも意識的に取り組めば、だんだんできるようになってくるはずです。

仏像を想像してみてください。大仏様でも観音様でも構いません。仏像はみな穏やかでおおらかな表情をされていると思いませんか。あれはなぜかというと、仏様や菩薩様は我々人間のような煩悩や執着を離れ、大きな慈悲を心に抱かれているからです。人間のあらゆる感情とはつまるところ、煩悩や執着心が現出したものに他なりません。それは負の感情、正の感情、どちらにも言えることです。私は人間である以上、自分の感情を仏様のような大慈悲心に置き換えることなどできません。しかし、すべてを許し抱き取るかのような仏像のまなざしは、私の心を穏やかにします。私はいつもそのまなざしを「おおらかさ」のお手本にさせていただいております。

自分の感情に正直に生きることは決して悪いことではありません。しかし、おおらかにその主となることができればもっと素晴らしいことです。自分にとっても周りの人々にとっても、より良い行動、拓けた選択をすることができるはずです。そうすれば結果的に、他者の目を過剰に気にする生き方からも、自分の感情に振り回されて苦しむ生き方からも解放され、本当の意味での「自分軸」を、人は手にすることができるでしょう。

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