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謙虚であることを美徳と信じて「謙虚する」ナルシシズムは、やがて他者に謙虚であれと要請しはじめ、最終的に謙虚さの目利き・謙虚制度の宗匠先生になる。彼らが知りながら知らないふりをしている真実とは、謙虚であるなら謙虚であるか否かを判断しない、ということである。

ジムのトイレに「靴のままお履きください」と書いてある大きなスリッパがある。靴を履いたままこれを履いてください、というほどの意味だろう。だが主語は何か。履くのは私のはずだが、「靴のまま」であるのも私なのか。すると私は靴であることになる。

補助動詞「みる」は「聞いてみる」「嗅いでみる」のように他の知覚動詞にも隠喩として働き、「知る・確認する」意味を加える(「見てみる」も)。言葉における視覚メタファーは普遍的で、英語でもseeは「分かる」の意味で使う。

プラトンは哲学者を「真実を観ることを愛する人たち」(『国家』)と定義したが(この定義がいまでも有効なのかどうかは知らないが)、社会学者を定義するなら、「ある観察とある観察の差異を観察することを愛する人たち」、となるだろうか。

(承前)言うまでもないが、これは難しい。大変疲弊するため、二三回やってやめてしまった。ただ、題詠課題に対しては、題についてひとつの「反発する言葉」を見つければよいわけだから、マトリクス形式でやる必要もないかもしれない。

(承前)〈斥力〉とは引力の反対、反発しあう力だ(斥力の重要性については『We。』第4号の田島健一の短文を参照)。つまり、斥力マトリクスでは、「最もありそうもない連合」を探索していく。ただたんに言葉の「距離」が遠いのではなく、「強く反発しあう」言葉を探す。(続)

先日「打越マトリクス」をシニフィアンの類似性に基づいて行う変則型について書いた。じつはこれの前に「斥力マトリクス」をやっていた。打越マトリクスは、いわば言葉同士の〈引力〉の力を借りて〈連想(連合association)〉を連鎖させてゆく。(続)

「椅子は座ることをアフォードする」というのがアフォーダンスの考え方だと思うのだけど、椅子は主観が人間主義的にデザインした客体だから、すでに意味付与されている。100倍の大きさの椅子を考えればよい。ぼくらはそれに座ることをアフォードされないだろう。

フロイトの想定した夢の作業には置換・圧縮・二次加工、そして思考を視覚像へ変換する機構があるが、生まれつき全盲であれば視覚像への変換は生じない(夢に視覚像がそもそも現れない)。思考は視覚以外の知覚像に変換されるのだが、これは全盲でない人びとにもたぶんときおり生じているのだろう。

『俳句を遊べ!』にある「打越マトリクス」はシニフィエの類似性で連鎖させていくものだが、さいきん個人的に、これをシニフィアン(音声)の類似性に基づいてやっている。しかしこれが難しい。声をループさせて意味を消去しようとしても意味がいつの間にか立ち上がってしまう。

ブレヒトやブロッホが理想としたような、完全に感情移入を阻止する表現は、案外難しいと思う。文法的にまるで成立していない文章があっても、我々はむしろそのことによって切迫感や切実さなどをそこに読み込んでしまう。

(承前)たとえば「山」であれば「やませ」と同レベルで「馬」や「肩」や「マナ」が欲しい。頭音の一致を必ず排除したいというのでもないし、音声的類似性だけが欲しいのでもない。それらは選択肢。意識野/下意識、連辞関係/連合関係、いずれにおいても〈習慣〉をかき乱すこと。

先日、「無数の言葉をランダムに散らした」キャンバスのことを書いた。文字の刺激があればよいのであれば、国語辞典の類はどうかというと、頭韻(というより頭音)が一致してしまうので、僕にとってはあまり実用的でない。(続)

文芸(この言葉で僕は文字を用いた営み全般を指している)に写生は可能だろうか。遠くを見ると山がある。どこにも文字はない。あの山の稜線を写生するなら、数式(関数、クラスメソッドの類)が思い浮かぶだろう。「山」という文字へは気の遠くなる飛躍がある。