【児童文学評論】 No.98 2006.02.25
絵本読みのつれづれ(12) 「あいだ」にあるもの(鈴木宏枝)
(Tさん 3歳8ヶ月、Mくん 1歳0ヶ月)
Mくんは2月16日に満1歳になった。写真はお姉ちゃんと一緒に写っているものが多いし、お下がりも多いし、なんとなく「二人目の宿命」を背負いつつあるが、それでも、赤ちゃん時代はそれなりにつきっきりだし、ハイハイとかうつぶせとかたっちとか、いろんな貴重な瞬間を(時にはTさんも一緒に)目撃できたのはうれしかった。0歳児の1年は長く感じられる。誕生日にあたって、改めて生まれたての写真を見ると、体重だって当社比で3倍くらいになっているのだから、赤ちゃんの成長力はすごい。
今は、本棚の本をなぎ倒す遊びももちろん好きなのだが、最近は少し進歩して、厚みのある柔らかい本(例えば電話帳)をぱらぱらぱらぱらと親指でめくり落とすようになった。やけに真剣な顔つきで、ぱらぱら漫画のように雑誌をめくる。夢中になるとついよだれがつーっとたれて、柔らかい本にはしみになったりするのだが、「本」という形に対して、以前よりは、人間らしい興味で接している。
Tさんが10ヶ月くらいで、座って新聞をばさばさめくって遊んでいたのに対し、Mくんは、私が読んでいる新聞の上を、なきがごとくにハイハイしていく。絵本を読んでみても、ぷいとよそを向くことが多い。畢竟、Tさんにだけ読むことが多くなってやや悪循環だったのだが、この間図書館に行ったときは、初めて少し絵本に興味を示した。
最初はこどものともシリーズから『おにぎり』を読んでも見向きもせず、書架の絵本を引っ張り出そうとする作業に夢中だった。だが、赤ちゃんには赤ちゃん絵本かと、オクセンバリーの『さわる』(かわばたつよし訳、童話館出版、1995.11)をめくってみると、不意に磁石…というより鏡を見るように見入り、最後まで集中が続いた(といっても数ページだが)。
「赤ちゃんは鏡を見たときの鏡像に、初めて統合化された<自分>を見出して喜ぶ」というのはラカンの理論だったと思うが、絵本にもその効果はあるのだろうか。赤ちゃんに赤ちゃん絵本を、という主張に、それまでどうもなじみきらないものを感じていたのだが、「赤ちゃんのためのデザイン」というよりは、赤ちゃんそのものがいることに、もしかして赤ちゃんが喜ぶのなら、鏡で喜んで遊ぶように、赤ちゃん絵本で、自分に似たひとに触れるのは、やっぱり赤ちゃんにとって特別な絵本経験なのかもしれない。
赤ちゃんといえば、定番のブルーナの絵本がある。シリーズはしかし、わりに話が冗長でいまひとつオチが足りないと感じ、ブルーナのイラストも絵も大好きなわりに、絵本はいまひとつだなあと思っていた。Tさんも、1歳ごろのときはそれほど食いつきがよくなくて棚の飾りとなっていた。パートナーは、『うさこちゃんとどうぶつえん』を読みきかせたときに、「動物園に行くうさぎに<おまえも動物だろう>とつっこみたくなる」と笑った。私は、動物園の話なのに、半分くらいは、だらだらと行き帰りの汽車の場面が大きいことが散漫に思えた。端的に言って、我が家ではそのときブルーナが受けなかったのだ。たぶん、それまでの「子どもにブルーナの絵本を読むんだ」という大いなる夢の期待の大きさにも反するかのように。
同じ頃に何かの集まりで、「Tさんはブルーナの絵本を、全然見向きもしないんですよ」と言っておもしろがられたことがある。赤ちゃんはみんな喜ぶというブルーナだけど、私もおもしろくなかったし、Tさんもさして喜ばなかった。これは、マイナスではあったけれど、世間の指標ではなく、私と私の家族の絵本体験をいつか書きとめておこうと思ったきっかけのひとつになった。ブルーナを否定するときがあったっていい、それはタブーではない、と。
だが、2年を経て、うさこちゃんは、改めてTさんの仲良しになった。最初はNHKでやっていた3Dの「ミッフィー」の放送で、ぐっと楽しんだ。放送も終わってしばらくした昨年の11月(Tさんが3歳5ヶ月のとき)、私と出かけた「ミッフィーのおたんじょうび」のこどもミュージカルが、うまくはまった。
ミュージカルは私も意外に楽しめて、50歳(!)(とは言っていなかったが)のミッフィーの誕生日会の1日を芝居仕立てにしている。2部構成で子どもに手拍子させたり歌を歌ったりするプログラムもあり、1時間半も、程よい長さだったと思う。帰宅して改めて『うさこちゃんのたんじょうび』を読んだTさんは、「ミッフィー、ミッフィー、ミッフィーちゃん♪ ハッピーバースディ!」と歌い、「おんなじワンピースだね」と表紙を眺めていた。そうして、改めてブルーナの絵本を手に取り、今度はよく読むようになった。 ブルーナの色とデザインに反応したのが、ミュージカルやテレビ放送だったというのは、book peopleとしては寂しさもあるのだが、私だって同じ穴のなんとやら。今ではTさんはひとりで『おひゃくしょうのやん』『びーんちゃんとふぃーんちゃん』『さーかす』と次々に出して読む。それを見ていると、私も、「やっぱりね、うさこちゃんおもしろいじゃない」と心から思うようになり、ウサギが動物園に行くのもまた楽し、と『うさこちゃんとどうぶつえん』も楽しく読んでいる。
本読みの時空間を作るのは本と人だけではない。経験とか、雰囲気とか、いろんなものが重なっているように思う。そして、大人の私が一方的に手渡すだけでなく、おもしろがって読んでいるTさんの姿から、「あれ、やっぱりおもしろいのかな」と私自身が思うような、逆方向の影響もありえるのだと思ったことだった。
今、Tさんは、幼年文学にも少しずつ手を伸ばしている。『テーブルがおかのこうめちゃん』(末吉暁子・作、仁科幸子・絵、岩崎書店、2005.12)は、12月に頂いて以来、もう何回読んだだろう。普通の児童書や似たような本が並んでいる中から、Tさんは新しく来たこの本を、並べるやいなや本当にめざとく見つけた。
『テーブルがおかのこうめちゃん』の主人公は、赤い小さな梅干の女の子。わりばし森にわたあめの花が咲いたのを合図に、友だちのなすびちゃんに現地で落ち合って、年に一度のお花見を楽しむ。てーぶるがおかからわりばし森に行くまでの間に、いたずらもののとうがらしこぞうが、落とし穴などの罠をしかけておく。だが、何も知らないことが逆に力になって、こうめちゃんはひっかかることはない。逆に、逆上したとうがらしこぞうの方が自分の仕掛けた罠にはまってしまう。とうがらしこぞうの素朴なドジぶりと、らんらんらんと出かけるこうめちゃんの愛らしさが、重なるように楽しめる幼年文学である。 Tさんは、どこが気に入ったのだろう。聞いてみても、「ここ」とたまたま開いていたページの絵を指しただけ。つまりは、絵があるところがいい、のかもしれないが、真相はよく分からない。ただし、私個人も、クラシックなフォントや、こうめちゃんの楽しさや、何より、話にぴったり合った夕焼け色の絵がとても好きである。
Tさんが好きなのは、お花見シーンに伴っておでんたちが緑茶温泉に入っている見開きページである。ここは自分で「おでーんでんでんぼくらはなかよし ちくわにがんもにこんにゃくだ!」と適当な節回しで歌う。「Tちゃんのすきなこんにゃくはどれかなー」と探す。「がんもってなに?」と聞くので「Tちゃんの好きなお豆腐の親戚」などと答えておく。今日は、みんながわたあめの花に見とれている白黒の絵のページで「こうめちゃんとなすびちゃんはどこにいるんだろう」としばし探していた。「ろくちゃおんせんにいるのね」と見つけて納得していた。先週は、<てーぶるがおかのこうめちゃんがスキップしているところ>なるお絵かきもしていたので、「好き」は本物なのではないかと思う。
幼年文学は絵がなくても通じる話で、絵本は絵がないと通じない、と大雑把に分けるけれど、「絵があったほうがぐっとおもしろいお話」は絵本と幼年文学の中間くらいだろうか。ジャンル分けは必須のものではないが、装丁含めた絵とテクストの幸福な合致は、どの本にも重要なことと思う。
ここで、定点観測的にTさんの読んでいる本を見ると、書きとめた日だけだがこのような感じである。
1/30
『テーブルがおかのこうめちゃん』
『うさこちゃんのおじいちゃんとおばあちゃん』
(ディック・ブルーナぶん・え、松岡享子やく、福音館書店、1988/1993.04)
『ノディーおもちゃのくにへ』
(エニッド=ブライトンさく くめみのるやく 講談社、1949/1976.12)
『しらないいぬがついてきた』
(小林与志/作・絵、鈴木出版、2003.09)
『しまじろう』 2月号
『いっしょにつくろう』
(高田千鶴子他、福音館書店、1994.10)
2/6
『ももたろう』
(おばらあやこ・ぶん/うめだふじお・え、学習研究社、2000.12)
『ロサリンドとこじか』
(エルサ・ベスコフさく 石井登志子やく、フェリシモ出版、1924/2001.12)
『しまじろう』 1月号
2/7
『ねこガム』
(きむらよしお作 こどものとも年少版、福音館書店、2005.01)
『ムシムシエホン』
(井上洋介さく こどものとも年少版、福音館書店、2005.10)
『あおくんときいろちゃん』
(レオ・レオーニ・作 藤田圭雄・訳、至光社、1967/1994)
『ぐりとぐらのえんそく』
(なかがわりえことやまわきゆりこ、福音館書店、1979/1983.03)
『ルラルさんのにわ』
(いとうひろしさく、ポプラ社、2001.09)
2/8
『100まんびきのねこ』
(ワンダ・ガアグさく、いしいももこ訳、
2/9
『くだものだもの』
(石津ちひろ文、山村浩二絵、こどものとも年少版、福音館書店、2004.08)
『おやすみなさいマーヤちゃん』
(西巻かなさく こどものとも年少版、福音館書店、2005.06)
『らったくんのばんごはん』
(坂根美佳ぶん・宮澤ナツえ、こどものとも年少版、福音館書店、2004.10)
『サンドイッチ サンドイッチ』
(小西栄子作 こどものとも年少版、福音館書店、2005.04)
『ふりかけ』
(いしだえつ子文、横尾美美絵、こどものとも年少版、福音館書店、2005.10)
『パオちゃんのなつまつり』
(なかがわみちこ作、PHP研究所、2003.05)
『びっくりぎょうてん』
(小長谷清実文、ペテル・ウフナールとふりやなな絵、こどものとも年少版、福音館書店、2004.02)
『もしもこぶたにホットケーキをあげると』
(ローラ・ジョフィ・ニューメロフ文、フェリシア・ボンド絵、青山南訳、岩崎書店、1998/1999.09)
2/17
『ノディーのがくげいかい』
(エニッド=ブライトンさく なかやまともこやく 講談社、1949/1977.02)
『どうよう名曲集』
(永岡書店編集部編、永岡書店、1977.01)
『きらぼしひめの物語』
(ベリンダ・ダウンズ刺繍 アニー・ダルトン再話 せなあいこ訳、1999/2000.10)
※ほとんど絵だけ見て、「おかあさんはどのきれいなドレスがすき?」などと聞いてくる。「Tちゃんはこのみずいろのくつ!」と自分でも考える。原画も見たことがあるが、どれもたしかにため息ものの美しさである。
『いつもちこくのおとこのこ』
(ジョン・バーニンガムさく たにかわしゅんたろうやく あかね書房、1987/1988.09)2/19
『こねずみチッポのクリスマス』(紙芝居)
『ぎゅうぎゅうかぞく』
(ねじめ正一作、つちだのぶこ絵、鈴木出版、2002.09)
『パオちゃんのなつまつり』
2/21
『いっしょってうれしいな』
(シャーロット・ゾロトウ、みらいなな訳、童話館出版、1991.04)
『でこぼこフレンズ』
『もしもこぶたにホットケーキをあげると』
『ことばのべんきょう くまちゃんのごあいさつ』
(加古里子 文・絵 、福音館書店、1972.02)
※最近の読み方としては、赤ちゃんくまが使っている赤ちゃん言葉がおもしろいらしい。「いってきまちゅ、ちゅ、だって、ははは。あかちゃーん」と笑う。お父さんのお見送りのときにわざと「いってらっちゃーい」と私が言うとげらげら笑う。
2/22
『目で見るパパとママの小児科入門』
(川上義、法研、2002.06)
2/25
『わたしのぼうしをみなかった?』
(原作ジョン・ノドゼット、画フリッツ・シーベル、ウエザヒル翻訳委員会、ウエザヒル出版社、1963/1966.07)
『ぐりとぐらのえんそく』
『パピンとサッカー』(こうつうあんぜんかみしばい)
『ぽちのきたうみ』
(岩崎ちひろ/絵と文 武市八十雄/案、至光社、1974/2003
『うさこちゃんとじてんしゃ』
(ディック・ブルーナぶん・え、松岡享子やく、福音館書店、1982/1984)
付録的な本といわゆる名作と幼年文学と絵本とその辺にある本とごちゃまぜであるが、何がおもしろいかは、まさにそのときの気分なのだろう。
だけど、今月は、ブッククラブだった『もしもこぶたにホットケーキをあげると』がおもしろかったようである。日本のマンガにも似たイラスト的な絵の絵本で、私は色使いも好きだ。 ペットのこぶたにホットケーキをあげたら、きっとメイプルシロップもほしがって、体がべとべとしたらお風呂に入りたがって…と、次々にお世話の空想が連鎖していくお話である。こぶたを飼っている女の子は、こぶたのお世話にてんやわんや。お母さんみたいに世話を焼くことになる。
異人種(?)間の世話関係でいくと「バムとケロ」のシリーズが思い浮かぶ。奔放なケロちゃんのいかにも幼児らしい欲求につきあうバムのキーワードは「しかたがないから」である。願いをかなえて懐柔しつつ、ケロちゃんのペースをととのえるバムは、とてもできたおかあさんに見える。
『もしもこぶたにホットケーキをあげると』では、こぶたはにっこりと笑って、かなえてもらう幸福感に満ちている。次々に願いが出てきて最後はもとにもどっておしまい、というスパイラルの中で、女の子は最後に疲れて眠ってしまい、そのそばで、こぶたは再びおいしいホットケーキを食べている。
こぶたをお風呂に入れたり、大工仕事を手伝ったり、ピアノを弾いたりする女の子は、不思議に表情がないことが気になっていたのだが、裏表紙を見ると、こぶたが手当たり次第にとったインスタントカメラの写真の女の子は、にっこり笑っている。ああ、よかった。なんだか、女の子が自分に重なってしまったのだ。でも、この子は、ちゃんと笑っていて、よかった。
バムも時折目を細めてケロちゃんを見て笑っている。時々でいい、笑っているのがいい。Tさんは実のところ、こぶた/ケロちゃん、女の子/バム、のどちらに共感しているのだろう。
夜になっておもちゃを片付けているそばからひっくり返してしまうMくんに、最初は泣いて抗議していたのに、最近は「はいってやるのよ、はいっ」と、なんと片付け方を教えていた。Mくんも神妙に大量の指人形をかごの中に放り込んでいた。Mくんがどさどさと出して放置した絵本を、いつの間にか片付けていてくれたこともある。バムとケロ、こぶたと女の子の「あいだ」にいるのが、姉なる幼児なのかもしれない。
(鈴木宏枝 http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/)
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あとがき大全(55回目)金原瑞人
1.長寿
本川達雄という人は、とてもおもしろい人で、名著『ゾウの時間、ネズミの時間』で有名になってから、次々におもしろい本を出してくれている。
『12歳からの読書案内』(すばる舎)でも紹介した『歌う生物学、必修編』(阪急コミュニケーションズ)は、斬新で正確な歌でもって、生物学を学ぶという、信じられないような本で、なんと本川先生ご自身が歌っているCDもついている。もう、買うしかないでしょう。
その本川先生の『「長生き」が地球を滅ぼす:現代人の時間とエネルギー』は、タイトルからいってすごい。それに帯には「ゾウもネズミも心臓は15億回打って止まる。哺乳類共通の法則を人間に当てはめれば、ヒトの寿命は26年」!
あるインタビューで、人間の寿命についてたずねられ、「生物学的にいうと、生殖が終われば、生物の存在価値はないんです」といってのける。
しかし先生はそういいながらも、とても優しい。
とはいっても、人間はどんどん寿命をのばしてきたわけだから、この長生きの人間がどうすればいいかということをちゃんと考えてくださるのだ。
だから、もちろん、『「長生き」が地球を滅ぼす:現代人の時間とエネルギー』という本、年寄りは死ねという内容ではない。そうではなくて、長く生きすぎている人間は、さて、どうしようか、という、自分もふくめて(ご本人、団塊の世代)論じた前向きの本なのだ。
そしてこの本のもうひとつの論点は、時間ってなんなんだ、ということ。
普通の感覚でいうと、時間というのは直線的で、あともどりできない、不可逆的なものだろう。しかし、アボリジニやネイティヴ・アメリカン(アメリカ・インディアン)なんかは、時間を円還的にとらえている。本川先生によると、前者は物理的時間、後者は生物的時間ということになる。
現代人はこの物理的時間、直線的時間にとらわれてしまって、生きる意味や生きる価値を見失っているのではないか。
じっくり冷静に考えれば、いまの世界がこのまま進んでいった、その先にいったい何があるのか、不安がないはずがない。
この本、時間のほかにもいろんな問題をつきつけてくれる。たとえば、人間の密集度。
ちょっと引用してみよう。
電車の人口密度は、いったいどの程度なのでしょう?
電車に定員の三倍乗っているとすると一平方メートルに八人ほどで、これはヒトサイズの動物の密度の五八〇万倍になります。
これほど密に住んでいる哺乳類の体重はどうかと計算すると〇・〇〇二グラム。じつはこんな小さな哺乳類は存在しません。一番小さいトガリネズミでも体重二・五グラム程度です。それより三桁も小さいのです。〇・〇〇二グラムといえば蚊のサイズです。
ストレスを感じるのも無理はないと思う。
ともあれ、まずは、読んでみてほしい。
ついでにその参考書を。
『世界でたったひとりの子』(アレックス・シアラー)竹書房
『大吸血時代』(デイヴィッド・ソズノウスキ)求龍堂
2.あとがき
『世界でたったひとりの子』は前回に載せたので、今回はまず、長寿がらみで『大吸血鬼時代』(表紙が抜群にいいです)。それからホリー・ブラックの『犠牲の妖精たち』とジェラルディン・マッコクランの『世界はおわらない』(装幀が抜群にいいです)を。
ほかに清川あさみさんの絵(というか、テクスタイル)による絵本『幸せな王子』(リトルモア)があるんだけど、これはあとがきなしなので。とはいえ、とてもきれいな絵本です。
訳者あとがき(『大吸血鬼時代』)
吸血鬼物というと昔からありそうだが、イギリスでの本格的な吸血鬼小説は、ジョン・ポリドリの『吸血鬼(ヴァンパイア)』(一八一九年)あたりが最初といわれている。謎の貴族ルスベンに興味を抱いた青年が、ルスベンとともに旅をするうち、次々に恐ろしい事件に遭遇するといった筋書きだ。それからレ・ファニュの『吸血鬼カーミラ』(一八七二年)。これはドイツが舞台で、ある城にカーミラという名前の貴族の娘がやってくるところから話が始まる。女の吸血鬼物で、ある種官能的な彩りもあり、ロジェ・バディム監督がこれを原作に『血とバラ』を撮っている。そしてついにブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』(一八九七年)の登場。いうまでもなく、吸血鬼物の決定版だ。
これ以降、多くの吸血鬼小説が書かれる。また映画も芝居も次々に作られていく。そして二〇世紀の恐怖小説、ホラーに吸血鬼は欠かせない存在となった。スティーヴン・キングも『呪われた町』を書き、アン・ライスも『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』をはじめ数々のヴァンパイア物を書いている。また英米では、ヴァンパイア物とヴァンパイア・ハンター物はほぼ毎月のように出版されている(ヴァンパイアがらみのロマンス小説までシリーズで出ているくらいだ)。
一九世紀に誕生し、成長した「吸血鬼」は、いまや人間によって、しゃぶりつくされ、吸いつくされているといっていい。
いってみれば、現代は「吸血鬼小説」にとってあまりいい時代とはいえない。もうほとんど、ヴァリエーションらしいヴァリエーションは出つくして、どこをどうひねったところで、ユニークで新鮮な作品はできそうにないのだ。せいぜい、エロティックな色をつけたり、サイコホラー風にしてみたり、残酷描写をちりばめてみたり、ロマンチックに描いてみたり、ボーイズラブ風に仕上げてみたりと、そのくらいだろう。ちょっと目端のきく作家なら、吸血鬼なんてものには見向きもしない。
ところがそんななかから、二一世紀、こんな吸血鬼小説が飛びだした!
『大吸血鬼時代』(Vamped)、これを読んだときは、ううん、こんな手があったかと、思わずうなってしまった。作者のデイヴィッド・ソスノウスキ、新人とはいえ、ただ者ではない。
発想、着想、構想、展開、結末、すべてにおいてユニークで新鮮で斬新、かつ登場人物・登場ヴァンパイア、すべてキャラが立っていて、魅力的で、クール。
舞台は近未来、というか、パラレルワールド。世界で吸血鬼革命(戦略?)が成功して、ほとんどが吸血鬼という世界。人血をすすれなくなったヴァンパイアたちはスーパーでパック入りの人工血液を買ってきては、それを飲んで、ごく普通に働いている。もちろん、不老不死。日光にさらされたり、身体の原型がなくなるようなことにでもならない限りは、だいじょうぶ。人間はほぼ絶滅状態……なのだが、じつは裏の社会には「人間牧場」というものがあって、そこでは「生きた人間」を飼育して、金持ちや有力者に提供している。
その人間牧場から脱走した母親と娘がいた。深い穴を掘ってそこで暮らしていたところ、やがてヴァンパイアに見つかり、母親は虐殺されてしまうが、娘のほうは逃げのびる。その娘を拾ったのが、この作品の主人公マーティ。もちろんヴァンパイア。いきなりこの娘にパン切り包丁で腹を刺されてしまう。しかしヴァンパイアなので傷はすぐに癒えていく。
さて、マーティはこのいかにもおいしそうな人間の娘をどうするか、というと、あれこれ考え、悩んだ末に、育てることにする。しかしヴァンパイア界で、ほとんど存在しないはずの人間の子どもを育てるというのは、非常に難しい。次々に難問、奇問がマーティを襲う。が、マーティは次々に、それをクリアしていく……が、それだけではない。イスズという日本車の名前をもつ娘もまた、様々な問題を突きつけてくる。が、マーティは様々な方法でそれを回避し、やがて、ふたりの間には……というふうな展開になるかどうかは、さて、読んでのお楽しみとしておこう。
以上の説明でわかってもらえたと思うが、これは恐怖小説ではない。簡単にいってしまえば、十年くらい前に流行ったPCゲーム『プリンセス・メーカー』のヴァンパイア・ヴァージョンであり、また特異な状況における、とてもリアルな子育て小説、といったところだろうか。
いたるところに、ユーモアとウィットと皮肉がちりばめたれた、この吸血鬼版父娘の物語、涙と笑いなしには読むことができない。
またあちこちにちりばめられたエピソードも辛辣だ。たとえば、ローマ法王の妹が、アメリカから電話をかける。
「エイズになったんだけど、どうしよう。選択肢はふたつ。このまま死ぬか、ヴァンパイアになって生きのびるか」
当時、ローマカトリックは、裏でヴァンパイア狩りをしていた。さて、法王の答えが知りたくなったら、この本を読んでみてほしい。
この作品のエンディング、これがまた素晴らしい。この長い作品の最後にたどりついたときの感動、それも保証しておこう。
最後になりましたが、編集の深谷路子さん、原文とのつきあわせをしてくださった鈴木由美さん、細かい質問にていねいに答えてくださった作者のデイヴィッド・ソスノウスキさんに心からの感謝を!
二〇〇六年一月十日
金原瑞人
訳者あとがき(『世界はおわらない』)
すさまじい洪水にぽつんとひとつだけ浮かぶ箱舟。いったいそのなかでは、何が起こるのだろう。そしてそのまわりでは……?
ジェラルディン・マッコクランの『世界の終わり?』(Not the End of the World)を読み終えたときは、あまりに快い読後感に、ふっとため息がもれた。
その途方もない世界の広がりと、目の前に見えるようなリアルな描写と、次々にこちらの予想を裏切ってくれる巧みな物語に翻弄されて、文字通り、舵のない船で洪水のなかを思うがままに引き回されてしまったのだが、エンディングがとても魅力的なのだ。
登場人物はまず、家長のノア、長男のシェム、次男のハム、それぞれの妻、末っ子のヤフェト(十二歳)。それからヤフェトの妻にと強奪されてきたツィラ。そしてもうひとり、聖書には出てこない、ひとり娘のティムナ。この物語のほとんどはこのティムナが語ることになる。
豪雨が降り始め、洪水のなかを流されだすと同時にいきなり激しい場面になる。箱舟にすがりつく人々を、シェムとハムが棒でなぐり落としていく。そして信心深い人々まで、溺れるがままに見捨てていく。ティムナは不思議に思う。神は、人を愛せとおっしゃったはずなのに。しかし父親のノアは、あれは悪魔がここに乗りこもうとしているのだという。本当にそうなのだろうか。ティムの心に深く重い疑問が残る。
一方、ヤフェトの妻にと無理やり連れてこられたツィラは、この狂信的な一家とはなかなかなじめない。そしてヤフェトもまた、生まれつきの気弱さもあって、おろおろするばかりだ。
そんなときのことだ。
あたしがそれを見たのはその時だった――一本の木の大枝が船尾材にひっかかっていた。ううん、ひっかかっていたんじゃない。袋か外套でそこに結びつけられていたのだ。
その枝につかまりながら、腕と肩と頭を別にして体を沈めていたのは、女の人だった。肌は紫色だった――流れの中に長く浮かびすぎたプラムみたいに。女の人は、自分の服を使って木を船尾材に結んだにちがいない。でも三日月形の船の跡を運ばれていく間、だれにも声を聞いてもらえずにいたのだ。
木の幹にまたがっているのは、麻のシャツを来た男の子だった。シャツはびしょぬれで、その下の肌の色が透けて見えた。男の子は賢人みたいに座り、目を閉じていた。まつげは雨をたっぷりふくんでいた。表情はほとんどなかった。
そして男の子の腕には、赤ちゃんがいた。
暗くゆるやかに流れてきた物語が、ここで一気に激しく、ドラマチックに動き始める。ティムナはこの男の子と赤ん坊を助けて、船倉にこっそり隠すのだ。
このあと、さらに降り続く豪雨のなか、洪水にもまれながら、物語は物語で一転二転し、思いも寄らない方向へと流れていく。
そしてようやく雨がやみ、最後の最後、素晴らしい世界が、小気味のいい音とともに大きく開ける。
そう、'Not the End of the World' 、この言葉が、新しい意味を持って、新しい希望を持って、響き渡る。最後をしめくくる、渡り鳥たちの語りは圧巻だ。
考えてみれば、聖書のエピソードは、狂信的な家長ノアと、それに服従する息子たちの演じる残酷な神の物語かもしれない。これを素材に、自由な愛の物語を作り上げたマッコクランには、ただただ驚くほかない。
これまで『不思議を売る男』『ジャッコ・グリーンの伝説』と、マッコクランの作品はふたつ訳していて、いまもうひとつ訳している途中なのだが、この人の想像力というか物語力は、すごい。普通の人とはまったく異なった想像力と、それを有無を言わせず納得させ想像させてしまう物語力の両方を兼ね備えているらしい。
この作品は、まさにそんな作者の魅力が凝縮されている。どうぞ、ゆっくり、楽しんでほしい。
なお最後になりましたが、ナイスサポートの編集者浜本律子さん、原文とのつきあわせをしてくださった鈴木由美さん、細かい質問に答えてくださった作者のマッコクランさんに心からの感謝を!
二〇〇六年一月十五日
金原瑞人
訳者あとがき
一九七一年生まれのホリー・ブラック、日本では子どもむけのファンタジー、「スパイダーウィック家の謎」シリーズが出版されているが、この『タイズ』(Tithe)は同じファンタジーながら、ちょっと違う。いや、かなり違う。いや、まったく違う。
それは最初の部分を読んでもらえばすぐにわかるはずだ。
主人公は十六歳のケイ。タバコを吸い、ミルクを飲んでいるうちに、ロックのライヴが終わり、ヴォーカルをやっていた母親がもどってくる。母親はケイからタバコをもらうと、酒臭い息を吐きながら一服する。そこへ母親の彼氏のロイドがやってきて、声をかけ……次の瞬間、ナイフを振り上げる。
「ハリー・ポッター」をはじめとする正義と勇気の正統派冒険ファンタジーのファンは、ここから先には立ち入らないほうがいい。
ケイは母親とふたり、幼い頃を過ごしたおばあさんの家にやっかいになる。そして森のなかで、瀕死の若者に出会う。
片手に反った剣を握っている。それは靄のかかった暗がりの中で、まるで細い新月のように輝いていた。渋い銀色の長い髪が濡れて首筋に張りつき、鋭い輪郭の面長の顔を縁取っている。継ぎ目のある黒いよろいの上を、雨水が細く流れていく。もう片方の手は、胸に突き刺さっている枝をつかんでいた。
木の枝で胸を貫かれた若者は耳がとがっていて、息をのむほど美しかった。妖精だったのだ。妖精はロベインと名乗った。ロベインはケイの手当を受けると、水のなかから邪悪な黒馬ケルピーを呼び出して去っていく。
こうして妖しく危険な闇のファンタジーが幕を開ける。
やがて知らされるケイの秘密、そして犠牲の儀式、妖精たちのあいだでめぐらされる計略と陰謀、敵対するシーリー・コートとアンシーリー・コートの激しい戦い、そのふたつの勢力からまったく独立して暮らしている妖精たちの策謀……それに巻きこまれていくケイと、ケイの仲間たち。そしてなにより、ケイとロベインの運命は……?
死の影があたりをおおい、血の臭いの漂うこの世界、グロテスクで、ちょっとユーモラスで、ぞっとするほど美しい。まるでボッシュか、アーサ・ラッカムか、ビアズレイの絵のようだ。
まさにエッジの立った、危ないモダン・ファンタジー。
子ども立ち入り禁止の、パンクでセクシュアルで、スタイリッシュでファッショナブルな妖精物語。いま最も注目すべき、新感覚のファンタジーといっていい。
なお最後になりましたが、編集の津田留美子さん、原文とのつきあわせをしてくださった鈴木由美さんに心からの感謝を!
二〇〇五年十月二十二日 金原瑞人
3.発音
『犠牲の妖精たち』で、「ビアズレイ」と書いてしまったのだが、正しい発音は「ビアズリ」。ついつい、やってしまう。
*****
*以下、ほそえ。
【絵本】
2006年2月
○詩人と絵本
「ワイズ・ブラウンの詩の絵本」マーガレット・ワイズ・ブラウン詩 レナ-ド・ワイスガード絵 (1959/2006.2 フレーベル館)
「焼かれた魚」小熊秀雄文 アーサー・ビナード英訳 市川曜子画 (1924/2006.2 パロル舎)
詩人と絵本というのはなかなかに相性のいいものだ。絵本のテキストライターとして知られる英米の作家の1/3くらいは詩集も出す詩人であることが多い。「はなをくんくん」のルース・クラウス、「雨っていいきもち」のカーラ・ラスキンなど……。アメリカ屈指の絵本のテキストライターで編集者でもあったマーガレット・ワイズ・ブラウンもれっきとした詩人だった。絵本のテキストには流れと飛躍がつきもの。詩が一行ごとに連続と飛躍を選択しながら、詩人の意識の有り様を形作っていくのと同様に、絵本もページをめくるごとにぴょんぴょんとジャンプで到達した地点をみせていくようなスリリングな展開がある。それがワイズ・ブラウンはとてつもなくうまい作家だった。詩人の目は寄り添いつつ、光を降り注ぐ彼方の視線をも合わせ持つ。目の前のものに同化し、その中に入り込もうとする想像の力の強さ。その強さが子どもに向けられたとき、ワイズ・ブラウンにとって子どもは、小さな大人ではなく、一個の小さなぴちぴちした動物として、別の視点や感覚を持つものとしてとらえられたのではないかしら。そうして出来たのがあのたくさんの絵本なのだろう。
今回の詩の絵本は虫を、魚を、動物たちを身近な自然のなかで、見つめ直した時に聞こえてきたことばを、ころころとノートに置いていったみたいな詩がたくさんある。声に出すと本当に楽しい。いろんな声や音がするから。ひとつの詩を読むとそれが一冊の絵本のように頭の中で見えてくるものもある。ワイスガードの絵もいい。墨と深緑の濃淡。色数の少なさが、自然の中で生きるものたちの静謐さとすがすがしさを伝えてくれる。ラストの詩である「し」の奥深さ。沈黙の奥に聞こえる言葉の音楽、言葉の歌という定義は、いつもたくさんの絵本のテキストをトランクに入れて、何回も何回も取り出しては読み返し、手を入れて、言葉の降りてくる時を待っていたというワイズ・ブラウンの創作の姿勢を思い起こさせる。原本で手に入れて、大好きになったこの詩画集は翻訳されることはないだろうと思っていた。日本では翻訳の詩集の絵本はあまり紹介されることがないから。でも、ワイズ・ブラウンらしい平明ですっきりとした日本語と原書の佇まいを活かした造本で手にすることができて、本当にうれしい。たくさんの人に手にとってほしい絵本だ。
小熊秀雄の詩と童話を教えてくれたのは、木島始先生だった。新人の編集者だった私に、小熊の詩と童話「焼かれた魚」とその英訳をした人の話をしてくれたのだった。詩人で、絵を描き、童話もかいた人。紹介された詩を読んで、プロレタリア詩人という括りからどうにもはみ出てしまう読後感に、落ち着かない感じがした。練馬区美術館で開かれていた小熊と池袋モンパルナスの画家たちの展覧会を見逃してしまったのが悔やまれる。改めて絵本化されたこの童話「焼かれた魚」を読むと、詩人の共感能力の高さと淡々としたユーモアに心ひかれた。くり返されるやり取り、体がどんどん変わっていく様へのおどろき、あるべきところにおさまる得心の行く結末。どれも童話の定石を押さえたものなのだが、かわいそうだともうれしそうだともいえそうな不思議な味わいは、独自のものだ。画家の絵は(エッチングだろうか)そのうすらおかしいような展開を押さえた色味で具体化し、秋刀魚にまとわりつく空気を描くような感じがあって、おもしろかった。
○その他の絵本、読み物
「嵐のティピー」ポール・ゴーブル作 千葉茂樹訳 (2001/2006.1 光村教育図書)
一貫してネイティブ・アメリカンの物語を描いている作家の絵本。久しぶりの翻訳と言える。ティピーというのはテントのこと。その作り方や模型作りの勧めまでのっている。本編はこのティピーに描かれる模様の元になった物語。ブリザードの主ストーム・メーカーが一族の長をひきよせ、印と予言を与え、その先々の幸運と過ごし方を語った。「のうまになったむすめ」などの以前のゴーブルの絵本と違うのは、伝承をそのままで1冊とはせず、伝承が現在のネイティブアメリカンの暮しにつながっていることを写真などで示すようになったところだろうか。それが、この絵本の場合はHOW TOのページとリンクして意味をなしているのだと思う。
「ずっと ママといっしょがいいの!」ヒド・ファン・ヘネヒテン作 のさかえつこ訳(2005/2006.3 主婦の友社)カンガルーのママのお腹の中にいるのが大好きで、大きくなったのに外へ出ていこうとしない女の子。ママは大きくなったのだから、外に出てごらん、楽しいよ、といろんな動物たちの様子を見せては誘うのですが……。結局、自分と同じ年格好のカンガルーの子と出会うことで、外へ出たくなってしまうというラストは小さな子の日常にもあてはまる、なるほどなあという結末。子どもはママと一緒がいいとごねる主人公を笑いながらも、ちらっと自分を振り返って、ママにすりすりと寄ってくるような感じかな。元気のいいイラストと親しみやすい訳でたのしい。
「雪窓」安房直子作 山本孝絵 (2006.1 偕成社)
今の季節にぴったりなお話絵本。夜の雪山の木立がこんなにきれいに描かれているのを見るだけで、このお話の世界にストンとはいってしまう。人情(?)に厚いたぬきとなんとも人のよいおでんやの主人。ひとりぼっちの主人には辛い別れがあったのだけど、それがゆるゆるとほどけていく様がやわらかなファンタジーで描かれる。たぬきや天狗、小鬼たちなどの異形のものを得意とする画家が、うつくしいこの物語の静けさをいかに描くかが絵本化の胆だっただろう。人の描き方の癖を人間味としてとることができればよし、そうでない安房ファンは手にとりにくいかも。でも、この描き方だからこそ、手にとれる層もいるわけで、安房ファンタジーの読者の裾野を広げることになると思う。
「さとうねずみのケーキ」ジーン・ジオン文 マーガレット・ブロイ・グレアム絵 わたなべしげお訳 (1964/2006.1 アリス館)
絵本というよりも絵童話といったほうがいいようなボリュームを持つおはなし。「どろんこハリー」でよく知られるコンビが描いている。とるに足りない者とこき使われる見習いコックのトムと小さなハツカネズミが協力して、王様主催のケーキコンテストで優勝するという他愛のないお話なのだけれど、はらはらするシーンやどうしましょうとうなだれてしまうシーンもあって、起伏にとんだ物語となっている。ラストは安心のめでたしめでたし。ここはさらさらと描かれたようなグレアムのかわいらしいイラストを愛でましょう。
「うさぎのルーピースー」どいかや (2006.2 小学館)
朝起きると机の下でうさぎが死んでいました……という最初の一文と目を閉じ、固まっているような小さなうさぎのイラストにはっとします。だれがこんなことをしたの?という問いに、動物たちがこたえます。なきがらを外に持っていこうとした時、お日さまの光をあびて、うさぎの毛色が明るい鹿皮色(ルーピースー)に。
その変化が、私の心をうごかします。生きていた時の姿がふわっと見えてくるような、いのちの躍動があらわれるような、そんな色。絵にしながら、土に埋めながら考えるいのちの行く末。それをうらやましいといいきる<わたし>の強さに、また、はっとしました。
「わたしたち 手で話します」 フランツ=ヨーゼフ・ファイニク作 フェレーナ・バルハウス絵 ささきたづこ訳 (2005/2006.1 あかね書房)
「わたしの足は車いす」「みえなくってもだいじょうぶ」と続いてきた障害を持つ人や子どもを主人公にした絵本の3作目。今回は聴覚障害のある女の子が両親が聴覚障害を持っているうちの子と知り合うことで、ほかの健常の子とも接点が出来ていく様子から描いているのが興味深かった。どんな感じなのか、女の子の手話を翻訳してもらい、追体験する健常の子どもたち。音の聞こえない世界から音というものをイメージすることの豊かさをつたえ、双方の感覚を共有していくのが素敵だと思った。そこの所が、いわゆる手話のHOW TO 絵本などと本シリーズの大きな違いだと思う。
「はらぺこライオン~インド民話」ギタ・ウルフ文 インドラプラミット・ロイ絵 酒井公子訳(1995/2005.11 アートン)
なまけもののライオンが楽をして獲物をとらえられないかと策を練るのだが、すずめやひつじや鹿などに丸め込まれてしまうというインド民話を、ワルリー画というインド民衆画の手法で描いた絵本。見慣れないイラストに吃驚する人もいるかもしれないが、線画と色面のバランスもよく、ページの展開も考えられて描かれている。それもそのはず、ロンドンの大学で美術を修めた画家が、物語に合わせて、ワルリー画の手法を選んで書き下ろしたのだという。お話の楽しさにインパクトのある絵があっていて、なるほどインドの村とはこのような感じだろうか、と想像が広がっていく。
「ここってインドかな?」アヌシュカ・ラビシャンカール文 アニータ・ロイトヴィラー絵 角田光代訳(2001/2005.12 アートン)
世界的に活躍するキルト作家がインドに旅した時に集めた布をふんだんに使ってキルトを作った。それを見たインドの児童文学作家がお話を後からつけたもの。インド旅行から帰ってきたアンナおばさんは、このキルト作家のことではないかしら? アンナおばさんの作ってくれたキルトにくるまって眠ると、あらら、青ねずみちゃんになってキルトの中に入ってしまったの……。ラビシャンカールはナンセンスな詩が得意で、本作でも入れ代わり立ち代わり登場する者たちに、不思議なことばかり言わせている。それが、妙に人生というものを言い当てていたりするのがおもしろい。インドではナンセンスでありながら、哲学的だと評価が高かった絵本。
「ながいながいかみのおひめさま」コーミラー・ラーオーテ文 ヴァンダナー・ビシュト絵 木坂涼訳(1998/2006.2 アートン)
いかにもインド、という装束を身につけたかみのながいお姫さま。表1から表4へと波打つ黒髪に圧倒される。おはなしはすこし仏教説話めいた展開で、入り用な人たちに自分の黒髪を全てやってしまい、頭を丸めた格好でそのまま山へ登ってしまったお姫さま。お姫さまの通った後には緑が芽吹き、川が流れ、雲が渦巻く。一種の精霊のようになって消えてしまうラストに清々しい感じがするのは、この白地の多いイラストのせいかしら。残された王や女王もまた、風に乗って聞こえる姫の歌声に少しは安堵するかしら。
「はなのこどもたち」「かわいいひかりのこたち」イーダ・ボハッタ作 松居スーザン、永嶋恵子訳 (2001/2005、12 童心社)
1900年生まれのオーストリアの絵本作家のシリーズ。およそ60、70年前の作品になると思われる。この頃ドイツにはいってきた、ビアトリクス・ポターやフラワー・フェアリーで知られるシシリー・メアリー・バーカーの影響を受けた絵本たちと言えよう。版型といい、韻文でそろえられたテキストいい、擬人化された花々の様子はベスコフの絵本も思わせる。多数の作品を残し、多彩なキャラクターのお話も作りつづけたボハッタのなかでもこの2冊は、詩画集として、見開きごとに詩とイラストで完結する、小さな春の花の詩や
光り溢れる季節の詩で構成されている。外国では詩を楽しむということが日常であるのだが、日本ではそれはなかなかにむずかしいような。ひとつひとつの詩はお茶目でかわいらしい。
「ねどこ どこかな?」ジュディ・ヒンドレイ作 ト-ル・フリーマン絵 谷川俊太郎×覚 和歌子訳 (2006/2006.2 小学館)
おやすみなさいの絵本はたくさんあるけれど、これもまた愛らしく、気持ち良さそうな絵本だ。セピア色した鉛筆の線と淡く色づけされたいろんなベッド。お花や泥に埋まって、亀の甲らにのっかって……。いろんな動物たちの寝かたをまねっこしてみるのは定番だけれど、人間だっていろんな寝床がありますよ。タイトルからもわかるように、リズミカルでくりかえしや語り掛けが楽しくて、いい。
「ながいよるのおつきさま」シンシア・ライラント文 マーク・シーゲル絵 渡辺 葉訳 (2004/2006.1 講談社)
シンシア・ライラントがネイティブ・アメリカンが満月につけた名前を折り込んだ詩をかいた。それを幻想的なイラストで包んだのがこの絵本。農場のあずまやで赤ちゃんを抱いて月を見上げる若い母親。タイトルのながいよるのおつきさまは12月の満月を呼ぶ名前。この子の1年をことほぐような静かな祈りに満ちた絵本。このお月様はお前の友だちだといってと見上げるのは、この子が12月に生まれたからだろうか? 月々の夜の鮮やかさは何だろう。月の光は一色でないことをはっきりと知ることができる。
「ぼくだって できるさ!」エドアルド・ペチシカ作 ヘレナ・ズマトリーコバー絵w むらかみけんた訳 (1977/2005.12 冨山房インターナショナル)
絵本の形をしているが、東欧によくある、小さなお話がいくつも入った幼年童話。クルテクとして有名になってしまった「もぐらとずぼん」のテキストをかいたペチシカとチェコを代表する絵本画家ズマトリーコバーのコンビ。マルチーネクはまだ学校にいけないくらいの年だから5、6才かしら。自分がまだ何でもできると思いきっている子どもの思い込みやつまずきなどをおじいさん、おばあさんがやさしく見守っていたり、おねえちゃんがちょっとイライラして見ていたり、おかあさんがどんと頼もしく見ていたりするのが、おもしろい、オーソドックスな生活童話。小さな子の思考のパターンがよく表現されていて、さすがだなあと思う。イラストと文章があっていないところがあって、読んだ時、小さな子にはわかりにくかったところもあった。
「エドワルド せかいでいちばんおぞましいおとこのこ」ジョン・バーニンガム作 千葉茂樹訳 (2006/2006.2 ほるぷ出版)
バーニンガム70歳の新作。ほにょほにょとした線や塗りむらも、ある種の味としてしまうのがバーニンガムの絵のすごいところ。今回のおはなしはらんぼうで、やかましくて、いじわるで、やばんで……という男の子エドワルドがまわりの大人の一言で悪いふうにも良いふうにも変わっていくのがおもしろい。でも、ほんとうは、てきとうにらんぼうで、やかましくて、いじわる……なんだけど、素敵な男の子なのさ、という安心の結末。小さい頃、なかなか学校生活に馴染めなかったというバーニンガムが「男の子ってこんなものさ。がたがたいいなさんな」といって、にやりと笑う顔が目に見えるようだ。今回もまた、子どもに厳しすぎるヒステリックな大人が出てくるが、なんともいいかげんによいではないの、と引き上げる大人もいて(必ずしもちゃんと一部始終を見ているわけではないのだけれど)バランスはとれている。ようはバランスなのよね、とわかっているけど、つい目の前のことにがたがたガミガミ言ってしまうかあちゃんとしては、耳の痛い絵本でもありました。
「チータカ・スーイ」西村繁男作(2006.1 福音館書店)
チータカ・スーイ ウォー ガオーと楽隊や龍や虎や獅子が練り歩く。子どもたちが夏の昼間に歩いていくのだ。その姿は大人には見えないらしい。みんな自分のことで精一杯で、よそ見をする余裕がないらしい。通りを歩く、子どもや公園で遊んでいる子には、この隊列が良く見えているのだ。それが不思議な空気を絵本の中にかもしだす。通っていく町並みは昭和の30年代くらいだろうか。スーパーマーケットなんかない商店街を子どもたちは練り歩く。こまごまと描かれるお店の様子が楽しい。ポスターにしても、看板にしてもそれぞれに雰囲気があり、どれも角が丸くなった感じがする。チータカ スーイという音に身をゆだねながら、目はしっかりと皆の生活を追っていく。ラストはドドーンと派手ににぎやか。もどる隊列に祭りの後の物悲しさがある。
○その他の読み物
「ジュディ・モード 地球をすくう」メーガン・マクドナルド作 ピーター・レイノルズ絵 宮坂宏美訳(2002/2005.12 小峰書店)
エコプロジェクトもジュディが関わるとこんなにおもしろい。優等生ではないけれど、思い込みと実行力はあるジュディだから、ツボにはまった時は、すごい威力を発揮する。それが本作では良くわかる。テンポよく小学生の日常を物語化しているのだが、今回は日本の学校も熱心なエコなお話なので、興味を持つ子も多いのではないかしら。あとがきはいつも親切で、いろんな情報をのせ、この本を読んで自分でもやってみようと思う子どもの意欲をきちんとすくいあげている。
「真夜中のまほう」フィリス・アークル文 エクルズ・ウィリアムズ絵 飯田佳奈絵訳 (1967/2006.2 BL出版)
看板の中に描いてある動物の絵が真夜中の鐘の音が鳴るあいだに動きだし、一番鶏が鳴くあいだに元にもどるという魔法。昔話にありそうな設定だけれど、出てくる看板の中の動物たちがとてもおっとりと親切で、ラストの事件の解決もうまく、なかなかに素敵な童話。今の作家はこういうメルヘンめいたふっくらとしたお話が書けないと思う。昔話ほど、構成や設定が決まり切っていない、このようなタイプのお話は、ふしぎをそのままに受けとめられる年頃に読んであげるといいかも。
「虎よ、立ちあがれ」ケイト・ディカミロ作 はら るい訳 ささめや ゆき絵 (2001/2005.12 小峰書店)小さな、でも心に残る物語。母親の死を受けとめ切れていない父と男の子。父母の別れをあきらめきれない女の子。しけた町。ぼろいモーテル。そこで働く黒人の女性。頭の悪そうなモーテルの持ち主。ひどい、みじめな気持ちに変化をもたらしたのは、一頭の虎だった。モーテルの持ち主が借金の方にもらった虎。その世話を始めることになって男の子と女の子は変わっていく。詩的な表現が多く、そのたびに、しんとした心持ちになった。こういう設定は子どもの本では多いけれど、これはうまいと思う。 以上ほそえ
【児童文学時評】(芹沢清実)
2005年発行のノンフィクションより
<ノンフィクション>
『み~んなそろって学校へ行きたい!』(井上夕香著、晶文社。2005年2月)
サブタイトルは"「医療ケア」が必要な子どもたちの願い"。気管切開をしたために、日常的に経管栄養やたん吸引など「ケア」が必要な子どもたちをめぐるルポ。お母さんは合計六キロもの荷物をせおって学校へ同行する。でも、声がでなくても手話で合唱ができるなど、子どもたちの姿は明るく輝いている。生活の「豊かさ」ということ、そのために社会の側で必要な「ケア」とは何かを考えさせられる。
『三河のエジソン』 (今関信子著、佼成出版社。2005年4月)
サブタイトルは"障害を克服する自助具の発明家・加藤源重"。繊維工場の機械に巻き込まれて、右手の指と手のひらの半分を失った加藤さんに取材。最初は自分のために、茶碗をもつ、スパゲティをフォークに巻きつけるなど、手の働きを助ける器具を開発。のちには、リウマチで家事がしにくい女性のために、手の力が要らない片手用洗濯ばさみなども。ひとりひとり違う「不便さ」に応じてその人に合った自助具を開発する加藤さんは、「障害者ではなく生活チャレンジャーと呼んでほしい」という。"手の働き"という、とても具体的なことから障害/福祉を考えさせる一冊。
『ゴリラに会いに行こう』(阿部ちさと著、国土社。2005年6月)
ゴリラを追いかけ、ゴリラばかりを描いている画家がいちばんすきなのは、イギリスのハウレッツ野生動物園。日本では無名の動物園ながら、ここでは「わらいながら走りまわるゴリラ」に出会えるというのだ。
ふつう動物園でみるゴリラは、一等か二頭でつまらなそうにしているのに、ここは家族で暮らしていて、とても表情豊か。この違いはなに?
というわけで、1990年から毎年のように通いつめた。それぞれ個性的な赤ちゃんの髪型や若いオスたちの顔つき。動きが早すぎて、絵を描く手が追いつかないくらいの彼らを描いたスケッチも楽しい。
『ヒロシマ、遺された九冊の日記帳』 (大野允子著、ポプラ社。2005年7月)
広島県立第一高女一年生のおおかたは即死。生徒日誌のコピーを頼りに一年上級の著者が探しあてたのは、9冊の日記帳。
「県女」の誇りをもって入学した1945年4月は、沖縄戦のあと。B29がたびたび来襲し、空襲警報のあいまをぬって授業。授業で縫うのはモンペ。飛行機の燃料にするため、ヒマの種を家に持ち帰って栽培する。「建物疎開」として取り壊された街区の道路清掃などの「勤労奉仕」。
そんな「戦時」のなかで、くたくたになりながら懸命に「お国のため」つとめる十三歳の少女たちは、先生の冗談に笑ったこと、家族との心の交流などを日記帳に書いていく。
夏の制服が白では敵機にねらわれやすいから「国防色」か「ねずみ色」になっても、各自の夏服を縫うのが楽しくて、着るのがまちどおしくてならない。「柄も色もとりどりなので学校でまとめて、濃い目のブルーグレーに染めなおしました。それでも、少女たちにはやっぱりにあわない戦争の色です。」と著者は書く。
いまの日記とは違って、先生に提出し、ときに「字を丁寧に」などとチェックが入るもの。日曜は「家庭修練日」。
九人の少女それぞれの「その日」の朝の情景を、13歳の目になって著者が振り返り、そしてその後のできごとの証言者たちの今までをたどっていくのが圧巻。
『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士ムリアの告白』(後藤健二著、汐文社。2005年7月)
長く内戦の続くシエラレオネ。そこでは子どもたちが反政府軍に拉致されて兵士となっていた。軍を脱走するなどして保護された彼らを収容する施設で、ジャーナリストの著者がであった十五歳のムリアが、表紙写真の少年だ。強いまなざしの下にうすく三日月形の傷がみえるが、これは覚醒剤を摺りこんだ跡。殺し殺される恐怖と痛みの過酷な体験からようやく逃れ、日常へ、そして未来へ向かおうとする元子ども兵士たちに寄りそうような取材で、その心の軌跡をたどる。
『戦争が終わっても ぼくの出会ったリベリアの子どもたち』(高橋邦典・写真・文、ポプラ社。2005年7月)
あるいは施設で、あるいは仕事を得て、「日常」への復帰を図る元・少年兵たち。家族を失い、あるいは右手をなくしても、きらきら笑顔をなくさない子どもの美しい表情だけでなく、所在無げにたむろする、心の行き場をなくした姿も。戦争が残した影は、子どもだからこそ濃い。
『あなたのたいせつなものはなんですか…カンボジアより』(山本敏晴・写真・文、小学館。2005年7月)
医師でもある写真家の問いに、子どもたちが描いてくれた絵は、「家族」「牛」「戦争のないくらし」など。動物やおとなのしぐさやようすをよく見て描いているなあ、線を三角定規で引いているのか、などなど、子どもたちの絵に興味が尽きない。
『私の大好きな国アフガニスタン』 (安井浩美著、あかね書房。2005年7月)
1994年生まれ、いま9歳の元気で希望に満ちた女の子サブジナ。でも、彼女の生まれた地は、大仏破壊で知られることとなったバーミヤン。学校教師の両親といっしょに幾度もすんでのところで戦禍を逃れてきた。一家のこれまで、そして現在の暮らしぶりをとおして、遠い国の現実を伝える。最初は遊牧民に憧れてアフガニスタンを訪ねたという著者は、現地で学校を設立・運営するジャーナリスト。
『走れ! やすほ にっぽん縦断地雷教室』(上泰歩著・ピースボート編、国土社。2005年12月)
NGOの地球一周クルーズで訪ねたカンボジア。地雷原を歩き、被害者の話を聞き、ショックを受けた十九歳は考えた。「じゃあ私に何ができるんだろう?」そこから始まったのが「にっぽん縦断地雷教室」。自転車に寝袋や地雷(もちろん爆薬は入っていない)を積んで北海道からスタート、各地で自分の見聞きしたことを聞いてもらう。ときに普通の十代にできることの限界に涙しながら、でも「できることをやる」ことからしか始まらないこと、共感の輪を広げられる喜びをつかんでいく。
以上、芹沢清実「日本児童文学」(2006年5、6月号)
*****
(野坂悦子)
【映画】
映画『スティーヴィー』
<家族愛を問うドキュメンタリー>
『スティーヴィー』は、アメリカの素顔を記録した映画だ。カントリーとロック、ゴスペルをバックミュージックに、キリスト教に支えられた米国社会の良心がのぞいてみえる。
母親から虐待を受け、見放され、祖父母のもとで育てられたスティーヴィー。プアホワイトの典型ともいえる彼の一家は、イリノイ州の小さな田舎の村で暮らしている。監督スティーヴ・ジェイムスは大学在学中、そんな少年の「ビッグ・ブラザー」となり、兄の役目を引き受けた。十年後、監督は二十四歳になったスティーヴィーに再会しようとイリノイ州を訪れる。連絡の取れなかった年月を悔い、その年月を「理解」するために映画を撮りたいと考えて。問題の多い子どもだったスティーヴィーは、想像通り、地元で様々な軽犯罪を繰り返していた。祖母や妹、婚約者のトーニャを大切にするいっぽうで、母親を憎悪し、激しい怒りを爆発させることもあった。
そんな彼に、少女に対する性的虐待の疑いがかけられる。初めは傍観者として関わっていた監督が、その時点からスティーヴィーの人生に深く巻き込まれていく。はたして無罪なのか有罪なのか。有罪なら、なぜ素直に罪を認めないのか。不誠実なスティーヴィーの対応に監督は苛立つ。悩みつつ、ときに嫌悪をおぼえつつ、監督はスティーヴィーを撮り続け、ついに判決の日がやってくる。
私は、スティーヴィーの表情から目がはなせなかった。それが虚構ではなく、「記録」されていることに驚きを覚えた。周囲の人びと、たとえば祖母、妹、婚約者、児童養護施設の里親の肉声を聞くと、スティーヴィーの奥底にあるものを愛し、今の姿を受け入れようとしているのがわかる。自分の行為をかたくなに認めなかった母親でさえ、終盤、不器用ながら、スティーヴィーに対して心を開きはじめるのだ。いっぽうで、なにより自分の生活を守るため、厄介者のスティーヴィーと距離をとり始める人たちもいる。監督だって、できれば、そうしたかっただろう。だが、できなかった。それはなぜか。
スティーヴィーを信じられるか――人は、人の何を信じたら良いのか?――この重い問いかけは、監督を通じて、映画を観る私達全員に向けられる。
彼の出所を待ってみるという、障害を持つ婚約者トーニャの言葉が最後までユーモラスで暖かい。(野坂悦子)
2002年アメリカ映画
監督 スティーヴ・ジェイムス
出演 スティーヴィー・フィールディング他
2006年2月18日(土)~
ポレポレ東中野にて封切り後、全国順次ロードショー
―子どもの文化研究所発行「子どもの文化」2006年2月号より転載―
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