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豊後大友家臣団の戦国ネタ

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#耳川合戦

討ち死に三代 高田氏

討ち死に三代 高田氏

高田氏は伝えられる系図によれば、清和源氏ということになっている。
高田氏の祖は源頼朝に仕えた高田掃部助重定で大友能直の豊後下向のついて豊後に下ったとされ、来縄郷高田村に高田氏が居城を築いた、と記されている。
 しかし、高田城を築き、来縄郷の地頭だったという高田氏の名は記録がない。また、大友能直の豊後下向のことにも疑問が出されており、高田重定が能直について豊後に下ったという説も疑わしいものとなってい

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抜けがけ 田北鎮周(たきた しげかね)

抜けがけ 田北鎮周(たきた しげかね)

田北氏は大友氏の庶流で直入郡田北村を本貫にしていた武将です。生誕は1543年、没年は1578年。耳川の合戦で討ち死にです。

大友義鎮、義統に仕え、武勇に優れた武将だったようです。立花鑑載の反乱鎮圧や毛利との戦いで武功を挙げています。

耳川合戦では前哨戦の土持親成攻めで武功を挙げて、先鋒として島津軍に攻め寄せています。この勢いに慌てて島津義久は出陣して高城川で睨み合いとなります。

耳川合戦では

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勇将 斉藤鎮実(さいとう しげざね)

勇将 斉藤鎮実(さいとう しげざね)

斉藤鎮実さんは父が斉藤 長実という方です。斉藤長実は大友義鑑の時代において加判衆を務め、弓術指南の家柄です。1550年に主君義鑑が嫡男義鎮を廃嫡しようとしたのを諌めたため、誅殺されます。このため、「二階崩れの変」が勃発。

主君、義鑑は死去。当主の座についた義鎮が誅殺された長実の名誉を重んじ、重臣に抜擢。父の家督を相続させます。その際に、偏諱「鎮」をもらい。鎮実となります。生誕年が不明ですが宗麟さ

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反骨の武将 田原親宏

反骨の武将 田原親宏

大友家の家臣、田原宗家の養子になり田原宗家を継いだ武将。生誕は不明。没年は1579年です。1534年の勢場が原の合戦に参戦していますからこの時10歳だとすれば55歳ぐらいで死んでいます。大友宗麟より何歳か歳上だったのではないかと思います。勢場が原の合戦後9年後、出雲で出奔、大内氏の元に亡命。大友家臣から追放されます。現役バリバリの時に何があったのでしょう?

大友宗麟が家督を継いだ2年後に帰参。大

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二人の君主に仕えた佐伯惟教

二人の君主に仕えた武将、佐伯惟教(さえき これのり)。戦国時代の武将です。生誕年不明。死没は1578年の12/17。耳川合戦で討ち死にしたんですね。豊後佐伯氏の12代当主で。水軍の長です。二階崩れの変の時、大友義鎮(後の宗麟)に味方し、大友義鎮の重臣になります。熊本地方の制圧に活躍します。しかし、大友義鎮は同族重視の家臣団を編成する傾向が強く。非同族重臣に反感を買うようになります。そして、対立、謀

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