【児童文学評論】 No.107 2006.11.25
〔児童文学書評〕 <http://www.hico.jp>
【絵本】
『ハンタイおばけ』(トム・マックレイ:文 エレナ・オドリオゾーラ:絵 青山南:訳 光村教育図書 2006/2006.10 1400円)
ネイトくんの元にハンタイおばけが現れる。驚いて、パパに「てんじょうに ハンタイおばけが たっているんだ!」って教えたけど、ハンタイおばけですから、消えてしまいます。それからハンタイおばけは色々いたずらをするのですが、みんなネイトくんのせいになってしまう。さて、どうする?
ユーモアたっぷりのお話が、印象深いオドリオゾーラの絵とともに描かれていきます。こうした軽いおもしろさの絵本ってたくさん欲しいんだよね。(hico)
『いつだって 長さんがいて・・・・』(今江祥智:文 長新太:絵 BL出版 2006.11 1500円)
『飛ぶ教室』復刊1号に掲載されたものに加筆して絵本化された、今江による長に捧げる一品。
長が描いた今江作品の挿絵を主に構成されているそれは、今江が長に寄せる思いに満ちている。
どの絵もどの絵も、これが長さんだって思える物ばかりだし、添えられた文は、今江らしい眼差しがあふれている。
長新太ファン必見の絵本です。(hico)
『ぬすまれた月』(和田誠 岩崎書店 2006.10 1300円)
和田誠が40年前に描いた絵本を基礎に、98年にプラネタリウム用に描きなおした物を絵本化しています。
そうは言っても物語展開が懐かしいとか、時代を感じさせるとか全くないのが驚きです。
月の満ち欠けの説明の間に小さな物語が挿入されているのですが、その寓意が効いています。見せ方の巧さにも注目。
もっとも、過去に書かれた寓意が今も有効であることは、嬉しい事態ではないと言えますが・・・。(hico)
『二度と』(脚本・絵:松井エイコ 童心社 1600円)
これを絵本として見せても、それほどのインパクチはないかもしれない。が、紙芝居である、これは。前半は原爆の写真。そして真っ黒な画面があって、その次から松井による平和に向けたシンプルな画たち。これを紙芝居語りしながら、画面をサッと繰っていく効果を想像してみて欲しい。紙芝居にしかできないダイナミックな訴え方です。
紙芝居はすごい。(hico)
『ほーら、これでいい!』(ウォン=ディ・ペイ&マーガレット・H・リッパート:再話 ジュリー・パシュキス:絵 さくまゆみこ:訳 2002/2006.10 1500円)
アートンのアフリカの絵本シリーズです。今作はリベリア民話。
ひとりぼっちの頭。食べるのはべろが届く範囲のものだけ。でもさくらんぼが食べたい。腕と出会います。目が見えない腕は、頭の耳の上について、さくらんぼを食べることが出来ました。
という具合に、体の一部が次々やってきてだんだん人間になっていく。
なんともおかしな、奔放なお話です。
無駄のない画がいっそう軽味を出して、民話を現代的にアレンジしてくれています。
アートンのアフリカシリーズ、みんな趣が違って、そこもいいですね。10冊20冊とまとまってくれば、おもしろい固まりとなります。(hico)
『ベルのともだち』(サラ・スチュワート:文 デイビッド・スモール:絵 福本友美子:訳 アスラン書房 2004/2006.09 1600円)
両親が仕事で忙しく、さみしいベル。でも彼女には住み込みの家政婦ビーがいました。
ビーとの毎日が、愛おしい毎日が描かれていきます。子どもにとっての大人の大切さというのかな、それがよく伝わる物語。
今こそ読んで欲しい絵本です。
画はもちろん文句なしにいいですよ。(hico)
『学校つくっちゃった!』(佐藤よし子 佐久間寛厚 ポプラ社 2006.09 1200円)
ダウン症の4人が、みんなのために自由な学校を作ろうと、佐藤よし子、佐久間寛厚と共にマンションの一室で活動している記録写真絵本。
机にはまず絵を描いてしまおう、から始まって、植物作りからカフェまで、やりたいことを自由に自由に。
これは学校の基本のはずなんだけど、現実はなかなか難しい。でも、この写真絵本を見ていると、ヒントは見つかると思うな~。(hico)
『ほっきょくが とけちゃう! サンタからのSOS』(イーサン・キム・マツダとマイケル・マツダ:さく たむらともこ:やく ポプラ社 2005/2006.10 1200円)
地球温暖化でサンタが大変だ!
8歳の子どもが作ったお話の絵本化。そんなこと無理だとか考えない子どもの真っ直ぐさが良いですね。
こうした願いに大人がどれだけ応えられるか、ですよ、やっぱり。(hico)
『おさんぽえほん1 あるいてゆこう』(五味太郎 ポプラ社 2006.09 1400円)
まず、最初のページにプラスチックの棒についた男の子と女の子があるのね。で、この二人をはずして、手に持って、次のページからお散歩するの。
いや~、五味のアイデアは尽きること知らずで、これ一発芸ですが、楽しいの。子どもにも楽しいはず。トコトコおさんぽさせるのは。(hico)
『魔女のワンダは新入生』(メーク・スペリング:作 ザ・ポウプ・ツインズ:絵 ゆづきかやこ:訳 小峰書店 2004/2006.09 1400円)
初めて学校に行く魔女のワンダはドキドキ。で、やってきた学校はどうも違うような。なんか、魔女というより妖精の学校のような・・・・。
おもしろおかしく展開するのですが、学校を、授業を楽しめ、クラスメイトとも楽しい時間を過ごせたのなら、それが最高なんだ、という、今こそ伝えたい、基本の基本が、爽やかに描かれています。
絵のポップさもすてきだよ。(hico)
『おじいちゃんちでおとまり』(なかがわちひろ:さく・え ポプラ社 2006.08 1100円)
もう、タイトルからしていいわ。そのまんまだし、ちょっとドキドキ、でもウキウキするし。なかなかこうシンプルにはタイトルはつけられませんよ。
おとまりに行って、おじいちゃんの人生における大冒険(ほんまかいな)の話を聞くんだけれど、その話に一緒になってノッて、大冒険しちゃう男の子がいいな。もちろんおじいちゃん最高なんだけど。
楽しく生きようよ! なのだ。(hico)
『まってる』(デヴッド・カリ:著 セルジュ・ブロック:イラスト 小山薫堂:訳 千倉書房 2006.11 1500円)
「待ってる」ことが、決して受け身の仕草ではなく、積極的な「愛しさ」に満ちた想いであることが、巧く伝えられた絵本。
子どもはもちろん、大人も楽しめます。ってか、絵本は子どもだけのためのメディアではないのです。(hico)
『オリビア バンドをくむ』(イアン・ファルコナー:作 谷川俊太郎:訳 あすなろ書房 2006/2006.11 1500円)
おなじみの子豚オリビアちゃんシリーズ4作目。
今回、家族で花火大会に出かけるのですが、なぜかオリビア、花火大会ならバンドが出るはずだと主張。出ないとママに言われると、なら私がバンドになると。っても一人では出来ないとパパの正しい指摘。でもそんなことにめげるオリビアのはずもなし。一人でバンドをするのだ!
で、いよいよ花火大会の日。
オリビア初登場の時のインパクトはなくとも、オリビアは相変わらずオリビア。大健在です。(hico)
『くものニイド』(いとうひろし ポプラ社 2006.07 1200円)
いとうひろしらしい、小さいけれどちょっと楽しい物語です。
ニイドはりっぱなくもなので、たいていのものはその糸で捕まえてしまいます。が、風だけは困った。でもそこはりっぱなニイド。風を捕まえる蜘蛛の巣を作ります。見事捕まえた風。でも蜘蛛の巣がいっぱいにふくらんで、ニイドごと飛んでいってしまう。
それから仲間のくもたちは、雲を見るたびに、あれはニイドが作った蜘蛛の巣が風を捕まえてふくらんだ物だと思う。
楽しいオチですよね。(hico)
『カミさま全員集合』(内田麟太郎:作 山本孝:絵 岩崎書店 2006.11 1200円)
出雲に神様たちが集まってくる。ただそれだけの設定のお話なんですが、それぞれの神様のあつまり方の個性など、内田ならではのユーモアにあふれています。内田さん、なんでも来い! 無敵状態ですね。(hico)
『だあれだ』(まつおかたつひで ポプラ社 2006.10 1100円)
かべの向こうから覗いているのはだれだ? の連鎖物です。
ただそれだけなのですが、当然ながら、ただそれだけなのがいいのです。バアーと姿の見せ具合、驚き具合を楽しみます。ちっちゃな子はしつこく喜ぶかな。ただ、バアーのだれかをもう少しバラエティ豊かにしてもらった方がもっと楽しかったかと。(hico)
『つぶらさん』(菅野由貴子 ポプラ社 2006.10 1200円)
とぶのが嫌いな赤い鳥のドリルは、りゅうの子どものような者を拾って、つぶらと名付けて育てていた。というんだけど、ホント?
ページを繰るごとに少しずつ広がっていく想像力。ホントかウソかはもはや関係なし。想像力はここにいたと教えてくれるのだから。(hico)
『もうすぐここに いえがたちます』(石井聖岳 ほるぷ出版 2006.10 1300円)
おうちの絵本シリーズ第2弾です。
新しい家が建つので「わたし」はおおはりきり。たくさんのお風呂があって、布団もいっぱい、おばけもいっぱい・・・。でももちろん本当の家はそうではなくて。
そこで、作ってもらいましょう。いろんな部屋がある家を読者に。という趣向。夢の家のイメージをもう少しふくらませて欲しいですが、企画としてはおもしろいです。(hico)
『おやつのじかん』(軽部武宏 長崎出版 2006.11 1300円)
きょうのポッコちゃんのおやつは大好きなミルクとイチゴ。でも手を洗いに行っている隙に、ミルクがイチゴを食べようとして、でも手を洗っていないとイチゴに叱られて・・・。
軽いタッチのユーモア絵本。あ~可笑しかった、で終われます。(hico)
『ペペがたたかう』(ヒサクニヒコ 草炎社 2006.10 1200円)
シリーズ5作目です。肉食恐竜を戦い、どう逃げたかが描かれています。主人公を生かしておかなければいけないので、甘いといえば甘い展開になってしまってはいますが、肉食恐竜=悪者って見方にはなってはいません。その辺りのバランスの取り方が、やはりこのシリーズの良さでしょう。(hico)
【創作】
『本朝奇談 天狗童子』(佐藤さとる あかね書房 2006.6)
コロボックル・シリーズで、日本のファンタジーを切り拓いてきたベテラン作家の久々の長編作品であり、待望の歴史ファンタジーでもある。
若い頃諸国を巡り歩き、そこで覚えた横笛が巧みな山番の与平。そこに、子どもカラス天狗の九郎丸を従えた大天狗が現れ、天狗にならないかと誘う。仲間になって、素晴らしい笛を毎日聞かせろというのだ。与平が断ると、大天狗は九郎丸に横笛を仕込んで欲しいと置いていく。
九郎丸は熱心に笛を習い、日毎に上達する。そんな九郎丸を、再び天狗に返すことにためらいを覚えた与平は、九郎丸が天狗に戻るときに必要な"カラス蓑"を焼いてしまった。そこから事態は意外な転換をする。
半分人間化してしまった九郎丸に、天狗に戻りたかったら与平の首を取って来いと大天狗はいう。困惑する九郎丸と、裁きのために天狗の館に連れて来られた与平は、大天狗から意外な秘密を明かされた。九郎丸は、三浦半島を根城にする三浦一族の嫡流だというのだ。九郎丸を兄と慕う弟分の茶阿弥も、九郎丸と同様に天狗に拾われて育てられた関東公方の血を引く少女だった。与平は大天狗の命で九郎丸と茶阿弥の守役となり、二人を連れて鎌倉に行く。二人は無事に親に出会うことができるのか。
戦国乱世の関東を舞台に、権力者の権謀術策に翻弄された幼い命を、天狗という超能力を持った影のネットワークを巧みに絡ませて救済するとともに、随所に天狗世界の不思議を克明に描き込んで、三浦一族の趨勢に歴史には刻印されないもう一つの物語を重ねてみせる。そのあたりの、ファンタジー作家ならではの卓越した手腕が堪能できるのだ。子どもばかりか大人も楽しめる傑作だ。(野上暁 産経新聞)
『ピリカ、おかあさんへの旅』(越智典子・文 沢田としき・絵 福音館 06・7)
ピリカは日本で生まれた四歳のメスのサケ。群れをなして北の海を回遊している。ある日、ピリカは目をあいたまま夢を見る。それって、ヘンだなと思うし、魚がどうやって眠るのか一瞬考えさせられる。でも、魚は海中で泳ぎながら眠るのだろうから、目を開いたまま夢を見るのも当然だ。
夢の中で、くるりくるりと回っている。それは赤ちゃんのときの夢だ。なんだか懐かしい匂いがする。誰かが呼んでいるような気がして、群れはその呼び声に応えるように果てしない大海を母の故郷をめざして移動する。
サケの一生を描いた絵本は、これまでもたくさん作られてきた。しかしこの絵本はメスのサケに憑依するかのようにその心象に寄り添って擬人化し、不思議な生態を幻想的に表現してみせる。ファンタシカルでありながら、科学的な正確さを外さないところに作家の魂胆があり、無数のサケの群れの中に擬人化されたピリカを特定化することも無く、徹頭徹尾リアルな絵で描ききるところに画家の企みがある。
母の匂いに誘われて、傷だらけになりながら故郷の川をさかのぼり、産卵にいたるまでのドラマティックな場面転換が圧巻だ。そして、ピリカはたくさんの卵を産み終えて、残った力をふりしぼり、卵をまもりながら息絶える。
選び抜かれたわかりやすい言葉とそれぞれに工夫を凝らした場面構成が補いあい、生き物が命をつないでいくことの神々しさをみごとに歌い上げて感動を呼ぶ。
ピリカとは、アイヌの言葉で「美しい」という意味だという。自然と生命を美しく描いた科学絵本の傑作がまた一冊誕生した。(野上暁 産経新聞)
『時間のない国で』(ケイト・トンプソン:作 渡辺庸子:訳 東京創元社 2005/2006.11 上下巻 各1700円)
アイルランド、音楽をこよなく愛する町。でも、時間がなぜかどんどん少なくなっきているような・・・。
JJは、母親へのプレゼントに時間を買おうとするけれど、どこへ行けば?
妖精の国へと入り込むJJ。時間のないはずのそこは、時間がどんどん入り込んできて、「死」が存在し始める。
軽く楽しめるファンタジー。でも結構しっかりと、アイルランドの伝承も楽しめる一品です。(hico)
『ドラゴンキーパー 最後の宮廷龍』(キャロル・ウィルキンソン:作 もきかずこ:訳 金の星社 2003/2006.09 2200円)
名前を与えられることなく、宮廷の龍使いの奴隷として生きていた少女がいる。
皇帝の不老長寿薬の材料にと龍が狩られそうになったとき、少女は龍を連れて逃げる。龍の名前はタンザ。龍がそう言ったのだ。少女は龍と話ができる! 龍は少女の名前も教えてくれる。ピン。
ピンとタンザの逃走劇!
オーストラリアの作家が書いた、中国を舞台にしたファンタジー。はでなバトルはありませんが、ピンの成長物語として楽しめます。(hico)
『こども哲学 いっしょにいきるって、なに?』(オスカー・ブルニフィエ:文 フレディック・ベナグリア:絵 西宮かおり:訳 朝日出版社)
タイトルが質問文になっていますが、その答えがこの本の中に書かれているかというと、そうでもありません。
私たちはついつい、大事なのは答えだと思いがちですが、実際の生活では、次から次へと問いが生まれてくるし、答えが簡単に見つかるとは限りません。むしろ、あーでもない、こーでもないと考えていることの方が多いと思います。でも、答えを出していないからこそ、色々自由に発想しているともいえます。
この本は、そんな自由度を引き上げてくれる一冊。
「ひとりっきりで、生きてゆきたい?」に、「ひとりじゃたいくつしちゃう。」と答えたとすると、「そうだね、でも・・・」と続きそして、「たまには、たいくつとつきあってもみるのも いいんじゃない?」と、答えをいったん横に置いて、別の発想に誘ってくれます。
『こども哲学』となっているけれど、大人もこの本で頭を柔らかくするのは悪くないと思いますよ。(2006.11.13読売新聞)(hico)
【評論】
『もしかして妊娠・・・そこからの選択肢』(キャロリン・シンプソン:著 冨永星:訳 大月書店 2006.10 1500円)
「10代のセルフケア」シリーズ最新刊。
タイトルがいいですね。妊娠ってついているだけで、買いにくいとか借りにくいとかあるとは思うのですが、10代にはこのシリーズ、基礎知識としてぜひ読んで欲しいです。(hico)
『絵本があってよかったな』(内田麟太郎 架空社 06・7)
絵本の楽しさは、絵と文章が響き合いせめぎ合いながら、絵だけ文章だけでは表現しきれない豊穣な世界を演出してみせるところにある。絵のかわりに写真が使われていたり、文章が全く無い絵本もあるが、その場合でも構成の妙が肝要だ。この本は、絵本のテキストと構成に絶妙な才を発揮してみせる自称絵詞(えことば)作家、内田麟太郎の初めての自伝的なエッセイ集である。
戦前は特高に追われたこともあるプロレタリア詩人を父に持ち、四歳のときに生母を失い、「万引き家出少年」だったという著者が、いかにして絵詞作家となったのか。その苦難に満ちた道程が、独特なユーモアを交えながら哀切に語られていて胸を打つ。
「私が背負わなければならなかった一番の辛さは、万引きや、暴力や、家出ではありません。突然襲ってくる自死の荒々しい暴力です」と著者は言う。継母の冷たい眼差しに晒され続けて、自己否定的な傾向を内面に育んできた著者が、十九歳の春に母を殴り倒し、故郷の大牟田から逃げるようにして上京する。
その後、川崎でマルクス・レーニン主義の文献を販売する書店に勤め、日本共産党にもかかわるが、その「唯一真理主義」から離れて精神的にもきつい時代を迎えたという。しかし、それに耐え続けたことが、笑いやナンセンスを生み出す源になったと著者は述懐する。
この作家に固有で魅力的なナンセンスな感覚や、突き抜けたような宇宙観や、独特なユーモアが醸成された淵源が、こういった半生の中に垣間見られるようで興味深く読ませる。
巻末の「絵本・テキスト作法」も、内田作品の創作の秘訣が具体的に披瀝されていて刺激的である。(野上暁 産経新聞)
『実録!少年マガジン名作漫画編集奮戦記』(宮原照夫 05.12 講談社)
東南アジアはもとより、近年は欧米にも急速に浸透しつつある日本のMANGA文化である。このところやや停滞気味だとはいえ、出版物の売り上げだけでも国内で約5千億円強。マンガを原作にしたテレビアニメや映画化による収入のほか、世界中で展開するキャラクター商品化権の売り上げまで含めたら、今やその数十倍の市場を創出しているともいわれている。この巨大マーケットはどのように構築されてきたのか?
これまで、文芸編集者の回想録はたくさん書かれてきたが、マンガ編集者のものはきわめて少ない。著者は、世界に類を見ないほど多様で豊富なビジュアルコンテンツを蓄積してきたマンガ編集の現場に、半世紀近くも関わり続けた。それだけに、文芸編集者とは全く違った、当事者でなければわからないマンガ作品誕生の秘話や悪戦苦闘が随所に滲み出ていて貴重である。とともに、それ自体が現代マンガ史を現場から補強する証言ともなっている。そして、マンガがMANGAとして世界に雄飛していくプロセスでの、作家と編集者の熱い信頼関係と切磋琢磨や雑誌相互の熾烈な競争が鮮やかに浮かび上がってくる。
著者は一九五六年に講談社に入社し、二週間の研修の後に『少年クラブ』編集部に配属されるのだが、その日のうちにいきなり手塚治虫邸へ原稿催促に行かされる。筆者もほぼ四〇年前、雑誌編集部に配属されて二ヶ月後に手塚担当となったから、著者の困惑はよくわかる。今日、手塚治虫は漫画の神様といわれているが、編集者にとっては時として畏敬すべき荒ぶる神でもあった。それだけに担当編集者は鍛えられ、大いに勉強もさせられた。
マンガがしょっちゅう悪書追放の槍玉に挙げられ、教育関係者や児童文学者からのマンガ有害論に対して、その最前線で闘ったのは、戦後マンガの旗手として走り続けていた手塚治虫であった。それを身近で見続けてきたからなのか、手塚担当者の多くは、マンガ論やマンガ史に対する関心が殊更に醸成されたようにも思える。著者もまた、日本のマンガ史を発生からたどりながら、自らのマンガ編集者体験に重ねていく。
圧巻は、一九五九年四月の『少年マガジン』創刊に参画するあたりからだ。相前後して創刊された『少年サンデー』との熾烈な部数競争が展開する。寺田ヒロオ「スポーツマン金太郎」、赤塚不二夫「おそ松くん」、藤子不二雄「オバケのQ太郎」を擁したサンデーに大きく水をあけられていたマガジンは、六五年に当時三〇歳の内田勝を三代目編集長に抜擢する。「ちかいの魔球」「紫電改のタカ」「ハリスの旋風」で、ちばてつやをスターダムに押し上げた著者は、マンガ班のチーフとして梶原一騎を原作者に起用し、川崎のぼる画で「巨人の星」を立ち上げる。
この大ヒットが引き金になり、マガジンは六七年に少年週刊誌として始めて刷り部数一〇〇万部を突破し、ついにサンデーを追い抜いた。さらに梶原原作の「あしたのジョー」の大ヒットによって、マガジンの黄金時代が始まる。大学生がマンガを読むと話題になったのはこの頃だ。巻頭カラーの大伴昌司プロデュースによる「大図解」は、子ども雑誌の枠をはるかに超えた高度で硬質なテーマを毎号取り上げて、当時駆け出しの編集者だった筆者などは、その贅沢さに羨望し剋目したものだ。しかし、それがマイナスに作用していたことに当時は気が付かなかった。読者対象年齢が上昇して、本来の読者が離反する。さらに「巨人の星」の終了と「あしたのジョー」の突然の休載が重なって、マガジンは一〇〇万部を超えた部数を半減させるという危機を迎えたのだ。
そういった状況で、筆者の宮原が第四代目のマガジン編集長に就任したのだから、前任者内田の編集方針に対してもなかなかシビアだ。それは内田の著書『「奇」の発想』の記述にも及ぶ。宮原は徹底したマンガ作品の強化により、再びトップ雑誌の座を獲得するのだが、後発の『少年ジャンプ』が瞬く間に追撃してくる。そして、今度はマガジンとジャンプの熾烈な部数争いが展開する。このように、つねにライバル雑誌が激しく競い合いながら、ということは編集者同士の激烈な闘いが伴うのだが、それがマンガというメディアを鍛え上げてきたのだ。
著者は、〈少年性〉を呼び戻すことが、少年マンガを活性化させるとし、好奇心と向上心の必要性を強調する。好奇心が向上心を呼び、それがまた新たな好奇心を刺激する。その絶え間ない繰り返しによって、「少年は人間として成長していく」のだと。退職し現場を離れてもなお、少年マンガへの愛を熱烈に語る著者の激情が、五〇〇ページをはるかに超える著作の中にほとばしり、マンガ編集者たちのこのような情熱が今日のマンガ文化を作り上げてきたのだと実感させられる。現代マンガの草創期から関わった編集者による、渾身のマンガ論であり優れた編集者論でもある。(野上暁 図書新聞)
『行きて帰りし物語』(斎藤次郎 日本エディタースクール出版部 06.8)
絵本や児童文学作品は、子どもを主要な読者に想定して書かれているのだが、大人の内面をも激しく突き動かす深い精神性が宿っているものも少なくない。この本は、改めてその奥行きの深さを認識させるとともに、昨今のファンタジーブームや子どもの文学の在り様についても痛切に考えさせられる。
周知のように、「行きて帰りし物語」とは、トールキンの『ホビットの冒険』の原書のサブタイトルで、訳者である瀬田貞二の講演をまとめた『幼い子の文学』の中でも、年少の子どもの喜ぶ物語の多くは「行って帰る」という形式が多用されているとのべ、随所でそのことに言及している。
著者は、この言葉に刺激され、「行って帰る」という物語の構造上のパターンをキイワードにして、「絵本と幼年童話」「昔話」「ファンタジー」「リアルな小説」など子どもの本の各ジャンルを横断的に分析し、その内奥に秘められた深甚な意味を摘出して見せる。現在を生きる子どもたちの様態に肉薄し、子どもの視点から長年にわたって様々な発言をし続けてきた著者だけあって、それぞれの作品の主要な読者である子どもたちの成長のエネルギーや感性に寄り添いながら、綿密な考察を試みていてなかなか刺激的である。
「絵本と幼年童話」では、マージョリー・フラックの『アンガスとあひる』シリーズやセンダックの『かいじゅうたちの いるところ』、中川利枝子の『いやいやえん』、古田足日の『おしいれのぼうけん』が取り上げられる。そして、大人が日常性の一部とみなす遊びであっても、子どもたちの魂はすでに「もうひとつの世界」に到達しているということも十分ありうるとし、「行きて帰りし物語」とは、「子どもたちの熱狂的な遊び体験の構造でもあるのだ」といい、作家が作品を創造することもまた、子どもが遊びに熱中するのと同じように、「行きて帰りし物語」なのであろうかと述べる。
「昔話」では、『桃太郎』『一寸法師』『こぶとり爺さん』を紹介し、そこにイニシエーションの儀礼と死と再生を読み解く。そして『ヘンゼルとグレーテル』からは、親殺しの主題を読み取るのだ。
「ファンタジー」の作品としては、『ホビットの冒険』『ふしぎの国のアリス』『ナルニア国ものがたり』などが分析されている。ファンタジー作品の中で「もうひとつの国」へ行く子どもたちには、「みな子犬よりはるかに深刻な斥力が働いている」「ファンタジーは子どもの不幸からはじまるのである」と著者はいう。しかし、「もうひとつの世界」と日常的現実を区切って、「ここだけが確かなものだと勝手に囲い込んだその境界の幻想を打ち破るために」、トールキンのいうところの「準創造」として「物語は書かれ、読まれる必然性があるのだ」と著者は述べる。「行く」ということは、「ここ」から「あそこ」へ移動するように見えて、「実はあらゆる場所に自らの足で立ち、その場所を「ここ」というひとつのよび名でよぶことなのだから」と。
この延長に「リアルな小説」を配し、"家出は「私さがし」"と題して、「来るべき真の自立の予行演習である家出」をテーマにした、カニグズバーグの『クローディアの秘密』と、山中恒の『ぼくがぼくであること』を読み解いていく。「子どもは子どもであるからこそ、おとなの期待や要求どおりには生きられないのだし、子どもであるからこそ、家を捨て切れない」。この「二律背反」が、「行きて帰りし物語」としての家出を成立させると著者はいう。
そして、「現状への不満が募り、状況の要求と自己の欲求の対立が明白になれば、その状況の枠組みを飛び出すしか道はない。が、このごろの子どもたちには家出というアイディアが生まれにくくなっているのではないか」と述べ、「その分だけ登校拒否がふえているのではないだろうか」ととらえる。「登校拒否というのは現象をとらえた命名にすぎず、あのようなつらいかたちで子どもたちが拒否しているのは、学校そのものではなく、学校を含む世界全体なのではないか」と鋭い。二作品を分析しながら、「おとなたちにそれとわからない銃眼のある城壁そのものとして自己を意識することから、子どもは子どもを超えていくきっかけを掴むのである」と結ぶ。
続いて、ナット・ヘントフの『ジャズ・カントリー』で、音楽を通して「語るべき自己を経験するという旅のしかた」を解読し、「再び絵本」と題した最終章に入る。シルヴァスタインの『ぼくを探しに』と、谷川俊太郎と和田誠の『あな』から、自己探求と自己解放を読み取り、林明子の『はじめてのおつかい』から柳田聖山解説の『十牛図』への展開は圧巻である。「私さがし」から「本来の自己」の探索に立会い、「行きて帰りし物語」は締めくくられるのだが、「子どもは「自覚」していなくてさえ、つねに究極をめざしているのである。究極をめざす方向以外に逸れようもなくひたすら生きる人たちをこそ、「子ども」とよぶべきなのだ」というところに、この著者ならではの気概がある。「子ども」とは年齢階梯を表すだけではなく、「いま・ここ」に錘を下ろした一つの生き様なのである。(野上暁 図書新聞)
『子どもの本を読みなおす 世界の名作ベストセレクト28』(チャールズ・フレイ&ジョン・グリフィス/鈴木宏枝・訳 原書房)
著者は、いずれもワシントン大学で長年にわたって英文学を講じてきた研究者である。フレイはシェイクスピア研究などのほか、ヤングアダルト文学が専門で、グリフィスは聖書やキリスト教文学の研究者として著名だという。彼らは、子どもの文学の古典には、並外れて豊かな土壌があり、考えるべき多面的な主題があるという共通認識から、二八の作品と作家たちを取り上げた。そこには、「かわいらしさ、無邪気さはもとより、紋切り型の幸福さえ少なく、むしろ、破壊的なエネルギーや、激しく衝撃的な経験があり、個人、家庭、社会的生活の中核にある矛盾や奇妙さ」を絶えず明るみに出すものだという。グリム童話やマザーグースはもちろん、「若草物語」「宝島」「ピーターパン」などから、「大草原の小さな家」「荒野の呼び声」「シャーロットのおくりもの」などまで、どれも良く知られている作品ばかりだ。物語の解読とともに、作家の生涯と時代背景なども手際よく紹介されていて、それぞれが興味深く、しかも面白く読める。
ペローの童話に「性欲を食欲として表現する合成的描写」を、グリムの「いばら姫」に「若い娘の性的成熟と目覚め」を読み取る。アンデルセンが、無意識のうちに性や性愛を象徴的に作品に潜ませている点を生涯との関係で解説し、「童話は、彼が生涯悩んだ欲求不満のはけ口だった」とか、エドワード・リアのノンセンス詩にも性的な隠喩を見るなど、フロイド的な解読が少なくない。ルイス・キャロルについても、「まれには裸の少女の写真を撮ったり絵を描いたりすることもあり、このふれあいに性的な要素があったことは疑う余地がない。だが、猥褻行為や不道徳行為で告発されたことはない」などと紹介されるが、そこに嫌味はない。これらの作家たちは、失われた子ども時代への愛惜と、自由奔放な子ども時代への強烈な回帰願望が、空想物語の主役たちを招聘し、セイレインたちの呼び声に呼応する。そこにまた、子どもだけではなく大人たちも感応できるのだ。書名どおり、取り上げられている本をもう一度読み直したくなってくる。(野上暁 産経新聞)
『貸本マンガRETURNS』(貸本マンガ史研究会編・著06・3 ポプラ社)
いまや世界に誇る日本のマンガ文化であり、近年は内外におけるマンガ研究も盛んになって大学での講座も増えている。しかし戦後の一時期を画した貸本マンガに対する研究は意外に未開拓であった。本書は、2000年6月に創刊以来、現在16号まで刊行している季刊雑誌『貸本マンガ史研究』の編集メンバーが、貸本業界の変転やそこで活躍した具体的な作家と作品を時代の動向に合わせて丹念に検証した労作である。
貸本屋は最盛期に全国で3万店あったといわれる。この数字に検証の余地はあるとしても、それは現在の書店数をはるかに上回るものだからその影響力たるや甚大だった。貸本マンガから登場した作家としては、白土三平、さいとう・たかお、水木しげる、佐藤まさあき、小島剛夕、つげ義春など劇画作家が中心だったように思われがちだが、そればかりではない。巻末の「貸本マンガ家リスト1000+アルファー」を見ると、手塚治虫、石森章太郎、赤塚不二夫を始めとして、現代マンガを中心的に担ってきた作家たちの多くが貸本マンガに関わってきていることが判明する。
これまでテレビの普及が紙芝居を衰退させ、白土や水木などの紙芝居作家をマンガ家に転進させたと言われてきたが、それは経済的な理由が大きかったからだとか、版元が小規模で編集者不在だったから作家は自由に創作できて様々な実験が可能だったことや、貸本マンガの読者の半数近くが女性たちで、少女マンガの基盤もそこで養成されたなど新たな発見も多々ある。今日のマンガ文化の淵源を多様に照射してみせた貴重な証言であり資料集ともなっている。(野上暁 産経新聞)
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