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原爆投下の是非を問う無意味さ オッペンハイマー鑑賞の感想

原爆投下の是非を問うことの無意味さ
原爆の父と呼ばれた天才物理学者の生涯を描いた映画、オッペンハイマー。
彼が作り出した原爆は広島と長崎に投下され、その後世界は、核戦争の恐怖が覆う世界となり、私たちは今もその世界を生きている……というのは、映画のナレーションですが、ではオッペンハイマーは悪人なのでしょうか? いや、原爆を使用したアメリカこそが悪? 真珠湾攻撃をした日本が悪い?

そんなふうに、道徳的視点から良いか悪いかで考えることに、あまり意味はありません。

なぜ意味がないのか?
本記事では、原爆投下の是非を問うことの無意味さ、その理由として、3つの違いについて、お話します。


ストーリーをざっくりと
ストーリーとしては、オッペンハイマーの生涯を、過去と現在を交差させながら描いていくものです。作りとしては、クリストファー・ノーラン監督らしいものかなと。

実験が苦手だったオッペンハイマーが、理論物理学の道に進み、カルフォルニア大学バークレー校に移って物理学を学び、量子力学の分野で活躍します。

1939年になると、ナチスの核兵器開発の情報が入ってきて、危機感を覚えたアメリカ政府はマンハッタン計画を発足し、オッペンハイマーは責任者となって、極秘に研究を進めるための町まで作って、ついに原爆を完成させ、大統領がソ連との会談に臨む前日、トリニティ実験を成功させます。

実験に成功したことで、軍は二発の原爆を運び出し、政府内で話し合われた結果、広島と長崎に投下されることが決まり、原爆投下によって日本はポツダム宣言を受諾(教科書では無条件降伏したと書かれることがありますが、無条件降伏ではありません)し、戦争は終結。

しかし、オッペンハイマーは、自らが中心となって開発した核爆弾が、多くの民間人の命を奪ったことに深い罪の意識を覚え、核戦争の恐怖に苦しみ、水爆の開発には反対。それもあって、アカ(共産主義者)のレッテルを貼られ、栄光を失います。

最後には、核戦争の恐怖という世界を作り出してしまったことをアインシュタインに伝え、物語は幕を閉じます。


良い悪いで考えても意味がない3つの「違い」
原爆の開発も投下も、良いか悪いかで言えば、悪いになるでしょう。
開発しなければ落とせないし、原爆を落とさなくてもアメリカは日本に勝てた。

確かにそうですが、たとえばアメリカが原爆の開発に着手したキッカケは、ナチスの核兵器開発です。もし、誰も核兵器をもっていないとして、北朝鮮が核開発を進めるという情報があったら、それより先に開発しないと危険だと思うはずです。そんなものを開発してはいけないと説得したところで、「そうだよね」と頷く相手じゃないことは、誰でも分かります。

でも作ったとしても落とさなくて良かったじゃん、と思うかもしれませんし、日本からすれば確かにそうです。でもアメリカからすると、自国の若者の命をこれ以上犠牲にしたくない、実際の効果を確かめる、力を持ちつつあるソ連(現ロシア)への牽制とか、絶対的な勝利によって戦後処理を有利に進めたいなど、様々な理由があったのだと思います。

だから、良いとか悪いとかってだけで見てしまうと、その背景にあるものが見えません。良いものは良い、悪いものは悪い、いつの時代から見てもそんな完璧に分けられることなんて、世の中にはほとんどないわけですし。

ということで、良い悪いで考える意味がない3つの違いについてお話します。

1、価値観の違い
一つ目は、価値観の違いです。

日本とアメリカという国の違い、有事と平時の違いなど、いろいろありますが、歴史を見るときに一番重要なのは、より大きな枠組みである、現在と当時の価値観の違いです。

20世紀初頭の価値観と現在の価値観は、大きく異なります。
まだ人種差別は当たり前だったし、領土を巡って軍事衝突も当たり前、欧米はみな植民地をもち、2024年現在、ロシアがウクライナにやっているような侵略行為が普通だった時代です。

今の価値観で見れば、全部アウトでしょう。
人種について口にすることは許されないような空気(1)ですし、大国間の戦争もないし(2)、植民地もなく、侵略行為に出ればロシアのように国際的に制裁されます。

価値観が違うだけで、ここまで差が出るのです。

今の価値観で見れば、原爆投下はとんでもないってことになりますが、威力は大きいものの、爆弾を落とすという行為は同じ、破壊力の実態が知りたい、相手は日本人だし問題ない、ぐらいの気持ちだったでしょう。

原爆以前に、爆撃機を使って都市部をじゅうたん爆撃して、大量の民間人を虐殺しているわけで、そんなことを思いついて実際にやってしまう当時のアメリカにとって、原爆を落とすことも今考えるような重さはなかったでしょう。日本は核兵器を持っていなかったですしね。

全員がそんなふうに思ってたわけじゃないでしょうし、差別は良くないと思っていた人もいたはずです。でも国全体がもつ価値観としてはそんなもので、もし原爆の投下先がヨーロッパのどこかだったら、もっと躊躇したと思います。ナチス統治下のドイツ相手だったら分かりませんが。

今の若い人に聞けば、アメリカ人でも「原爆投下は良くない。なんでこんなことをしたんだ、非人道的過ぎる」と言う人がたくさんいると思います。確かに非人道的ですし、何してくれてんだって気持ちにはなります。

でも当時、硫黄島(いおうとう)の戦いで米軍は日本より多くの死傷者を出していたし、沖縄でも大変な戦いになっていました。世論は原爆を落とすことより、自分の子供や夫が戦場で命を落とすことを嫌うわけで、終わらせるために原爆を落としたというのは、当時のアメリカ政府から国民への言い分として、政治的には正解だったと考えられます。

今の価値観で当時を裁くのは、事後法みたいなものなので、歴史を見るときは当時の価値観はどうだったかという視点が重要。今の価値観に照らして悪いと言っても、当時はそうじゃなかった、ということです。

(1)差別しないっていうのは過剰に反応もせずに普通にすることだと思うんですけどね。
(2)直接的な軍事衝突はないという意味。大国間の戦争は軍事力以外のフィールドで行われるようになったとも言えます。だから軍事力は不要ということにはならないですが。


2、立場の違い

二つ目は、立場の違いです。

原爆が開発、投下され、その結果として今も続く核兵器でお互いを牽制し合っている世界(相互確証破壊)ができた、だから最初に開発したオッペンハイマーは悪い……みたいな考えは、なんだか乱暴な決めつけではないかと。
では原爆を落とした軍、そしてそれを指示した政府、もっと言えば、当時大統領だったトルーマンが悪いのか。

原爆が投下される数ヶ月前、1945年の5月から、日本は降伏の意志を示していました。アメリカは無条件降伏にこだわりましたが、無条件降伏を受け入れては戦後酷いことになるのは分かっていたので、天皇制の維持など、いくつかの条件付きで降伏するという交渉をしていました。それを考えると、無条件降伏を言い出したルーズベストと、それを引き継いだトルーマンは、日本の立場からすれば悪と言えるでしょう。

でもアメリカの立場からすれば、トルーマンは戦争を終わらせた偉大なる大統領(価値観が変わった今はどう思われてるか知りませんが)となる。

軍についてはどうでしょう。
戦後を考えると、無条件降伏を受け入れられない日本は、アメリカが無条件降伏にこだわる限り戦うしかありません。五日もあれば落とせると思っていた硫黄島ですら、アメリカは日本以上の死傷者を出しました。本土決戦ともなれば、100万人近い死傷者が出るかもしれない。だから米軍の中には、無条件降伏にこだわることに反対する声も多数あったようです。

でも、政府としては、有条件降伏はさせないという方針なので、軍の立場としてはそれに従うしかない。

世論はというと、卑怯な真珠湾攻撃(とアメリカが言ってる)から始まった戦争、日本の条件など聞いてやる必要はない、徹底的にやれ、と思っていたとしても不思議ではありません。今のようにネットもない時代、情報も限られますし。加えて、中々終わらない戦争に対するストレスもある。

原爆の破壊力がどれほどのものか、数字の上では分かっている科学者の多くは、科学者という立場から、使うのは反対と考える人もいました。たとえばオッペンハイマーの親友であるラビは、

「爆弾には正義も悪もない。無差別に落とされる。300年の物理学の成果を、大量破壊兵器として使われたくない」

と言って、マンハッタン計画への参加を拒否しています。

ドイツの敗戦が濃厚になった頃、もう原爆を使う意味はないのではないかと、科学者たちが話し合うシーンもあります。それに対するオッペンハイマーの言葉は、

「世界は恐れない、理解するまでは。それを使ってしまうまで、世界は理解しない」

というもの。

当時のアメリカの敵は日本なので、使うことが日本との戦争を終わらせることに繋がる、そのために作ったという立場からすると、使うとどうなるか想像できて、葛藤はあっても、終わらせるためには……という思いだったのかもしれません。アメリカ人という立場からの思いもあったでしょう。

しかし、原爆投下が成功したことを聞いた、オッペンハイマーを始めとする科学者と軍人とでは、反応が極端に違います。どれほどの規模のものを落としたかを聞いて、オッペンハイマーは強いショックを受けて茫然自失、悪夢に悩まされるようになり、科学者の中には、嘔吐してしまう者もいました。

一方で、軍人は大喜びでお祭り騒ぎです。ついにやった、これで戦争は終わるという思いからでしょう。実際に戦っている立場からすれば、そんなふうに感じてもおかしくないかもしれません。

同じ国の中にいて、文化的背景が同じであっても、立場によって反応や考え方は白と黒ぐらい異なるのです。

日本の立場から見て悪だと決めつけても、それは一つの意見ではあるものの、絶対的正義になることはないわけです。


3、視点の違い

三つ目は、視点の違いです。

①中心にあるのはオッペンハイマーの生涯
この映画は、オッペンハイマーの生涯が中心なっている物語です。
そうなると当然、原爆の開発から投下の経緯も描かれるわけですが、中心はあくまでオッペンハイマーという科学者。原爆は大きな位置を占めているものの、中心ではありません。そして、日本に向けた映画でもない。

それに対して、原爆の被害が描かれていない(直接的な描写はありませんが、投下後の被害状況について、オッペンハイマーが映像で確認しているらしいシーンはあります)、日本の立場に立っていない、被爆国の思いが尊重されていないみたいな考えは、思うのは自由ですが、それを理由に映画を批判するのは違うと思います。それって、ただこっちの思いが反映されてないって感情を押しつけてるだけなのではないかと。

オッペンハイマーは日本に向けて作られた映画ではないし、原爆被害を中心にした映画でもなく、オッペンハイマーという科学者の生涯、核兵器に対する葛藤といったものが中心にある映画です。日本がやってないことを、悪意をもって描いているプロパガンダでもない。

被爆国日本の視点で描かれている映画ではないのだから、原爆被害が中心にこないのは当たり前です。そこが強調されていないからダメ、日本の立場が反映されてないからダメ、日本で上映すべきじゃないなどの非難は的外れだと思いますし、日本にとって辛いもの、許せないものだから見ないほうがいいというのも、違うと思います。

②アメリカという国
むしろのこの映画は、アメリカの判断基準が見える、アメリカの視点が見えるという意味でも、見る価値があると思います。

アメリカは、リアリストの国です。
自国の優位を保つために必要と判断すれば、核兵器も開発します。
今であれば、テクノロジーの最前線である量子コンピュータに膨大な資金をつぎ込むし、国家間の関係という意味でも同様です。

戦後、朝鮮戦争が勃発して、アジアが共産主義勢力に飲み込まれるかもしれないという事態に直面すると、敵だった日本の主権を回復させて西側陣営(資本主義国)に取り込み、チャイナやソ連と対峙したし、1970年代になると、ソ連に勝つために敵だったチャイナを国として承認して国交を結んでいます。

判断を誤ることはあるものの、良いか悪いか、好きか嫌いかではなく、勝つために必要か不要かで判断する。別にアメリカを称賛するつもりはないですが、その判断力は国として参考にすべき部分もあると思いますし、アメリカがそういう国だと分かっていれば、彼らがどうするかを見るときの判断材料にもなるのではないかと思います。

といっても、アメリカ人一人ひとりは、必ずしもそうではありません。
オッペンハイマーは個人として、水爆を作ったら他国も作らざるを得なくなる、だから作るべきではない、というようなことを映画の中で話してます。

この考え方はナイーブだと思いますが、核兵器の時代を開いてしまったことに対する罪悪感、科学者だからこそ分かる危険性など、いろいろな要素が混ざった上での判断なのだと思います。でも、仮にアメリカが作らなかったとしても、作る国は必ずあります。

たとえば日本なら、この兵器は危険だ、うちも作らないから君も作るのやめようよ、と提案すれば、OKといって本当に作らないかもしれません。しかし、チャイナ、ロシア、北朝鮮などの国は、うちは作らないと言ったら「いい判断だ、尊重する」と言いながら、心の中で馬鹿して、ほくそ笑み、開発を進めるでしょう。理由は単純、自分たちが先に作れば国際社会で優位に立てるからです。だからアメリカという国単位で考えれば、作らないという選択肢は選ばれないわけですね。

そこには、良いとか悪いとか、そういうものが入り込む余地はありません。テクノロジーそのものには善も悪もなく、使い方の問題ですしね。

原爆投下の是非も、当時のアメリカにとって必要か不要かで判断し、必要と判断したから落とした、ということでしょう。「戦争を終わらせる」という理由のために本当に必要だったかはともかく、です。

そういう視点で見れば、不快感は残るかもしれませんが、感情的にならずにこの映画を観ることができるのではないかと思います。


良い悪いではなく、今に生かすことが大事
映画、オッペンハイマーについて、原爆投下の是非を問う意味はないということで書きましたが、いかがだったでしょうか。

原爆投下は悪だ、作ったのが悪い、戦争を終わらせるために必要なことだったなど、良いか悪いかをぶつけても、価値観、立場、視点の違いがあるので、決着はつきません。

自己否定的な自虐史観はマイナスしかないので論外として、心理学でいうマインドフルネス(1)のように、感情的な見方から距離を置き、原爆を落とされるという最悪の結末から戦略的に学び、これからの日本の在り方について考え、生かしていくことが大事なのではないでしょうか。

(1)マインドフルネス。認知行動療法の一つで、自分は今怒りを感じている、というように、自分の中に生まれた感情を否定も肯定もせずに観察して、メンタルを安定させる手法。

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