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武田信虎 読書メモ その①

武田信虎 覆される「悪逆無道」説
平山優 著 を読みました。


これは、作中で覚えておきたいと思った内容を抜粋した読書メモです。
※書いてみたら結構な長さになってきたので分割しました。

①武田信虎以前の甲斐武田氏の興亡
②祖父 信昌VS父 信縄の対立と関東の騒乱
③信虎の登場と甲斐統一戦争
④外敵との戦いと信虎追放

①武田信虎以前の甲斐武田氏の興亡


信虎以前の甲斐守護武田氏は、1度甲斐を追われた時期があった。
甲斐守護だった武田信満の時に、関東で、鎌倉公方 足利持氏と前関東管領 (犬懸)上杉氏憲(禅秀)の対立が激化し、遂に上杉禅秀の乱が勃発したからである。
武田信満は上杉禅秀に娘を嫁がせていた為、禅秀に味方したが、将軍義持の支援を得た持氏に上杉禅秀は敗れ、信満も持氏の征討を受け、甲斐武田氏は甲斐の地を追われたのである。

その結果、甲斐は守護不在に陥るが、持氏が鎌倉府の管轄ではない甲斐の守護に、己に従う国人 逸見(へんみ)氏を据えようと動いた結果、持氏を警戒した幕府の支持を得て、甲斐武田氏が守護に返り咲いたのである。

甲斐守護に復帰した武田氏は、信濃の小笠原の支援を受けて、信濃の国人 跡部(あとべ)氏が一族を上げて武田氏の甲斐帰還を後押ししている。
守護に復帰した武田氏だが、信満の弟 武田信元(旧名 穴山満春)、信元の養子に迎えた信満の孫 伊豆千代丸(武田信長の息子)の2人は、逸見氏、そして甲斐の実権を奪った跡部氏と、戦いを繰り広げるが敗北した。

その後、鎌倉公方 足利持氏と万人恐怖こと 足利義教の対立が激化し、永享の乱が勃発、鎌倉府討伐に合わせて、信満の息子 武田信重が甲斐守護に就任するが、甲斐を統一する事は出来なかった。
信重の息子 武田信守も守護の実権を回復できなかったが、その息子 武田信昌の代で、遂に実権を取り戻す事に成功した。(最大の敵は 家宰の跡部氏だった)

その②へ続く

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