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紫式部はイワシ好きだった!は後世の創作

冷や汁についての本を書くのに、その材料となる煮干し(いりこ)について調べる必要があって、ネットや文献を調査していたのですが、その中で、巷間伝わるけどそれはウソだよねという案件に出会ったので、備忘録的にご紹介します。

「イワシ 歴史」というキーワードでネット検索をかけると、「紫式部」を含む項目が結構上位に表示されます。
そこでその内容を確認してみると、

下賤なものと知りながら何かのきっかけでイワシを食べた紫式部は、そのおいしさが忘れられず、夫・藤原宣孝の留守中に部屋の中でこっそり焼いて食べたところ、帰宅した夫がこもったイワシの臭いに気付き、咎められた。紫式部はすぐさま、
『日の本に はやらせ給ふ 岩清水 まゐらぬ人は あらじとぞおもふ』
(日本ではやっている《いわし》水八幡宮に参らない人がいないように、こんなにおいしいイワシを食べない人などいませんよ)
という歌を詠んで切り返したという。その話が広まり、宮中の女房言葉でいわしのことを「むらさき」と呼ぶようになった。

https://www.olive-hitomawashi.com/column/2018/09/post-1266.html

みたいな感じの記述になっているものが多いです。
これについては、例えば江戸後期の儒者・志賀忍(理斎)が著した『三省録』(1842(天保11)年成立)に、『市井雑談』からの引用ということで、次のように書かれています。

むかし紫式部、あるとき夫宣孝他出のとき、鰯をあぶり喰たるを、宣孝かへりみて、いやしきうをゝ食ひたまふと笑ひければ、
  日のもとにはやらせ給ふいはし水まいらぬ人はあらじとぞ思ふ
と詠み侍りしとぞ。

『三省録』(『日本随筆大成 第2期 第16巻』(吉川弘文館 )所収)

『市井雑談』は、林自見編の『市井雑談集』(1764(宝暦14)年)のことと思われますが、この他、江戸時代の安永6(1777)年から明治20(1887)年にかけて刊行された、日本最初の近代的国語辞典と言われる『和訓栞(わくんのしおり)』にも同様の記述が見られます。
江戸時代中期には、紫式部がイワシ好きだった説は巷間に流布していた訳です。
しかし、本当に紫式部がこんな歌を詠んだのかというと、そんな記録は今のところ文献上確認できていません。

実は同じような話は、室町時代から江戸時代初期に成立したとされる『御伽草子』(狭義には享保年間(1716~1736)に出版された『御伽文庫』を指す)23編のひとつ『猿源氏草子』の中に出てくるのですが、その当事者は、平安時代中期の歌人・和泉式部なのです。
『猿源氏草子』には、

和泉式部、鰯と申す、魚を食ひ給ふところへ、保昌来たりければ、和泉式部、はづかしく思ひて、あはたゝしく、鰯を隠し給へば、保昌見て、鰯とは思ひ寄らず、道命法師よりの、文を隠し給ふと心得て、『何を深く隠させ給ふぞや、心もとなし』とて、あながちに問ひければ、
 日の本にいはゝれ給ふいはしみづまいらぬ人はあらじとぞ思ふ
とながめ給へば、保昌聞給ひて、色を直して、いひけるは、『はだへをあたゝめ、ことに女の顔色をます、薬魚なれば、用ひ給ひしをとがめしことよ』とて、それよりして、なお〱浅からず契りしとなり。

「猿源氏草子」(『御伽草子 日本古典文学大系38』(岩波書店 1958)所収)

と書かれています。
しかし、この
「日の本にいはゝれ給ふいはしみづまいらぬ人はあらじとぞ思ふ」
という歌は、和泉式部の歌集『和泉式部正集』や『和泉式部続集』には掲載が無く、鎌倉時代中~後期に成立したとされる石清水八幡宮(京都府八幡市)の霊験記『八幡愚童訓』(乙種本)にある、藤原の氏女(うじにょ)が大般若供養した際に詠まれた

日の下にいはゝれたまふ石清水 まいらぬ人はあらじとぞ思ふ

「八幡愚童訓 乙」(『寺社縁起 日本思想体系20』(岩波書店 1975)所収)

という歌の再利用だと考えられています。
そしてここでは、石清水とイワシは全く関連性がありません。

また、『御伽草子』には、一寸法師や浦島太郎などのように、後世の我々が童話の日本昔話として知る人物や物語が含まれており、史実を伝えると言うよりも、読み物(フィクション)としての要素が大きいと思われますので、和泉式部の逸話自体も、後世の創作と考えた方が良さそうです。

イワシは古代から食されてきた魚で、「伊和志」や「鰯」、「鰮」等の文字が藤原宮や長岡宮、平城京など飛鳥時代から奈良時代にかけての遺跡から発掘された木簡に記されています。
紫式部もイワシを食べたことはあるかもしれませんが、好きだったのかどうかについては、文献・史料上確認できないので、本当のところはわからないのです。

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