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ブラック・ミラー(闇のカウンセラーシリーズ 第3話)
-1-
午後10時過ぎ。
都内の外れにある、古いワンルームマンションの二階の一室に、品のない笑い声が響き渡った。隣室に響くほどではないが、窓を開けているから、外には多少聞こえているだろう、ちょうど道を通った猫が、ビクリとして逃げ出した。
「へ、ざまぁみやがれ」
久貝康弘(くがい やすひろ)は、スマホを見ながら鼻息を荒くした。
ワンルームの部屋には、中央に木製のテーブル、壁際にシングルベッドがあり、外に干すことのない敷布団と掛け布団は、ともに弾力を失っていて、枕に関してはほとんどその役割を果たせていない。
ベッドの枕側の向かいにテレビが置いてあり、寝転がったまま見られるように、リモコンは枕元にある高さ50センチほどの何でも収納棚に無造作に置かれ、テレビの横には、漫画や週刊誌が積み重なっていて、一部は崩れて、テーブルの下にまで流れ出している。
雑誌の雪崩を防ぐように置かれたクローゼットには、服が入っているが、仕事に着ていくスーツやシャツの他、プライベートで着る服が無造作に詰め込まれ、ハンガーから落ちているものもあるが、片付けられることなく、一部は埃が溜まっている。
テーブルの上には、大手ディスカウントストアで大量に買い込んだビールの空き缶と、惣菜が入っていたパックが散らばっており、揚げ物のカスが落ちている。ゴミ箱に運ばれるまで数時間かかる、丸まったティッシュも散乱しているが、久貝は構わずに、今日三本目のビールを空けた。
「芸能人だからって、チヤホヤされて調子に乗ってるからそうなるんだよ。俺は、人間はどうあるべきか、教えてやってるんだ。だいたい、俺みたいに地道に働いてる人間が報われねぇで、こんなちょっと顔が良いだけの奴が持て囃されるのがおかしいんだ。俺は、世の中の弱者の代弁者なんだよ」
赤らんだ顔で言い放つ。
飲んだから酔っているというより、自分の言葉に酔っているような恍惚とした顔。高揚した気分は、さらにアルコールを欲して、三本目はすぐに半分ほど減った。
右手に持ったスマホの画面には、天草豊という男のプロフィールが映っている。
天草豊は、爽やかなイメージと、確かな演技力を売りにしている俳優で、二年前に一般人の女性と結婚し、子供が生まれたばかりだった。しかし、世間から祝福を受けてまもなく、不倫が発覚。相手は、一年前に映画で共演した、3歳年下の女優で、交際が始まったのは、妻が妊娠してから間もないころだった。
某週刊誌が不倫記事を書いた翌日には、多くのメディアが取り上げ、天草豊は、週刊誌にあることは事実だと認めた。同時に、天草豊のSNSには批判や誹謗中傷コメントが殺到。無期限の活動自粛を余儀なくされた。
コメントの内容は大きく分けて、天草豊のファンによる、ショックを受けたというもの、上から目線の正義の押しつけ、誹謗中傷の三つだった。
久貝は、ネットニュースで不倫発覚の記事を流し読みすると、すぐに天草のSNSに向かって、コメントを残した。コメントの分類でいえば、謎の上から目線に誹謗中傷を混ぜたようなもので、中身に関してはスカスカだったが、炎上中ということもあり、同類からの「いいね」が大量について、気分が良かった。
「ん?」
天草のSNSのコメント欄は、見るに耐えないものが並んでいたが、一つだけ異質のものがあり、目に止まった。それは、久貝のコメントに対して同意しているコメントへの返信で、
『有名人だし、契約している企業や事務所への影響を考えたら、天草さんの行動は軽率としか言いようがないが、不倫は基本的には個人の問題。何の関係もない人間が、中身のないコメントや誹謗中傷をするのは違うのではないか』
というものだった。
「なんだこの……」
久貝は、残ったビールを飲み干すと、アルミ缶をグシャリと潰した。
体が震え、頭には血が上っていく。潰れた缶を投げつけ、四本目を取って開けると、一気に三分の一ほど飲んだ。
「中身がない誹謗中傷だぁ? 何様だてめぇ……」
久貝はビールをテーブルに置くと、コメントに”反応”した。
「ナメた口聞きやがって……」
スマホを両手で持って、姿勢を前のめりにすると、コメントしてきたルイ坊というアカウントに対して、憎しみたっぷりのコメントを叩き込んだ。ルイ坊が、言い方が悪かったと謝罪しても攻撃を止めず、同類たちも攻撃を始め、制止しようとする者と久貝一派との間で、石の投げ合いのようなやり取りが三十分ほど続き、天草のSNSは、誰の利益にもならない形で盛り上がった。
「くく、ざまぁみろってんだ。生意気なこと言いやがるからだよ。
さて、そろそろ寝るか」
四本目のビールを飲み干すと、空き缶をテーブルに置いて、電気を消して、這いずるようにしてベッドに入った。
-2-
「う……」
外から蝉の鳴き声が聞こえる。
体は汗ばみ、額にから流れた汗が目に染みて、久貝は目を開けた。同時に、スマホの目覚ましがけたたましく朝を告げて、反射的に上半身を起こした。
「あっちぃ……」
カーテンの隙間から明かりが差し込んでおり、部屋の中はすでに猛暑になっている。目覚ましを止めようと手を伸ばして、テーブルに置き去りにされたビールの空き缶が倒れて、転がった一本が床に落ちて、わずかに残っていたビールを広げた。
「ああ、めんどくせぇ……」
乱暴にティッシュを取って拭き取り、テーブルに投げる。ベッドから起き上がったものの、頭痛が酷く、膝を肘掛けにして頭を押さえていると、二度寝に落ちて、気づいたときには家を出る20分前になっていた。
ドタドタと、部屋の中を走るように動き、シャワーを浴びて髪を乾かし、適当に歯を磨くと、玄関のドアを投げるように閉めて、家を出た。
むせぶような暑さの中、早足で駅まで歩き、着いた頃には、シャツの背中は、ホースで水を浴びたようになっていた。ホームの上には人が溢れかえり、反対方向の電車を待つ人とぶつかるほど密集している。人間で構成された熱帯雨林の中で、誰もが苛立ちやうんざりを顔に浮かべ、車内中程まで押し込まれて、なんとか始業の3分前に会社に着いた。
(ったく、やってらんねぇよな)
言葉には出さず、脳内で悪態をつきながら仕事をする。ノロノロと、周囲の様子を見ながらこなし、昼近くになって、ほとんどの社員が外出したり、会議で抜けたりしたのを見計らって、ネットを開いた。
「久貝くん」
途端、上司の小岩から声をかけられて、慌ててブラウザを閉じた。
「はい」
肩が縮み、伺うように見上げる。
「さっき、猪崎さんと話したよね? 電話で」
「はい」
「話しながら、舌打ちしたって聞いたけど」
「え? いや、そんなことは……」
「してない?
でも今、猪崎さんから私宛に電話があったの。久貝って人と話してたら、途中で舌打ちされたって。それと、使ってる言葉は敬語だけど、なんかめんどくさそうで、感じが悪かったとも言われたわ」
「いえ、すみません、そんなつもりは……」
「猪崎さんは癖が強いし、普通の人よりうるさいのは確かよ。私も神経を使う。でも、そのことは猪崎さんと話す可能性がある社員、全員に伝えてることよ。前の担当者はそこを汲み取って、うまくやってたわ。大事な取引先だし、ちゃんと仕事をこなせば、文句も言ってこないしね。そのことは分かってるわよね?」
「はい……」
「じゃあなんで、私にクレームの電話がくるの? あなたは、女の私が上司であることが気に入らないみたいだけど、気に入らないなら私以上の仕事をして上にいけばいいこと。嫌がらせのためにやったのかしら?」
「いえ、そんなことは……」
「舌打ちは無意識だったかもしれないし、面倒くさそうな態度も、無意識だったかもしれない。でも猪崎さんはそういうのに敏感なの。他のお客さんだったらいいってものでもないしね。次回から気をつけて」
「はい、すみません……」
右足が上下に動きたくてウズウズしているのを抑え、久貝は小岩が自席に戻るのを待った。反論も浮かんだが、したところで結果は見えている。
(くそ、くそ……!)
終業時間になり、会社を出ても苛立ちは消えず、ネットなら……という想像から始まって、頭の中では、小岩をあの手この手で叩きのめし、謝罪までさせている妄想がリピートされる。よくここまでいろいろなことを思いつくと感心するほどだが、決して実現されることはない、実現したら終わってしまう妄想は、エンドロールが近づくと、虚しさと苛立ちを強めた。
「っつ……!」
駅へ向かう途中、肩に衝撃を受けて、久貝はよろけた。
「いってぇな!!」
反射的に叫ぶ。
スマホこそ見ていなかったが、俯きながら妄想を繰り広げていたため、前を見ていなかったのは久貝なのだが、怒り密度が高い脳内は、まだ見ぬ敵を攻撃することを選んだ。
「これは失礼。
しかし、俯いて歩いて、すれ違いざまにぶつかってきたのは、あなたのほうなんですけどね」
男の声が聞こえた。
「な、なんだよ……俺が悪いってのかの……!」
「客観的に見れば、9:1であなたが悪いかと」
「ふざけんな……!」
周囲の注目を浴びる覚悟で言ったが、声はかすれた。手は震え、心臓も早くなる。
手をきつく握って、ようやく男の姿を視界に捉えた。
サイズピッタリのダークスーツに、艶で光って見える黒い革靴を履いて、カフスボタンでしっかりと固定されたシャツの袖からは、高そうな時計が覗いている。オールバックの髪は、風になびくこともなく、脱毛しているのか、ツルッとした顎は清潔感があり、貝塚は再び俯きそうになるのを必死で堪えた。
「ぶつかったことは、気にしてませんよ。そういうこともありますから」
男は、敵意もわざとらしさも一切ない笑顔で言った。
「申し訳ない……」
「いえいえ。
それより、俯いて歩いてたのは、何か理由があったからではないですか? たとえば、そう……会社で嫌なことがあって、イラついていたとか」
「え……?」
「おや、図星でしたか? だとしても、気にすることないですよ。でもあなたはたぶん、怒りの本当の理由に気づいていない」
「本当の理由……?」
久貝は怪訝そうな顔をしたが、男は気にすることなく続けた。
「怒りというのは、第二感情とも言うんです。怒りの前にある、何かしらの感情が満たされないときに出てくるものなんですが」
「……」
「もしよければ、詳しくお話しますよ。知っておくと、心が安定しやすくなりますし」
「ああ、いや、しかし……」
「まあ、いきなりそんなこと言われても、ですよね。もちろん、無理強いはしません」
「……」
「その沈黙を答えとして受け取りましょう。
では」
男が自分の横を通り過ぎて、歩いていくのを見ながら、久貝は必死に頭を回転させた。
(何者か分からないし、言ってることもよく分からないけど……ちょっと話を効くぐらいならいいんじゃないか? 予定があるわけでもないし、心が安定したら、ちょっとしたことで手が震えたりしなくて済むようになるかもしれない。それにあの身なり……金持ちかもしれない。だったらここで繋がりを作れれば……)
時間にして10秒ほど。
久貝は小走りで男に追いついた。
「あの……」
「話をする気になりましたか?」
男は振り向きながら言った。
「ええ……」
「では、この先にあるカフェにでも行きますか」
男はそう言うと、そのまま駅ビルの中を歩いて、飲食店の並びにあるカフェに入った。
「さて……」
席につくと、男は久貝の目を見ながら言った。
「私は、清滝と言います。カウンセラーです」
「カウンセラー……」
「ここで話す限りでは、料金はいただきませんよ。ご心配なく」
身構えたのが顔に出たのか、清滝は笑顔を見せた。
「あ、いや……」
「仕事、大変なんでしょう?」
「……ええ……」
「給料は上がらないけど、仕事は増える。上司はいろいろ言うけど理解しようとはしてくれない。でも、そんな簡単に辞められるものでもない」
「なんで……」
「はい?」
「なんで、そこまで分かるんですか……?」
「職業柄、いろいろな人を見るので、なんとなく分かるんですよ。もちろん、すべてが分かるわけではありませんけどね」
「そうなんですか……」
「お名前を伺っても?」
「ああ、久貝と言います……」
「久貝さん、よければ、お話を聞きますよ。
溜まった感情を吐き出すだけでも、楽になりますし、私は職業柄、人間心理の研究もしているので、お役に立てると思いますよ」
「あなたの言ったとおり、給料は上がらないし、上司は俺を嫌っていて、何かと当たりが強い……やってられないってところです。けど今の御時世、転職も難しいし、働かないと生きていけない。ほんと、嫌になりますよ」
「ストレスも溜まるでしょうね」
「ええ。
溜まりまくりです。ほんと、バカらしくなります」
清滝と名乗ったその男の言葉に、久貝はすっかり心を開き、昼間の上司とのやり取りで溜まったストレスを吐き出した。その中には、汚い言葉も、感情的な言葉も混ざっていたが、清滝は反論することなく、話を切ることもなく、黙って聞き、久貝はいつの間にか、イライラした気持ちがなくなっていることに気づいた。
「いや~、さすがはカウンセラーですね。話してるだけで、こんなにスッキリするとは思いませんでしたよ」
「カウンセラーは、クライアントの話を聞くことが基本ですからね」
「なるほど、そうですよね」
「おや、もうこんな時間か」
清滝は、腕時計に目をやった。
左腕のそれは、シルバーとゴールドで輝いており、重厚感がある。
(こんな時計をできたら、キャバクラに行けばモテまくるだろうな……)
時計を見ながら妄想していると、清滝の視線を感じて、久貝は思わず姿勢を正した。
「ああ、明日も仕事か……」
ごまかすように呟くと、清滝は、
「よければ、ちょっと飲みに行きますか? 悩んでいることなど、もう少し話したいことがあれば聞きますし、私がおごりますよ、行きつけの店でよければ」
「え? でも、いいんですか?」
「まあ、これも何か縁ですから」
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……」
-3-
清滝は、経費で落とせるからと、タクシーを呼び、二人はタクシーで飲み屋に移動した。
移動した店は、黒鳥(こくちょう)という店で、清滝の行きつけのスナックらしく、奥のカウンター席に通された。席に座ると、注文する前に、ビールが二つ運ばれてきて、久貝は勧められるままに飲み干した。
最初は遠慮しがちだったが、2杯、3杯と飲むうちに酔っぱらって、躊躇なく飲むようになった。今まで味わったことがない高揚感を覚えた久貝は、すっかり打ち解けて、すべてを吐き出すように、感情のままに話しまくった。
「ハハハハハッ!」
アルコールで赤らんだ顔で、豪快に笑いながら、久貝は清滝の肩をバンバンと叩いた。
「かなりご機嫌になりましたね(笑)」
「そりゃもう。ほんと、清滝さんのおかげですよ。こんなに気分がいいのは初めてだ。さすがはカウンセラーですね~。いや、清滝さんだからかな。ハハハハハッ!」
「あまり日常的にはないでしょうからね。日本はどうも、カウンセラーやセラピストに相談するのは恥ずかしいみたいな空気がありますから。
そういった意味でも、今日は珍しい日になったと思いますが、普段はどうやってストレスを発散してるんですか?」
「ああ……そうだな~。これほんとは、内緒なんですけどねぇ……今日は気分がいいし、清滝さんになら話してもいいかな……よし、じゃあ俺の秘密のストレス発散法を教えますよ」
「秘密の? それはぜひ聞きたいですね」
「俺のストレス発散法は、ネットなんです」
「ネット?」
「そう。テレビやなんかで偉そうにしてる芸能人とか、いるでしょ? ちょっと顔がよかったりするだけで、俺は特別みたいな顔してる連中ですよ。俺より仕事もできねぇくせに、派手な生活して、チヤホヤされて……こっちは汗水たらして働いてるってのに。
で、そういう奴らだから、不祥事とかやらかすわけですよ。不倫とか、薬とかね。俺はそういう連中に、世の中の常識ってやつを教えてやるんです。連中、普段は偉そうにしてるけど、何も言えやしない。そうやって、勘違い野郎どもにモノを分からせる。
それとか、最近じゃあ、AV女優が普通のタレントみたいにチヤホヤされてたりもする。どうせ誰にでも股を開くような女のくせに、調子に乗ってんじゃねぇって話で、子供を持つとか、まったく世間が分かってねぇから考えるわけで……」
「なるほど。そうやって、久貝さんのように不当な扱いを受けている人が、まっとうに扱われるように、世の中を少しでも正そうということなんですかね」
「まあ、そんなところですね」
久貝は得意げに言って、追加のビールを注文した。
「実は私も、ネット絡みで聞いた話がありましてね。中々興味深い話なんですよ」
「へぇ、なんです?」
「昨日のことです。不倫が発覚してバッシングを受けている俳優さんのSNSで、俳優さんを誹謗中傷する一般人のコメントに対して、別の方が、それは違うのでは? というようなコメントしたらしいです。分かりやすくするために、誹謗中傷した人をAさん、反論コメントをした人をBさんとしましょう。
Bさんは、Aさんの言っていることに対して、罵声を浴びせたわけじゃなく、こういう考え方もあるんじゃないか、というニュアンスでコメントをしたんですが、それを見たAさんは激昂して、今度はターゲットをBさんに変えて、ものすごい勢いで誹謗中傷を浴びせた。
Bさんは、そういうつもりはないと書いたんですが、Aさんは聞く耳を持たず、それを面白がった、Aさんと同質の連中がBさんを責め立て、なんと個人まで特定されて、Bさんは精神的にもかなり追いつめられているそうです。個人まで特定されたら、そりゃ怖いですよね」
「その俳優って、誰のことです……?」
「天草豊さんですよ。先日、不倫が発覚して、謝罪会見をした人です」
「……」
「どうしました? なんだか顔が白っぽいですが。飲みすぎましたか?」
「いや、ああ、そうかもしれません。それにほら、もうこんな時間か。そろそろ帰らないと……明日も仕事だし……」
「まあそう言わずに、今度は私の話を聞いてくださいよ、久貝さん」
清滝は、立ち上がった久貝を、静かに見上げた。
その表情には、先程までの優しさはなかった。口元は笑っているが、その目を見ていると、動けなくなる。このまま背中を向けたら、とんでもないことになる……そんな恐怖が襲ってきて、久貝はもう一度席に座った。
「あなたはさっき、常識を知らない芸能人に常識を教えてやる、そう言っていたが、ストレス発散で他人を誹謗中傷するような人に、そもそも常識があると思っているのですか?」
「え? いや、その……」
「AV女優は誰にでも股を開くとも言ってましたが、それはどこかで確認した事実ですか?」
「いや、えっと……」
「彼女たちは、仕事としてセックスをしている。そのストレスと覚悟は、あなたのような人間とは比べ物にならないほど強いものですよ。そして少なくとも、あなたのような男に、彼女たちが股を開くことはない。決してね。
子供を持つことについても、あれこれと一般常識とやらを押しつけられることを覚悟の上で決断し、子供を授かったのでしょう。
彼女たちのような職業は、確かに日の当たる仕事ではありませんが、だからと言って、一般の人と同じような幸せを受け取ってはいけないということにはなりません。
子供のことを考えているのかと、偉そうにマウントを取ってものを言う、あなたのような人間や、そんな親の影響を受けた子供が、彼女の子供が学校に入ったとき、イジメをしたり、差別をしたりするんですよ。まるで、自分たちが偉いかのようにね」
「なんだよ、なんなんだよあんた……!! カウンセラーなんだろ!! クライアントにそんなこと言っていいのかよ!!」
「私はあなたから、1円も受け取っていない。よって、あなたはクライアントではない。何を勘違いしてる?」
「く……!」
「逃げるんですか? まあ、そんなものでしょうね、あなたは」
再び立ち上がって背中を向けると、清滝は構わず続けた。
「有名人を誹謗中傷するのも、非生産的な行為だが、自分の意見を言っただけの一般人の人生を壊すようなことをしておいて、ストレス発散で済ませられるとでも?」
「人生を壊したのは俺じゃねぇ……! 個人の特定だって、俺には関係ねぇ!!」
「確かに、やったのはあなたじゃない。でもキッカケは作った。そのことに対して、申し訳ないという気持ちはないのですか? 酔っていたり、疲れていたりすると、人間は判断力も落ちるし、言い過ぎてしまうことだってあります。申し訳なかったと、一言謝れば、印象が変わることなんていくらでもあります。負けを認めないことが強さだと勘違いしてる人もいますが、そういう人間は一番醜い。久貝さん、あなたはどちら側でいたいですか?」
「うるっせぇ!! 俺は知らねぇ!!
あんた、許さねぇからな……!! ネットで……あんたのことを書いてやる……! カウンセラーとしての評判が落ちれば、あんたは仕事ができなくなる……!! 必ずそうしてやるからな……!」
「それは楽しみですね。これから帰ってすぐに?」
「ったりまえだ!!! やらねぇと思ってるなら後悔するぞ!!!」
「いえ、ぜひやっていただきたい」
「このやろう、ナメやがって……吠え面かかせてやる!!!」
久貝は怒鳴り散らして、乱暴にドアを開けてると、投げるように閉めて出ていった。
「騒がしくして悪かってね、ママ」
清滝がグラスを置くと、真裕美は微笑んだ。
「清滝さんのお連れさんは、たまにああいう人がいるから、慣れてるわよ。
もう一杯飲む?」
「ええ、いただきます」
「それにしても、すごい剣幕だったけど」
「予想通りですよ」
「また何か、悪いこと考えてるのね?」
「ブラック・ミラーだよ、ママ」
「ブラック、ミラー? 黒い鏡ってこと? それって、なあに?」
清滝はそれには答えず、真裕美の顔を見てニコリを笑うと、グラスのウィスキーを一気に飲み干し、おかわりを頼んだ。
「ママも一杯、どう?」
「あら? ありがとう」
-4-
清滝が真裕美とグラスを合わせた頃、久貝は電車の中で、血走った目でスマホを操作していた。家に着くと、夜10時を過ぎていることなどお構いなしに、”ドタン!!”と音を響かせてドアを閉め、冷蔵庫からビールを出して半分ほど飲むと、スマホの操作を続けた。
そもそもあの男は何者なのか?
なぜ昨日のことを知っているのか?
肩がぶつかったのも偶然ではないのか?
いくつかの疑問が浮かんだが、そんなことはどうでも良かった。
「ネットなら俺の土俵だ。ぜってぇ潰してやる……!」
電車の中で調べた情報を確認する。
カウンセラーとしての情報、事務所の住所、顔写真……すべて見つけた。材料は揃った。あとは……
「ひひひ……」
一本目のビールを飲み干す頃には、久貝は清滝の情報をSNSに流していた。先程体験したことを、すべて自分が有利なように歪め、清滝をトンデモカウンセラーに仕立て、顔写真や住所などの情報を、スクショ付きでさらした。
すると、天草豊のときと同じように、久貝と同質のモノが湧いてきて、個人情報の特定が始まった。
「ひひ、ざまぁみろ! ざまぁみろってんだ!!!」
あまりに大きな声だったせいか、隣室から壁を叩く音が聞こえたが、久貝は構わずに、
「これで終わりだ! てめぇは終わりだ!! 俺のことを散々馬鹿にしやがって……クソ野郎が!!」
と叫んで、二本目のビールを空けた。
「今日は随分、お酒が進むわね」
真裕美は、赤らんだ顔で言った。
「もう一杯飲む?」
真裕美の言葉に、清滝は腕時計に視線を落としてから、
「うん、もう一杯もらうよ。ママも、もう一杯付き合ってくれる?」
「もちろんよ。ありがとう、清滝さん」
真裕美が次のグラスを作っている間に、清滝はもう一度、腕時計に視線を落とした。
「Time’s Upだよ、久貝くん」
「ん? 何か言った?」
「独り言だよ」
清滝は笑って、カランと音を立てて、ウィスキーを一口飲んだ。
その頃、久貝はシャワーを浴びて、三本目のビールを取り出したところだった。
「さて、どうなったかな~」
テーブルの前に座って、ビールを空け、スマホを手に取る。
「え……?」
酔いが、血の気とともに引いていくのを感じた。
画面に映っているのは、清滝ではなかった。
久貝の顔写真と情報が、犯罪者の経歴でも書いたように並んでいる。
久貝がこれまで、ネット上でどれだけの人を誹謗中傷し、傷つけ、貶めてきたか。本人は知らなかったが、久貝の誹謗中傷がキッカケとなって、同類が正義を押しつけた結果、自殺してしまった人いたなどの事実が、時系列とともに拡散し、久貝のSNSはバズったが、内容はすべて、非難と批判であり、これまで自分がしてきた誹謗中傷が、自分自身に返ってくることになった。
「なんでだよ、なんでこんな……!」
考えても、答えは出なかった。
間違いなく、清滝の情報を出した。
なのに……
久貝はスマホを放り投げてベッドに潜り込み、朝になると、すべて見なかったことにして会社に行ったが、出勤してすぐに、小岩に呼び出された。
五人が精一杯の会議室に入ると、普段話すことのない部長がいて、SNSのことを指摘された。さらには、猪崎からもその件で連絡があったようで、会社への悪影響が深刻という理由で、退職を促された。退職金は当然出ず、実質クビだった。
一週間後。
「おや、久貝さん」
SNS上での批判も収まらず、久貝は家に一人でいることに耐えきれずに、街をフラフラと歩いていた。と、聞き覚えのある声がした。
見ると、清滝が涼しげな顔を向けていた。
「おまえ……おまえのせいで……! おまえが何かやったんだろ!! ふざけやがって……!」
頼りない足取りで詰め寄ったが、清滝は涼しさを崩さず、
「今あなたに起こっていることは、すべてあなたが招いたことです。よく分かったでしょう? これまで自分がしてきたことが、どういうことだったか」
と言った。
「俺だけが悪いってのか!? 他にもやってるやつは……」
「だから、おまえのやったことが許されると思ってるのか?」
清滝の言葉に、久貝は体を硬直させた。
「先日、あなたが天草豊を攻撃したとき、巻き添えを食った一般人がいただろう? 彼はかなり追いつめられたが、友人や家族、会社の人たちに助けられ、持ち直したようだ。
ところで久貝くん、あなたには、そういう人がいるかな?
自分が苦しいとき、声をかけてくれたり、手を差し伸べてくれる人が」
「……!」
「いないなら、程度の差はあれ、あなたがネットと同じように周囲の人と接してきたからだよ。改めるチャンスは、何度もあったはずだ。私と話したときでさえね。でもあなたはそれをしなかった。その結果が、今だよ」
「違う!! この状況はおまえが……!」
「その責任転嫁の発想から抜け出せない限り、事態が好転することはない」
清滝はきっぱりと言うと、背中を向けた。
新しい顧客との時間は近い。
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