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武田信虎 読書メモ その②

②祖父 信昌VS父 信縄の対立と関東の騒乱

信昌の代で、関東は古河公方 足利成氏が引き起こした 享徳の乱、山内上杉家VS扇谷上杉家による 長享の乱が発生したが、甲斐武田氏は、室町幕府=堀越公方の側につき足利成氏と敵対する道を選択をした。
しかし、足利将軍家の次代を巡って、堀越公方・細川政元・足利義材(後の義稙)の政争により、武田氏は新たな騒乱に巻き込まれていく。
九代将軍 足利義尚の早世、八代将軍 足利義政の病死により、10代将軍には、義政の弟でかつての後継者候補 足利義視の息子 足利義材が就任した。
しかし、同じく義政の弟である、堀越公方 足利政知は、自分の息子 清晃(後の足利義澄)を次代の将軍に擁立して、幕府の支援で関東公方に就任するべく暗躍したが、野望叶わず亡くなった、そして政知の野望の為に廃嫡された息子 足利茶々丸のクーデターにより、清晃の母と弟は殺害され伊豆は茶々丸が掌握する結果となった。

伊豆で堀越公方家が内紛を起こしていた同時期に、甲斐では、信昌から惣領の地位を継承してい息子 武田信縄のクーデターによって信昌が隠居に追い込まれたが、信昌は信縄の弟 油川信恵と共に信縄との対決を選択し、内戦へと突入していく。
武田氏の内戦は、足利茶々丸のクーデターに連動していて、堀越公方 足利茶々丸(簒奪)を支援する信縄と、反茶々丸を掲げた信昌による内戦ではって見方が今の主流のようです。
1491年 足利茶々丸のクーデター発生
1492年 信昌対信縄による武田氏内戦
1493年 明応の政変 足利義澄 十一代将軍に就任

その後、様々な勢力を巻き込んで、義澄・細川政元派と足利茶々丸派で騒乱が起こるが、伊勢宗瑞の伊豆討ち入りから、茶々丸は追い詰められていき、最終的に武田信縄を頼ったが、信昌・信縄の和睦の条件として、身柄を宗瑞に引き渡され、東国騒乱は一応の平穏を得た。

その③へ続く


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