タフラブ〜絆を手放す生き方〜信田さよ子を読む

帯の「親子でも夫婦でも、友人や上司・部下と同じ。私は『私』、相手も『私』。侵入しない・させない関係をつくる。」の言葉が強く響いた。

自分のこれまでの子どもたち、妻、そして家族とは?という問いに対する考え方、捉え方、繋がり方、関係の取り結び方を再考する。

特に、「では、父の愛はどうだろうか。『父性』という言葉からは理性がイメージされる。感情でただ『かわいい』と抱きしめる母性の愛に対し、父性は理性的な愛で、子どもを正しい道に導くもの、というイメージだろう。しかし、実はこの『理性で包み込む愛』こそ、親子関係をこじれさせる元凶だったりする。」(p113)の件にドキリとさせられる。

親としてかくあるべきという(刷り込まれた』枠組みと責任感、道徳心から、いろいろなものを押し付け、窮屈な思い、生き方を強いてきたのではないか?

「まず断ち切らなくてはならない絡み合ったツタとは何か。それは、私たちに刷り込まれた『家族とかくあるべき』と言う固定観念や、『母親なら当然でしょ』『それが妻のつとめじゃないの』といった世間の『常識』である。」(p40)

「共依存とは、簡単に言えば、『愛情という名の支配』だ。弱者のふりをして、相手のケアを引き出したり、逆に相手を世話してケアすることで力を奪い、自分に依存させ弱者化する。愛情や世話、ケアという衣をまとい、相手を依存させる支配のことを指す。」(p32)

昨今、何か大きな事態が起きるたびに、国によって、とかく「絆」、「家族」が強調される。

「どこに行っても、管理・効率・ポジティブ一辺倒の社会であればあるほど、家族への期待は増す。言い換えれば、社会のルールからの解放区としての家族への渇望である。しかし、それは裏側から見れば、治外法権そのものであり、力のあるものがやりたい放題となり、社会での満たされない鬱憤をすべて晴らそうとするものが、猛威をふるう場所にもなりかねない。しかも、家族の城壁は厚い。プライバシーという名で固く閉ざされている。家族の砦は、収容所や殺戮の場にもなりかねないのである。」(p57)

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