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第1話 異物(小説)

-1-

いつもと同じ朝が、心の中に安心と退屈を混ぜ合わせ、新しい日が始まるという期待はすぐに、何も変わらない、人生はそんなもの、という結論を連れてくる。

明神尊(みょうじん たける)は、昨日を再生したような朝を過ごしていた。
いつもの時間に起きて、歯を磨き、出勤の準備をして、家を出る。駅までの15分ですれ違う人、横道から出てくる人は、顔を見ている頻度でいえば、友達よりも多いだろう。

駅に着き、ホームを見ても、電車に乗って周囲を見ても、同じようなものだ。知り合いではないが、顔は知っている。向こうも同じことを思っている可能性はあるし、

「いつもお会いしますよね」

などというふうに話しかけたら、相手の性格次第では乗ってきて、そこから自己紹介が始まって、などということもあるかもしれない。もちろん、たとえばの話で、明神は実際に行動に移すつもりはなかった。変な目で見られるか、相手が女性だったら、駅員を呼ばれて電車の遅延でも引き起こしてしまうかもしれない。

『もし声をかけていたら……』

頭の中に一瞬よぎった言葉はすぐに消えて、明神はいつもの場所から電車に乗った。だいたいいつもと同じ場所に立ち、バッグから文庫本を出して、しおりをポケットに入れる。この時間は、明神にとって、ささやかな幸せの時間だった。

今読んでいるのは、"動く写真"という小説で、写した覚えのない写真に自分が写っていて、それを確認したときから、自分の周りでもう一人の自分を見るようになる、というような内容だった。中盤に差し掛かり、話が盛り上がってきている。

「すみません」

乗車駅から3駅進んだところで、正面に座っていた男性が、降りるために席を立った。
明神は体をずらし、男性に道を作ると、入れ替わりで席に座った。

(ん?)

座ったタイミングで、ポケットに入れてあるスマホが振動した。

『おはよ~。
今日の夜だけど、たぶん私のほうが早く着くと思うから、駅前のカフェに入って待ってるね』

チャットの主は安西穂香(あんざい ほのか)で、中学のときから付き合いのある友人だった。高校も一緒で、その後は大学も会社も違うが、連絡は取り続けている。

『OK。会社出るあたりで連絡する』

左手に文庫本を持ったまま、右手で文章を打って返信すると、再びポケットに戻し、小説の世界に戻ったが、電車に揺られているうちに、眠気が襲ってきた。

今日は水曜日、土日休みの明神にとっては、一番やる気が落ち、眠くなる曜日でもある。以前ネットニュースで見た、ズル休みが一番多いのは水曜日だという記事に、明神は納得していた。自分だけではない、水曜日は誰でも……

そんなふうに考えているうちに、重くなったまぶたが光を遮り、かろうじて本を膝の上に置くと、夢の中へ沈んでいった。

「次は~ 安楽町~ 安楽町~」

車内アナウンスが響き、明神は目を開けた。家の最寄り駅から40分ほど、数秒前まで見ていた夢が頭に残っていて、状況を理解するのにパチパチと何度も瞬きして、降りる駅の一つ手前の駅だと気づいてホッとしたが、現実を認識すると、気分は下降し始めた。

「……」

文庫本をバッグに仕舞いながら、先程まで脳内で展開されていたストーリーを思い出す。
短い時間ではあったが、目覚めたくない夢だった。それを認識すると、少し気持ちは沈んだ。夢以外でも、何度も想像した映像に、少しアレンジが加わったような夢で、リアリティがあっただけに、目覚めたときの喪失感は大きい。

(今週はあと三日か……)

ため息のように心で呟くと、席を立ち、人の流れに乗って、いつもの駅で降りた。

「……?」

ホームに降りた明神は、一瞬足を止めて周囲を見回した。
いつもと同じ、いつもの駅。何も変わっていない、昨日も見た景色のはずだが、違和感がある。違和感の理由を説明しろと言われても、おそらくできない。違う駅で降りてしまったとか、案内板のデザインが変わっているとか、そういうものでもない。ただ、感覚が違った。まるで、初めて降りた駅のように、自分と駅との間に、距離を感じた。

(寝起きだからかな。それとも夢のせいか……)

答えは見つからなかったが、会社への道を歩いていくうちに、モヤモヤも少しずつ晴れていった。駅から10分ほど、少し曲がりくねった、通路のような道を抜けると、いつもと同じビルが見えてきた。10階建てのビルの5階。そこに、明神が勤める会社が入っている。

入り口に近づくと、水曜日の警備員が見えた。松永という、おそらく50代前半ぐらいの男性で、水曜の朝はいつも松永が、入り口のゲートの前にいる。

「おはようございます」

挨拶して、ゲートに社員証をかざすと、ブーっというエラー音が鳴った。

「あれ?」

手に持った社員証を確認する。間違えてスマホをかざしているわけではない。かざし方が悪かったのかと思い、もう一度やってみたが、結果は変わらなかった。

「え、なんで……」

社員証を顔の近くまで持ってきて、裏表確認してみても、おかしなところはない。やがて、背後からプレッシャーを感じて振り返ると、渋滞ができ始めていた。

「あ、すみません……」

反射的に列から外れて、もう一度社員証を確認する。しかし何度見ても、どこから見ても、おかしなところはない。写真の顔も自分で、折れたり割れたりもしていない。

「なんでダメなんだ……? 使用期限とかないはずだし……」

「どうしました?」

一人でブツブツ言っていると、水曜日の警備員、松永が声をかけてきた。

「いやぁ、なんで通らないのかなと思って」

明神が言うと、松永は、

「なにか違うものをかざしてるんじゃないですか? 定期券とか」

訝しげに言った。

「そんなことないですよ。
ほら、これです。昨日と同じ社員証。それに、俺を見たことありますよね? 松永さん。何度も挨拶してますし」

「いや、初めてお会いしましたけど……」

「え? いやいや、変な冗談やめてくださいよ。ただでさえ混乱してるのに……」

「いえ、冗談ではなく、本当です。
失礼ですが、そちらの社員証、見せていただいてもいいですか?」

松永は、不審者でも見るような目を向けている。明神はしかたなく、社員証を手渡した。

「……」

松永は、食い入るように社員証を見て、貼られている写真と明神を見比べているが、眉間のシワは深くなり、首を傾げている。やがて、他の警備員のところに行き、何やら話してから、明神のところに歩いてきた。

「これ、どこの社員証ですか?」

「どこのって、ここのビルのですよ」

「テクノコムって書いてありますけど、テクノコムさんの社員証はこういうのです」

松永は、ポケットから出した、社員証のサンプルらしいものを明神に見せた。そこには、確かにテクノコムと書いてあるが、自分が持っている社員証とはデザインがまったく違う。見間違えようがないほど別物といっていい。

「いや、ちょっとまってください、そんなわけ……」

「どういうつもりか知りませんけど、部外者であればビルには入れません。テクノコムさんと約束でもあるなら、

防災センターで受付してもらわないと困ります」

言いながら、松永は警戒の色を強めており、離れたところにいる警備員も何人か、明神のほうに視線を向けている。

「今から会社に電話します。上司はもう出勤してるはずなので、電話で説明してもらいますよ。俺がテクノコムの社員だって」

「どうぞ」

やれるものならやってみろと言わんばかりの松永の表情に、明神は言い返したい気持ちを押さえて、スマホを耳に当てた。

「はい、テクノコムです」

電話の向こうで、女性が言った。

「おはようございます、明神です。勝田部長、もう来てますよね?」

「明神様……ですか? 失礼ですが、どういったご用件でしょうか?」

「いや、俺ですよ、社員の明神です。部長いますよね? 代わってください」

「確認したします。少々お待ち下さい」

30秒ほど保留音が流れた後、再び繋がった。

「勝田ですが……」

「部長? 俺です、明神です。おはようございます」

「失礼ですが、どちらの明神様ですか?」

「どちらのって……何言ってるんですか! 俺ですよ、部下の明神です。今、下のゲートにいるんですけど、入れなくて……」

「失礼だが、私の部下に明神という人はいません。他部署でも聞いたことがない名前です。何かの間違いではないですか?」

「え、ちょっと、そんなわけないでしょ!? 昨日だって話ししたじゃないですか!」

「いえ、話してません。人違いでしょう。
申し訳ないが、切りますよ」

希望を断ち切られた音が、耳に響く。
明神は、全身の力が抜けたように、スマホを持った手を下ろすと、次の行動が見つからずに、床を見たまま立ち尽くした。

「確認は取れましたか?」

「……」

「もし? 確認は取れたんですか?」

「え……? あ、いや……」

「ん? なんです?」

「……明神なんて社員はいないって……でもそんなことありえない、俺は確かに……」

「落ち着いてください」

「落ち着いてなんていられるかよ!!!!」

天井にまで届きそうな声に、周りの人間の視線が、すべて明神に集中した。

「いったんここを出て、少し冷静に……」

「俺に触るな!!」

松永が伸ばした手を振り払うと、明神は叫んだ。
周囲からの視線、ひそひそ声、怯え、いくつもの感情が絡み合って、明神に向けられている。

「なんなんだよ……俺が何したっていうんだ、なんでこんな……」

握りしめた拳のせいか、体は震えている。怒りなのか不安なのか、自分の感情すらはっきりしない。昨日までいた会社から、自分の存在が消えている。警備員も知らない、世界から自分の存在だけ抜け落ちたような……
考えていると、松永が左肩に手を置いた。

「これ以上騒ぐなら、警察を呼びます。すぐに出て行ってください」

有無を言わせない目と、背後で身構えている警備員を見て、明神は、喉まで出かかった言葉を飲み込み、ビルの外に出た。


-2-

(相変わらず淡白な返事ね。まあ、尊らしいけど)

安西穂香は、会社のリラックスルームでスマホを見ながら、「クスッ」とした。
仕事の開始時間まで、まだ30分ほどある。穂香は、朝の静かな部屋で、のんびりコーヒーを飲みながら外を眺めるのが好きだった。ビルの三階から見える景色は、それほど眺めがいいとは言えないが、会社からほど近い、庭園のような公園が見えて、晴れの日と雨の日で違う表情を見せてくれる。

「おはよう、穂香」

今日の夜に行くことになっている店のメニューを見ていると、同僚の神崎涼子(かんざき りょうこ)が声をかけてきた。

「おはよう、涼子」

「ほほう」

穂香の隣の椅子に座るなり、涼子は服装を確かめるように視線を動かした。

「ん? なに?」

「今日はデートだね」

「デートじゃないよ。友達とご飯に行くだけ」

「でも男?」

「幼馴染みたいな相手だよ」

「明神くん、だっけ」

「そう。だからデートってわけじゃ……なに? なんか嬉しそうだね、涼子」

「私より、穂香のほうが嬉しそうだよ?(笑)」

「そうかな(笑)

確かに楽しみではあるよ。今日行く店は、最近できた中華屋さんで、口コミサイトでも評判いいし、メニュー見てるとお腹が鳴りそう(笑)」

スマホの画面を見せると、涼子は乗り出すように見た。

「ほんと、おいしそうだね。評判通りだったら、私も今後連れてってよ」

「うん、もちろん。
ただ、私の家の近くだから、涼子の家からちょっと遠いけど……」

「休みの日でも、休みの前でも、そこはなんとかなるでしょ」

涼子が笑うと、穂香も笑顔を返した。

「じゃあ、また後でね」

涼子が出ていくと、穂香はスマホをポケットに入れて、視線を外に移した。
空は、青々としている。
天気予報では、午後から崩れると言っていたが、機嫌が直ったのではないかと思うほど、雲ひとつない。

(このまま降らないでね)

心の中で呟くと、穂香はリラックスルームを出た。

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