「じっくり読む」と「流し読み」
10年ちょっと、文章で仕事をしてきて、人は何かを読む場面、環境で内容に面白さを感じる深度が異なると考えている。
例えば、私は哲学出身のため、哲学書と向き合うときは、ある程度の時間を取って、一言一句を反芻しながら読む。哲学書は、無駄をなるべく避けて、用語をわしずかみにして書かれているので、流し読みするとあとで痛い目に合う。
一方、例えば新聞のように、朝食中や電車内とか、ある程度時間はあるが、できるだけ効率的に文章を読みたい時は、重たい内容は好まない。むしろ、できるだけ平易に理解できて、実のあるもの、今日の話題に使えそうな事柄が好まれるだろう。
書き手としては、どうしても面白さを求めてしまう。しかし、書き手は何度も自分の文章を読んでいる。ここで読み手との差が出る。何度も読み直しながら書く文章は、熟読向けである。しかし、さらっと読めて面白い文章というのは、書き手のインプロビゼーションが求められるのだ。
その瞬間に感じたことが指先に通じて、細かいことは気にせず、一気呵成に書き切る。当然、読み直すと間違いもあるのだが、事実関係や誤植は別として、内容を直すとまた、本来伝えたかったものと違ったものになってしまう。
※当然、個々人の認知能力が違うので、あくまで個人的な見解
これはアート全般に近しい感覚があると思う。例えば、インプロビゼーションは音楽が分かりやすいが、その瞬間でしか出ない多種多様な綻んだ音を聴衆は期待している。荘厳な交響曲を書きたければ、何時間も何日もかける必要があるだろう。しかし、どちらがより秀でているかといえば、全くものさしが違うと言わざるをえない。
文章はちょっとだけ違う。私が研究していた S.K. ランガーによると、論弁的形式は最も発達したシンボルである。シンボルとは、意味を(趣意= conception) を伝えるもの。芸術も含め、全ての伝達は、シンボルによって行われているとする。
文章は、語彙がある。語彙には明確な意味がある。語彙は、一音より多くのものを閉じ込める力がある。もちろん、ライ・クーダーのように一音で勝負するミュージシャンもいるだろう。ただ、それは言語よりは聞き手の許容力で感じ方もそれぞれだ。
一方、言語は違う。学術的な用語は別だが、一般的な言葉を使っている限りは、誰もがある程度の意味を読み取ることができる。
そこでだ。例えば、忙しい時間に読むもので、いかに濃厚な文章であっても長ければ冗長と判断される。逆に、ゆっくり読もうとする時、明らかに内容の薄いものは、読み応えに乏しい。
「読み応え」を求める媒体と、「流し読み」で面白さを伝える媒体とは、そもそも次元の異なるものということか。
同じ文章でも、じっくり読む時と流し読みで伝えられるものとは、そもそも性質が異なっている。
読み応えを求めたければ、書き手の構成力、読者の道標として強力に語彙の方向性を決めて誘導していかなければならない。
一方、流し読みで伝えるものは、書き手のインプロビゼーション。感じたことが語彙から多方面に広がって、多様な解釈を産み出し、全体として、「なんとなく」理解できるものでなければ、面白くない。
流し読みには当然、読み手のスキルも問われる。他方、書き手が「詩的要素」も含めながら、一言に込める深度を加え、仮に書き手と読み手が同じシンボルを操れた時、おそらくは「読み応え」のあるものとなる。
この点は、①文章の長さ②語彙に込める意味の深さ、の2つが軸となってある程度の相関関係もあるように思う。