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哀れなるものたち/ヨルゴス・ランティモス監督

ヨルゴス・ランティモス監督の「哀れなるものたち」を見る。久しぶりの夜の新宿の若者の多さに驚くばかり。劇場も若者たちでほぼ満席。遅れて入っても山盛りのポップコーンを諦めない…笑

注目を集めているランティモス監督だが、作品を見るのは今回が初めてだ。英題は「poor things」だから、本当は特定の「哀れなる者たち」についての話ではなく、「哀れなるものたち」≒「残念なこと」くらいの意味ではないのか。無論そこに皮肉が込められているだろう。内容的には「バービー」(グレタ・ガーウィグ監督)で十分な気もするが、どうなんだろう…。さて、良くも悪くも「ディズニー映画」ではある。有り体にいえば、物語はベラ・バクスター(エマ・ストーン)という女性の成長物語である。既存の社会制度からの抑圧を、初めは無意識のうちに、後には正面から破壊していく者の物語だ。

「身体」と「脳」の不一致は、ベラという人間が医師ゴッドウィン・バクスター/ゴッド(ウィレム・デフォー)によって人工的に作られた生命体であり、自らの生を断絶した母親ヴィクトリア・ブレシントンの胎内で生きながらえた彼女の、母親の「身体」へ移植された「脳」という、キメラとしてのアイデンティティでもある。

この事実は、映画の観者である我々は比較的早い段階、ベラが「旅」に出る以前に知るわけだが、ベラ自身は、彼女の「脳」が成長をとげた、「旅」の後に初めて知ることとなる。そして彼女の「出自」であるところの、母親の自殺を伴う誕生の経緯は、物語の最終局面で大きな意味を持ってくる。

冒頭の、超広角レンズによるショット、鍵穴か覗き穴から見たかのような一連のそれは、我々を物語の内部に誘う「前段」を示唆するものだが、秘術めいた医術が、科学の名のもとに巣食うゴッドの館の内部だけでなく、外部としての「世界」もまた、ベラのような無垢な存在に於いては、また「危険」に満ちた時空でもある。ダンカン・ウェダバーン(マーク・ラファロ)との「旅/駆け落ち」(ただし紐付き)である。

この「世界」は、ヴィクトリア朝時代のイギリスからヨーロッパを舞台とした壮大な「セット」として示される。ベラの存在(これは現代的な視点と衣装に寄せて描かれるわけだが)と対峙され、「書き割り」のように表現されているのが特徴だ。要するに「ディズニーランド」のようなものである。「夢の国/ファンタジー」といっても良い。

「世界」では、メンバーの参加資格として「あるべき姿」を強要される。否「刷り込み」がなされ、内面化が行われる。結果として、メンバーどうし互いが互いを縛り合う強固なシステムとなっているわけだが、家父長制にせよ資本主義経済にせよ、そうしたシステムそのものであって、「あるべき姿」の刷り込みがない子どものようなベラには、特権的に「世界」からの「逸脱」が許される。

だがそこからが問題であって、彼女の「成長」によって言語活動能力が強化され、生成された「意識」が、その制度設計と激しくぶつかり合うことになる。新たなる「森」に迷い込むベラに、そしてこの「お伽話」に、ハッピーエンディングはやってくるのか…。

継母に育てられた少女が「森」に迷い込み、魔女に騙されて屋敷に閉じ込められる。そこに白馬に乗った王子様がやってきて、彼女は救われて結婚し、末長く幸せに暮らしました。

もちろん王子様はベラを助けには来ない。そもそも彼女がその物語構造を共有していないからだ。おそらくクルーズ船で出会ったハリー(ジェロッド・カーマイケル)はその設定である可能性は高い。ベラに「知識」 という「扉」こそ開くものの、身体的な接触を求めないハリーという存在は(ベラにはルッキズムの概念もない)、彼女に「世界」のシステムの「負」の部分(貧者という弱者の存在)を可視化させ、結果としてはベラにダンカンとの決別を促すことにはなるのだが、観者である我々すら気づかぬうちにハリーの存在は消滅し、彼女は次の「森」に降り立ってゆくのだ。

パリの娼館の主は、さながら魔女的な女の位置付けになろうが、ベラの視点では「物語性」をはらまないひとりの人間として、「労働」と「対価」とを管理するシステムの「長」として理解される。ダンカンのような「男」は奔放に振る舞いこそすれ、結局はガチガチにシステムに依存する人間であって、金を失いプライドを傷つけられ、そのシステムの自家中毒によって精神が崩壊する(後には「男同士の絆」を発動し、ベラを窮地に陥れるのだが)。いずれにせよ時は満ち、彼女の長い「旅」は終わり、彼女の生みの親であるロンドンのゴッドの元へと帰還する。

多くの人はこの「哀れなる者たち」を、ベラ・バクスターの「自由な生き方」を称賛する映画だと理解するだろうが、実際には物語はもう少し複雑な構造でできていて、たかだか1センチほど我々の「世界」の構造を自らの意志で「ずらす」ためには、どれほどの労力を必要とするかについて、可視化する試みであることがわかってくるだろう。王子様は来ないが、無論希望はある。

監督:ヨルゴス・ランティモス  
出演:エマ・ストーン | マーク・ラファロ | ウィレム・デフォー

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