関係人口の落とし穴

従来の交流人口に対して、「関係人口」という言葉が使われるようになって久しい。提唱者は、ソトコトの指出一正さんや、ポケマルの高橋博之さんという話もあるが、地域活性化の本質を洞察してきた人ならではの発想で、概念自体は疑いようがない。

関係人口とは、地方へ単に観光に行くのではなく、地域の人と関わりをもって、ある意味「第二の故郷」として何度も来訪することをいう。

来訪する理由は、さまざまで、コミュニティー活動に参加するとか、災害があった場合に被災地に何度も訪れる献身な方も現れた。旅館の女将がフィクサーになることもあるだろう。

人口減少の日本なので、移住促進は、少ないパイの取り合いになっても不毛だということで、総務省もポータルサイトをつくる勢い。

地域活性化という限り、やはり経済的、人的効果が念頭にあり、基本は、
「何度も訪れる人」を想定しているようだ。

この中で、もちろん優れた取り組みも多い。例えば、「食」という営みに対し、長期間で生産者との交流を深めることも一つ、衰退したまちの活性化のためにリノベーションを訴えて、店舗の出店を促す事業もある。

しかし、「関係人口」という言葉が定着し始めると、「なんだかなぁ?」という感覚も否めない。

これ一言でいうと、「ローカルとのディープな付き合い」。

人によっては観光で同じ場所に何度も訪れる人もいるだろうし、そこで知り合った店から毎年海苔を買ってる人もいる。当然、これまでローカルがベールに包まれていたのだとしたら、より多くの情報が求められるが、一方で潜在的に都市住民にローカルを求める指向性があるかという点に、期待しすぎてはいないか?と思うのである。

私の立場は、基本的には「ない」の方だ。

都市で生まれて都市に育つ人は、都市の「風土」が身についてるし、ローカルで生まれて都市を目指した人は、ローカルの風土が合わなかった人たち。

つまり、ここが重要な観点なのだけれども、「頭で考えている(納得できる)」暮らし方という点では、従来のローカルは、たくさん至らなかった点があったということ。

例えば、地縁血縁という縛り、ローカルコミュニティーの縛り、娯楽の少なさなどなど、一握りの優越感のある人以外は、合理的ではなかったということだ。

一方、「体で感じていること」は大抵盲目的で、この数万年で突然新たな遺伝子に置き換わることはないから、人は「自然が大好き」とかいう。

しかし現代人、どうにも頭で考えられないと生きていけない。成長が求められる仕事と生活が分かち難く存在している。暮らし方、生き方も、基本的には頭でっかちで、合理的なのである。

関係人口に話を戻せば、「何度も都市住民が来訪するようなコンテンツを増やす」というのは、重要な施策だ。・・・え、ほんとに?

これほど地方が人口減少してて税収もジリ貧なのに、あえて関係人口と言わなくとも、当たり前にやらなきゃいけないことですよね。これをあえて、関係人口創出などと呼ぶことは思考停止に陥りかねないと思う。

上述したとおり、ローカルを人が見捨てたのは、そこに生き方、暮らし方のメリットを感じなかったから。「コミュニティー」という言葉は一見温かく感じられるが、負の側面を無視していないか?暮らしやすい、風通しのよいまちってどういうことか?

この点に真っ向から向き合わない限り、やはり絵に書いた餅である。










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