片言隻句 09 ~素直に内観~
老者にはこれを安んじ、朋友にはこれを信じ、少者はこれを懐けん
→現代語訳
老人には安心されるように、友だちには信ぜられるように、
若者には慕われるように
当たり前に内包される思想的深さの絶対性
この論語の言葉は、顔淵と季路が孔子に「どうか先生の御志望をお聞かせください」とお願いした際の返答である。自分の信念を守るだのの言葉を並べるのではなく、自分の数多ある道の徳目を自分が向かい続けられているとき、周りの人がどうなっていてほしいかということを言っている。自らの思想を一貫しそれを進むと同程度に周りの人のことを思っていたから出た言葉だろう。孔子の人並外れた器量を感じる。
先に孔子の志望を書いたが、実は、二人の志望の会話も行われていた。孔子が、自身の志望をいう前である。二人の回答は
季路「(わたくしの)車や馬やきものや毛皮の外套を友だちといっしょに使って、それがいたんでもくよくよしないようにありたいものです。」
顔淵「善いことを自慢せず、つらいことを人に及ぼさないようにありたいものです」
志望を聞かれて、すぐに答えなければならない時を想像してほしい。
きっと、そのときに出る言葉というものは、それまでの自分の経験の中でまだ、達成していない身近な問題のことではないだろうか。例えば上の二人の言葉を見てみると、季路の言葉を見てみると、おそらく彼は車や馬などを友達と使ってそれが痛んだ時くよくよした身近な事件が起こっていたのだと思います。しかし、それが自らの道において善くないことだと知っている。だから、このことを本当に治したいんだとその時に強く願っていたんでしょう。顔淵の場合も同じです。この二人は自らの道に反している行動を自分がしていると自覚している。しかし、実は孔子は違うのです。孔子はその次元におらず、自らはもう道に反しているかと迷うことはない。日に何度もわが身のことを省みてはいるが、その確認は相手で確認するしかないのである。自分の道と自分の行動とを考えるのではなく、相手行動と自分の行動を照らし考えている。自分の道で迷っていないという点から、孔子の言葉には他の二人の回答より有無を言わさむ絶対性を感じるのでしょう。
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