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浄土真宗の疑問についてまた考える

少し前、浄土真宗について考えた記事を書きました。


真宗全体を総括することはとても手に余るので、この記事では瓜生崇さんという真宗大谷派の和尚さんの法話を聴いて、理解できる点とできない点を分けて提示しました。

この記事をご本人の感想受付フォームへ送ったところ、なんと1時間近く回答をいただきました。批判の記事だったので苛立ったでしょうし、無視もできたでしょう。それでも、何度か冗談めかしく言われていますが、本気で反論をいただけたのは、本当にありがたいことです。

今回は瓜生さんの反論を受けて、ぼくの疑問に思ったことを書きたいと思います。ぼくの書き方が悪く瓜生さんに誤解されてしまったこともあるので、その補足もしていきます。前回の記事と動画を受けての投稿なので初めてご覧になるかたは上記の記事から読んでいただけると嬉しいです。


①釈迦の悟りは体験ではない


ぼくは記事で、瓜生さんが仏教の体験を否定しており、その立場だと仏教自体がなりたたないと書きました。

これを受けて瓜生さんは、釈迦の悟りは智慧によって正しい世界を観たということで神秘的体験ではない、という反論をされていました。

これについては、ぼくも釈迦の悟りは鈴木大拙が書く天地がひっくり返るような神秘的な体験と思っていません。ぼくが記事で「いらすとや」から引っ張ってきた釈迦の絵に「なんかやばいもの体験しちゃった…」とキャプションを入れたのがいけませんでした。内容が専門的だったため少しでもキャッチーにしたく、あのように書いたのですが、振り返るとやや不適切で誤解を生む表現でした。反省しなければなりません。

しかし瓜生さんご自身が26分30秒ころに言っているように、間違えた世界から離れて「本当の世界をありのままに観る」という行為は体験です。釈迦をはじめとする、真理を求めた人たちが観た「正しい世界」とは何か。私を超えた自然、空(くう)、宇宙に接触したのではないか。この接触すべてを「勝手に思っているだけ」とする態度は依然としてうなずけません。

なるほどと思ったところもあります。24分ごろに「釈迦が本当に悟ったかどうかはどうでもいい」と言っていますがこれは重要な指摘です。真実の世界とは何かを向き合い続けた営みこそが仏教であると瓜生さんは言います。だからその探求者の1人である釈迦が嘘を言っていたとしてもかまわない。

大竹晋が書いた『大乗非仏説をこえて』にも似た結論が書かれていました。つまり大乗仏教は釈迦の原理的な教義から離れたとしてもかまわない。ユダヤ教からキリスト教がうまれたように初期仏教から離れて大乗仏教が発展したとしてもそれでいいではないかという主張が展開してありました。最初にこの主張を読んだときは「なんだそれ?」と受け入れられませんでしたが、今では彼らの主張に共感しだしています。


②体験否定の背景について


動画28分ころからの話です。
ぼくは記事で瓜生さんが仏教の体験を否定した背景に、カルトの脱会支援があったのではと書きました。

宗教者として、オウムの教義を間違いとして、真宗の教義を正しいと判断するためには、実証的(科学的)な批判で誰にでもわかるようにオウムの間違いを証明しなければいけなかった。そのなかで証明不可能な体験をすべて否定するようになったのだと思えます。ここにぼくは真宗とオウムに限らない宗教全体の問題が潜んでいると考えます。

これを受けて瓜生さんは、ぼくが瓜生さんの本を読んでないと言います。
というのは本の中で瓜生さんは伝統教団とカルト教団の区別をどうすべきかわからないと書いているからだそうです。

実際本は読んでいませんでした。瓜生さんごめんなさい。
動画を見終わったあとすぐ本を取り寄せ、全部読みました。

ただ本の内容読んでもぼくの主張は変わりません。少し瓜生さんは記事の内容を誤解されているように思いました。原因は、どこまでが瓜生さんの主張でどこまでがぼくの考えか、引用箇所を明確にしなかったぼくの初歩的なミスです。

ぼくが言いたかったのは次のようなことです。
カルト脱会支援をしている瓜生さんご自身が浄土真宗からは「脱会」しないのはなぜか。カルトと真宗の区別が明確ではないにもかかわらず、真宗門徒としてカルト脱会支援を続けているのは矛盾しているのではないか。矛盾していないとしたら無意識のうちに、オウムは間違いで真宗は正しいという感情があるのではないか、そんな少し意地悪なものでした。

こう考えていくと、カルトと真宗の善悪を「仮に」判断するためにはすべての神秘的な体験を否定せざるをえなかったのではないかと考えました。



③仏教で救われる人がいる、人生を壊される人もいる


最後に仏教をきっかけにした人間の成長について、以前ぼくは次のように書きました。

ぼくは瓜生さんがひとの成長を軽視している点で対立します。たとえどんなにひとが不完全だとしても成長することはできる。そう信じています。ここでの「成長」とは現代の進歩主義とはまったく別の話です。60点の人間が宗教に出会って80点になったという発想はカルト的です。そうではなくて、自暴自棄だった人が生きる意味を探すようになるとか、他人を道具とみていた人が他人を理解しようと思うとか、これを成長と呼んでもいいはずだ。

これを受けてぼくの解釈では、瓜生さんは31分ころから次のように反論されています。

「真宗で成長する人もいれば、人格的におかしくなる人もいる。それはすべて縁次第である。また、一見人格者と思われる人も心の中では何を考えているかわからない。人のことを思いやる人も社会的にいい人なだけで内面はエゴイストだ。仏教を学ぶと人格的に磨かれるのではなく、自分の偽善性が自覚される」

この主張に関しては何も反論できません。ただ考え方が違うとしか言えない。というのも世の中に全人類が成長できる思想なんてありません。確かにどの思想もタイミングが悪ければ劇薬となり、飲んだ人の身体を壊します。これ一発ですべて解決といかないのが人生です。それは親鸞の思想にも言えます。親鸞の教えさえ学べば誰でも幸せになる、とはいきませんね。

しかし、それでも……と思うところはありますが、長く書いてしまいましたので、今回はこのへんで一旦終えます。また考えが深まったら真宗について投稿したいと思います。



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