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多感気思春期獄門期(仮)

この話しは事実に基づいた自伝的小説である。

=荒れた小学校

『比嘉ちゃんタバコ吸いにいこうや』丸川は言った。

忘れもしない小学校2年(8歳)の夏だった。

そいつは建設関係の社長の息子で、父親のタバコをこっそり頂戴したそうだ。

『比嘉ちゃんも吸う?』

『俺はええわ。体に悪いらしいし』

『ほなっ、先生けえへんか見張っといて』

と言われドキドキしながら見張り番をした。

丸川は在日コリアン三世だ。祖父の代から日本に移り住んだのだと言う。

それがどうってことはないが、俺が住んでいた大阪市平野区って地域は在日コリアンや在日チャイニーズ、被差別部落など日本では差別をされる側の人間が多くいた。

そして俺はそいつらと仲良くなった。

現在は、ありとあらゆる差別をなくしたいと思い精神疾患を抱える患者のサポートをしているが、この辺に所以があるのだと思う。

小2でタバコを吸い出すのだから、その後の展開も早い。

丸川にはじまり尾上、下山など小4でタバコは当たり前になっていった。

俺がタバコを吸わなかった理由は単純で『親父』がヘビースモーカーだったからである。

超短気的な性格の持ち主で、家で食事中。カニクリームコロッケの横に申し訳なさそうについているキャベツでもこぼすようなら、口より先に手が出るようなハゲたオッサンだ。

いつか強くなってこいつを半殺しにしてやる!と、その後の俺の人生に多大なる影響を与えた人物である。

まぁ、その人物のおかげか、なにかはわからないが、タバコは絶対に吸わなかった。

小学校5年くらいになると丸川中心に万引きをし始める。

でもこの万引きをしたモノが今思えば笑える品物はがりで、

・動かないポケベル(展示品)
・サイズの合わないGパン(BBOYサイズを越えたもの)
などなど

『見てみ。俺ポケベル持ってんねん』

『すげえな見せてえや』

『ええよ。でも触らせへんけどな』

と、ポケベルの番号も教えてくれず1ヶ月くらいは『あいつポケベル持ってんで!すげえな!』って、他の人間に言いふらすほど素直に信じていた。単細胞な生物である。

=ローリング比嘉の誕生

『どうやって乗るん?』

『右のハンドル回したら走るで』

『やばいな〜!めっちゃ早いやん!チョッ、チョッ、ウイリーするって。汗』。

中学一年時、俺は初めて二輪駆動車にまたがった。

またの名を『原付』という。

それまで自転車しか乗ったことがなかったから、超楽しかった。

大和川という一級ドブ川の河川敷を100kgの俺は駆け抜けた。

YAMAHAジョグにまたがって

気持ちよかった

100kgの体格ながら軽い身のこなしで『ローリング』という技を覚えた。

なんてことはない。

まっすぐな道をクネクネと右に左に車体を倒しながら走るだけだ。

この走り方が好きすぎて『ローリング・比嘉』というイカしたあだ名をもらった。

カッコいいじゃないか、ローリング・ストーンズみたいで。

この頃になると先輩・後輩というのも学ばなければいけない。

先輩が言うことは絶対だ。

俺はわりと皆さんから可愛がってもらっていて、その中でも正津って先輩とはよく行動を共にした。

正津先輩と夜中のコンビニにからあげクンを買いに行ったあと

『比嘉ちゃん、(ポッコン)するから見張っといて』

と言われ、俺は見張った。

ポッコンとはバイクを盗むことである。

『ポッコンうまくいったで比嘉ちゃん後ろ乗りいや』

『ありがとうございます!正津さんさすがっすね!』

100kgの俺は正津先輩の腰に手を回し、落ちないように強くホールドする。

『比嘉ちゃん、ちゃんとつかまっときや!』

正津先輩はポッコンした後、必ずセッタ(7スター)を吹かしながらの操縦って決まっている。その時も気持ち良さそうに吹かしていた。

50ccのバイクに2ケツってやつだ。

正津さんと俺、約160kgを乗せたバイクが悲鳴をあげて街道をひた走る。

『ほな、正津さんまた・・』

降りた瞬間だった。

『はい、署まで来てもらおうか』

なんと、私服警官が後ろにいてしっかりと俺はベルトを掴まれて、正津さんは腕をつかまれていた。

向こうも2人体制でまだ少年の俺たちは逃げようがなかった。

取り調べを別々の部屋で受けながら、ギョーザ耳のいかつい角刈りのオッサンに

『意見が合わへんやんけ!オォー!』

とか、怒号を浴びせられながら取り調べを受けた。

お腹は空いても、カツ丼どころか、親子丼すら出てこない。

結局4時間以上かかって家に返してもらった。

『もうしたらあかんどっ!』キリッとしたメガネの吉川晃司風の私服警官に玄関前で言われた。

玄関を開けるとオカンが待っていてそのキリッとしたメガネの警官に

『あんた頭下げなさい。大変、お世話になりまして』と何度も言っていた。

その日の晩メシは偶然か引き寄せか『親子丼』だった。

関西風のダシが染み込んだ親子丼には母の愛がこもっていて込み上げてくるものがあった。

食べながら俺は思った。

『このままこのグループにいたら先がない』と。

その日から完全にグループを抜けた。

思い立ったが吉日・・いや、今思い返せば大吉である。

グループを抜けた俺はしばらくは1人でいたが、逆にそのグループからイジメにあう可能性があったので、別のグループに属した。

もともとモテてないが、さらにモテない街道をひた走るであろういけてないグループに入ってしまったが、、意外とそれが正解だった!

憧れのマサ・斎藤師匠に出会えたのだから。

抜けなかったメンバーは風の噂で聞いた話しだが、

丸川はヤクザとなりヒットマンとして人を刺し刑務所行き、

尾上は家で睡眠薬を飲んでからトイレのドアノブで首吊り自殺、

下山は覚醒剤中毒になりハイになり家宅侵入罪で刑務所行き、

正津先輩は行方不明に、

そして俺。ローリング・比嘉はパーソナルトレーナー・比嘉として南麻布で活動している。

しかし、いま振り返ってみても、とんでもない地域で育ったものである。

でも、それでも、俺は感謝している。

この底辺の連中と付き合えたから、上に上がるしかなかった。

そして体は引き締まったが、人を見る目は肥えた。

あの日の地元に帰ることはこの先もないだろう。

なにせ俺は未来志向だから。

振り返るな、今はただ前だけを向いて。

2019.02.15.多感気思春期獄門期(仮)

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