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第1話 事故【死生の天秤】小説

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箕嶋一稀(みのしま かずき)は、家に着いて鍵を開けると、手も顔も洗わずに、フラフラと寝室に向かった。オンライン、オフライン含め、一日に5件の取材をこなし、隙間時間で記事を書き、食事は新幹線で食べたおにぎり二つだけ。もっとも、食事に関しては、新幹線の中で弁当を食べることもできたが、食事か睡眠か記事を書くかで悩み、記事を書いて20分の睡眠を取る、食事はその隙間の休憩時間に取る、という表決に達した結果なのだが。

(さすがに限界か……)

疲労と眠気で、その場に座り込んで寝てしまいたい衝動が襲ってくる。
玄関を開けると、正面の突き当りにトイレ、右側に浴室と洗面所がある。トイレ手前のガラスドアを開けると、ダイニング、その先にキッチンが見えて、ダイニングの前にはリビング、その左右には、寝室と書斎がある。

(あと少し……)

玄関から何百メートルも歩いたような錯覚を覚える。働きすぎだという脳内の批難を無視して、リビングのソファに横になりたい衝動に耐えて寝室の前に立ったところで、荷物を置かなければならないことに気づき、回れ右して書斎のドアを開けた。

書斎のドアを開け放ち、茶色のトートバッグからノートPCを取り出してデスク置くと、一瞬疲れを忘れたかのように固まった。

デスクの右端にポツンと置かれている、白く、少しだけ汚れのついた猫のぬいぐるみ。焦げ茶色のデスクと椅子、遮光レベル一級の黒いカーテンと冷たいフローリングの中にあって、明らかに異質なそれは、家で仕事をしているときは一日に数回、箕嶋の集中を奪う。

記事を書くという、集中力のいる作業をする以上、妨げになるものはできる限り排除するのが正しく、箕嶋もそれを分かっていて、プライベートと仕事用のスマホは二台とも、仕事中はダイニングのテーブルにマナーモードで置いてある。

耳にはノイズキャンセリングのイヤホンをして、インターホンが鳴っても気づかないほど、集中を大切にしているが、デスクの上で、いつでも変わらない笑顔で佇む猫のぬいぐるみが他に移ることはなかった。

おそらくは1分ほど意識を遠くに飛ばした後、バッグを壁際に置いて、寝室に向かった。
うつ伏せにベッドに倒れ込むと、眠気はあっという間に襲ってきた。ありがたい。夢の世界に入るまでの時間が少なければ少ないほど、余計なことを考えなくて済む……

「……?」

右足の付け根あたりで何かが動いている。なんだ、虫でも……と思って、それがスマホのバイブレーションだと気づくと、箕嶋は体を起こして、片目をつぶったまま通話ボタンをタップした。

「はい……」

『その声、寝てたのね』

電話の向こうから、ため息混じりの声が聞こえた。

「知夏……今何時だ?」

『11時。夜じゃないわよ』

「……悪い、またやっちまった」

『またスケジュール詰め込み過ぎたんでしょ?』

「動いてないと死んじまうからな」

『マグロ? いいけど、部屋に入れてくれる?』

箕嶋は、跳ねるようにベッドから降りると、スリッパも履かずに玄関まで行って、ドアを開けた。

「悪い……」

「いいのよ、と言いたいところだけど、さすがに四度目ともなると、呆れるというかなんというか……酷い顔ね」

知夏は、怒るというより、いたずらが見つかってしまった子供を見るような視線を向けている。

「ごめん……」

「分かってるから、いい。でも」

「……?」

「こうなることは、一稀も分かってるでしょ?」

「……まあな」

「じゃあ、そこを想定した約束をしてほしいかな。別にカッコつける必要ないよ。ちょっ……!」

「ありがとう……」

箕嶋がそっと体に手を回すと、知夏は一瞬目を大きくして、同じように腕を回した。

「シャワー浴びてきたら?」

箕嶋の胸に顔をつけたまま呟く。

「そうだな。悪い、リビングで待っててくれ。シャワー出たら、飯にしよう」

「うん」

箕嶋は、知夏の髪をそっと撫でると、シャワーに向かった。

草加部知夏(くさかべ ちなつ)は、ヨガのインストラクターをしている30歳の女性で、年上の箕嶋以上に落ち着いていて、怒ることも滅多にない。

以前箕嶋が、男のヨガ教室体験の記事を書いたときに知り合い、箕嶋が、今より不安定だった心の問題を相談しているうちに惹かれ合い、自然と今の関係になった。長い黒髪とキリっとした雰囲気は、医師のようにも見え、実際白衣も似合う。本人もそう見られることは嫌ではなく、箕嶋と会うとき以外は、スカートは履かないと決めている。

「キッチン周りは綺麗にするようになったのね」

千夏は、掃除のチェックのように、シンクを指でなぞった。
コンロ周りも、多少拭き残しはあるものの、汚れが目立つことはなく、その並びにある棚の中の食器も、綺麗に並んでいる。ついでに、ウィスキーのボトルが四本と、グラスが二つ。視線を移しておもむろに冷蔵庫を開けると、小さくため息をついた。

「自炊はまだ遠いかな」

焦ってはいけない。もしかしたら、苦しみは一生続くのかもしれないが、生活全般について改善はされてきている。できていないところもあるが、それでも箕嶋は、なんとかしようとしている。今はただ、そばで見守り、支えることが自分にできること……

ダイニングから、小さな階段を二段降りたところにあるリビングのソファに腰を下ろす。黒いソファと、黒いテーブル。以前はカーテンも黒だったが、今は白いカーテンに替わっている。いや、完全な白というより、ベージュに近い。

「カーテン替えてみたんだ」

腿に両肘をついて見ていると、箕嶋の声がした。

「書斎のも?」

「いや、そっちはまだ……」

「いいのよ、焦っちゃ駄目」

「そうだな……あ、昼飯……」

「さっき冷蔵庫見させてもらったけど、彼女の手料理を出せる状態じゃなかったわよ」

「そうだった、食材買いに行ってなかった」

「とりあえず」

知夏は立ち上がって、口元を微かに緩めた。

「髪を乾かして、服を着たら? 最近少し寒くなってきてるし、下着姿じゃ風引くわよ」

「え? ああ、そうだな……」

「私はその間に、コンビニで何か買ってくる。なんでもいい?」

「任せるよ」

「じゃあ、ちょっと行ってくるね」

知夏はそう言って、歩いて3分ほどのところにあるコンビニに向かった。一人になると、箕嶋は髪を乾かし、着替え、ソファに腰を下ろそうとして、置いてあった知夏のバッグを持って、プロジェクターのスクリーンが掛けてある下の棚に置くと、コーヒーを淹れるためにダイニングに足を向けた。

やがて知夏が戻ってくると、一緒に食事を済ませ、夜には知夏に付き合ってワインを飲んだ。一緒にいるときは、忘れている。仕事に没頭しているときもそうだ。だが箕嶋はどこかで、そんな自分にさえ、みぞおちの辺りがチクチクとする痛みを感じていた。忘れていいはずがない。片時も、忘れることなんて……

「大丈夫?」

暗い部屋のベッドの上、隣で目を閉じていたはずの知夏が言った。

「なんかおかしかったか……?」

「呼吸が浅くなってたよ。それに汗も」

知夏の左手が額に触れると、確かに汗で濡れているのを感じた。

「夢?」

「いや、まだ眠ってなかったから、夢じゃ……」

言いかけて、熱いものが込み上げてきて、箕嶋は思わず顔を背けた。

「ごめん……」

「いいの、分かってるから」

知夏のぬくもりを背中に感じると、確かな安心感を覚える。だがそれでも、みぞおちのあたりに感じる針のような痛みは、消えることはなかった。

-2-

次の一週間も、先週とほとんど同じだった。記録でもつけていたら、退屈で眠くなるだろう。仕事と知夏に会う以外のスケジュールがなく、夜になると、疲れてベッドに倒れてしまうとき以外は、ウィスキーを消費するか、BARで一人飲み、バーテンと話すこともないまま帰宅する、それだけだった。

ひんやりとした夜風は、顔の表面を覆っているアルコールの層を、丁寧に一枚ずつ剥がしていく。剥がれるたびに、箕嶋の頭には過去が生まれ、真っ黒でドロドロとした冷たい沼に、少しずつ心を沈めていく。あとは眠るしかないが、夢が優しいとは限らない。

繁華街を歩く人たちが遠くに見えるようになると、箕嶋は道を逸れて、裏通りを抜けて駅に向かう道に入り込んだ。街灯が暗い道にスポットライトを作り、微かにざわめきが聞こえるが、僅かな雑音だ。ホワイトノイズに聞こえなくもない。無音よりはいい。時々車が通り過ぎるのにだけ気をつければ、すれ違う人を避けるのに体をずらす必要もない。

「……!」

重い足取りで歩いていると、先の方から鈍い音と、キキィーという音が聞こえた。

「なんだ……?」

近づいてみると、乗用車と、そばに立つ男が一人。車の明かりの先には、人が倒れている。

「やばい、どうしよう……なんでこんな……」

車の横に立っている男は、震えながらブツブツと言っている。

「事故か?」

箕嶋が声をかけると、男は飛び跳ねるように肩を上げた。

「いや、その……」

「あんた、酒臭いな」

箕嶋が近づきながら言うと、男は口をパクパクさせて体を震わせた。箕嶋も、もっと早く動くべきだと思いながらも、酒のせいか、思考から3テンポ遅れて、ようやく倒れている人の近くまで来ると、ゆっくりとしゃがみこんだ。

「おい、大丈夫か?」

倒れているのは男で、呼びかけても返事はない。地面に血が広がっているようなことはないが、頭から血が流れて、呼吸はしているものの、意識を失っているのか、まったく動かない。

「まずいな、これは……おいあんた、俺は救急車を呼ぶから、警察に……」

箕嶋が言い終わるのと、バタンと車のドアが閉まるのは、ほぼ同時だった。男は車をバックさせると、ハンドルを切って二人の横を通り抜けていった。

「色は青、車種は分からないが乗用車、フロントに凹み傷、ライトは……左側が割れてる……」

声に出しながらスマホにメモを取ると、そのまま119番を押して耳に当てた。

「もしもし、事故なんだが……」

10分ほどで救急車が到着したが、倒れた男の意識は戻らず、箕嶋は何もできない自分が、酷く無力に思えた。

『なんでいつも肝心なときに何もできない? おまえはいつもそうだ、おまえは誰も救えないし、幸せにもできない。不幸ばかり生む疫病神だ』

頭の中に際限なく生まれてくる自己否定になすすべもなく、救急車の中で応急処置を受けている男を見ながら、ボーっとしていると、救急隊員に声をかけられた。

「え? 一緒にですか?」

救急隊員の言葉に、箕嶋は眉間にシワを寄せた。

「なんで俺が一緒に……」

「発見時の状況を詳しく聞きたいのです。警察の方も、そこで話を聞きたいと」

なんでここじゃ駄目なんだと言いかけて、周囲を見て理解した。いつの間にか、野次馬が集まってきている。夜の11時過ぎ、火事でもなければ乱闘騒ぎでもないのに、警察が注意しないといけないほど人が集まってきていることに違和感を覚えたが、しかたなく、箕嶋は救急車に乗り込んだ。

病院に着くと、倒れていた男はすぐに手術室に運ばれ、箕嶋は看護師に案内され、控室の椅子に腰を下ろした。やがて警察がやってきて、目撃した状況、逃げた車と男のこと、特徴、時間などを聞かれ、同じことを何度か説明しているうちに、日付は変わっていた。

「ご協力ありがとうございました。逃げた男については、早急に探します。その件でまた連絡させていただくかもしれませんので、ご協力お願いします」

一方的な依頼に、箕嶋は一瞬眉をひそめたが、断るのも抵抗があり、分かりましたと言って病院を出た。

「完全に酔いも覚めたな……」

真っ暗な空には、三日月が浮かんでいる。腕時計に目をやると、駅に急いだ。まだ終電には間に合う。ここから家までタクシーは避けたい。しかもこんな理由で……こんな理由と考えた自分に、少し罪悪感を覚えたが、箕嶋は早足で駅まで行くと、寝過ごさないようにドアの際に立って、電車が目的地に着くのを待ちながら、スマホを取り出した。

『事故に遭遇したよ。これから家に帰る』

知夏にチャットを打つと、事故!? と驚きと心配の混ざった返信が返ってきた。事故ったのが箕嶋ではないと分かると、安心したように、いつもの知夏に戻ったが、家に着いたら連絡して、まだ起きてるからと、優しさを付け加えた。

「その人、大丈夫そうなの?」

家に着いたとき、時刻は二時近くになっていたが、知夏にチャットすると、電話が返ってきた。

「手術室に運ばれてったよ。大丈夫かどうかは……」

『そっか。じゃあもう、お医者さんに任せるしかないわね』

「ああ」

『お疲れさま。やれることはやったんだから、あとはゆっくり休んで』

「本当に……」

『え?』

「本当に、やれることはやったのかな。救急車が到着する前、俺はただそこで待ってることしかできなかった。倒れてた男は意識を失ってたけど、呼吸はしてたし、下手に動かしたりしないほうがいいかなと思ったりもしたんだけど……」

『一稀は医療の専門家じゃない』

知夏はピシャリと言った。

『呼吸をしてなかったなら、人工呼吸とか、他にできることもあったかもしれないけど、そうじゃなかった。だから現場に残って救急車を待って、警察に逃げた車と男の情報を伝えた。事故に遭った男の人が助かるかどうかは、一稀の行動とは別。だから、やれることはやった。なんにも気にすることないわ』

「……ありがとう」

『疲れてるでしょ? もう遅いけど、シャワー浴びてリラックスしてからベッドに入ったほうがいいわ』

「……ああ、そうだな」

『もしまだ話していたいなら、私は……』

「大丈夫だよ。ありがとう、知夏。ごめんな、こんな遅くに」

『いいの。遠慮しないで。じゃあ、ちゃんと休んでね』

「ああ、おやすみ」

『おやすみ』

スマホをダイニングテーブルの上に置くと、箕嶋は寝室に行って着替えを取ってから、シャワーを浴びた。熱いお湯は、確かに体を弛緩させてくれる。やれることはやった……そうだ、知夏の言うとおり、あのときの自分にできたことはやったはずだ……自分でもそう思っている、思うことができるのに、頭の片隅では、別の声も聞こえる。
箕嶋はその声を無視して、シャワーから出ると、スマホを取って寝室に向かい、ベッドに倒れ込んだ。


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