見出し画像

「理想化された観察者」に対するジェンドリンの立場と「傍観者」に対するデューイの立場:新旧の物理学の見解に基づいて

ジェンドリンは、植物や動物や人間に共通する生命プロセスの特徴を 「非ラプラス的連続 (non-Laplacian sequence) 」と呼びました。では、「ラプラス的」とはいったい何なのでしょうか? 彼はニュートンからラプラスに至る古典物理学の暗黙の前提を批判的に検討しました。この前提は、科学者が未来を完璧に予測できるという決定論を意味するものでした。また、「理想化された観察者」と呼ばれるこのような科学者が自然現象を観察するとき、彼らは参与者であるにもかかわらず、あたかも非参与者であるかのようなふりをすることも意味していました。


古い物理学と新しい物理学

ジェンドリンは1983年、専門家とともに物理学に関する論文を書きました。その中で、古典物理学に取って代わった現代の量子論について、次のように簡潔に記述しています:

…量子論では、基本概念は相互作用であり、場所と時間を相互作用から派生したものとみなし、実際の相互作用を単なる比較から区別することは、量子論では当然のことであると私たちは主張する。 (Gendlin & Lemke, 1983, p. 63)

このような相互作用としての量子論という考え方は、ジェンドリンに始まったことではありません。彼に先立つ哲学者ジョン・デューイが、新旧の物理学についてどのようにレビューしていたかを考えれば、彼の後の著作における「理想化された観察者」に対する批判的立場を理解するのに役立つでしょう。デューイは、ニュートンからラプラスに至る古典物理学の決定論を「知識の旧来の傍観者理論 (the old spectator theory of knowledge) 」と呼んで批判し、ハイゼンベルクの量子論がそれに取って代わったことを次のように検討しました。

未来と過去は、同じ完全に決定され、固定された図式に属する。観測は、正しく行われれば、本質的な性質が固定された物体の法則に従って、この固定された変化の状態を記録するだけである。このような立場が意味するところは、ラプラスのよく知られた言葉に表れている。ある時点における宇宙の状態を(力学的な用語で)知ることができれば、その未来全体を予測することができる、あるいは推論することができる、というのである。ハイゼンベルクの原理がひっくり返したのはこの哲学であり、不確定性原理と呼ばれるのはこの事実を示唆している。 (Dewey, 1929, pp. 201–2 [LW 4, 161]; cf. デューイ, 2018, p. 162)


不確定性原理

このように古典物理学の考え方を概観した後、デューイは、「観察する行為自体が観察される対象に影響を与える」という非傍観者的、すなわち相互作用的な考え方の具現化として、不確定性原理を次のように簡単に概説しました。

私たちが触れることで対象を知覚するとき、触れたものにわずかな変化が生じることは誰もが認識しているはずだ。大きな身体を扱う場合、この変化は取るに足らないものだが、微細な身体や高速で移動する身体に触れると、その変化はかなりのものになるだろう。このようにして生じる変位を計算し、それを許容することで、触れたものの位置と運動量を正確に規定することができると考えるかもしれない。しかし、この結果は理論的なものであり、別の観察者によって確認されなければならない。 (Dewey, 1929, p. 203 [LW 4, 162]; cf. デューイ, 2018, pp. 163-4)

上記のことは理論的には次のように言うことができます。

もし私たちが、知られるべき事物は、知る行為に先立ちかつ完全に別個に存在する事物であるという伝統的な考え方に固執するならば、存在を知ることに必要な観察行為が、前もって存在するものを修正するという事実の発見は、知るという行為によって自らの意図が妨げられたことの証拠となってしまうのである。 (Dewey, 1929, p. 205 [LW 4, 164]; cf. デューイ, 2018, p. 165)

この観点から見ると、不確定性原理は知的破局のように思われる。前もって存在する確固とした事物の特性を説明する厳密かつ不変の法則という学説を放棄せざるを得ないという点において、不確定性原理は世界は基本的に理解可能だという考えを放棄するように思われるのである。 (Dewey, 1929, p. 208 [LW 4, 166]; cf. デューイ, 2018, p. 168)

そして、デューイは次のようにレビューで結論づけました。

このように、不確定性原理は、知識の旧来の傍観者理論を脱却するための最終ステップである。知ることは、世界の中で進行する相互作用の一種であるという事実を、科学的手続きそのものの中で認めることになる。 (Dewey, 1929, pp. 204–5 [LW 4, 163–4]; cf. デューイ, 2018, p. 165)


「理想化された観察者 」に対する批判的立場

デューイによる新旧物理学の対比をおさえておくと、ジェンドリンが’80年代以降に、「[古典的な] 物理学における観察者の時空の連続性は、生きている身体の連続性から抽象化されている」 (Gendlin et al., 1984, p. 260) と批判している背景がわかるでしょう。

もしインプライングがないのなら、もしすべての出来事がすでにあるものでしかないのなら、何が出来事をつなぐのだろうか? 「理想化された観察者 (idealized observer) 」によって供給される時間と空間のつながりとして考えられている。…空虚な空間と空虚な時間は、観察者がそれらを接続するのを待たなければならない単なる点で構成されていると仮定される。 (Gendlin, 1991, p. 108)

通常の概念的なモデルは、生きている身体だけでなく、すべてのものからインプライングと意味を奪ってしまう。空虚な位置空間と時間の中に対象を構築し、すべてのものが時空点における情報で構成されるようにする。空間と対象は誰かの前に提示されるが、その人は空間の中に提示されるのではない。それはむしろ、空間と時間の点を結びつける誰かである。その接続は、外部からのみもたらされる。それは「理想化された観察者」と呼ばれる匿名の人々によって付け加えられる。 (Gendlin, 1997/2018, p. 34; ジェンドリン, 2023, pp. 58–9)

このように、デューイの「傍観者」概念(*1)は、ジェンドリンの「理想化された観察者」概念によって継承され、批判的に検討されたと言えます。


生きている身体にできることを考える概念

デューイとジェンドリンが物理学の歴史を振り返ることで、動植物や人間の生きたプロセスを理解するためには、観察者である私たちの存在をなかったことにするのではなく、私たちも考察の対象に含めるべきだというジェンドリンの考えをさらに浮き彫りにすることができます。

心はもはや、世界を外から眺める傍観者ではない。外側から眺める者として知ることから、動き続ける世界のドラマにおける能動的な参与者として (as an active participant) 知ることへと、われわれはその記録をたどってきたのである。 (Dewey, 1929, p. 291 [LW 4, 232]; cf. デューイ, 2018, p. 238)

人間科学は観察者を研究する学問であるため、一定の抽象化された観察者連続性を仮定することはできない。観察者-連続性がどのように生成されるかを見なければならない。そうすれば、科学の空間や対象を、同じく生成的な他の種類の空間や対象と関係づけることができる。 (Gendlin et al., 1984, pp. 259–60)

デューイに照らし合わせると、後の『プロセスモデル』の以下の主張のルーツが見えてくるとも言えます。

思考が身体から独立した「理性」の運動であり、純粋に論理的な操作によって真理に到達すると見なされていた時代には、人間的に言えば、知ることの傍観者理論は必然的なものであったかもしれない。…すべての精神プロセスにおいて有機的行為が果たす役割に気づいている今となっては、そうした傍観者理論は時代錯誤も甚だしい。 (Dewey, 1929, p. 245 [LW 4, 195]; cf. デューイ, 2018, p. 199)

では、観察者たち (私たち自身) を研究するために、観察者の傍観された空間と時間の中で私たちをつなぐ、もう一組の観察者たちを想定することによって、観察者たち (私たち自身) を研究しようか。外的な位置関係だけで構成される概念では、生きている身体、ましてや植物や動物にできることを考えるには、あまりにも貧弱である。 (Gendlin, 1997/2018, pp. 34–5; cf. ジェンドリン, 2023, p. 59)


「理想化されていない観察者」の立場から見た「知覚」と「自然」

「理想化された観察者」に対する批判的な立場は、本書全体の基本的な考え方の一つとして、第IV章Aの「(d‐2) 私たちがさらに概念を形成していくためのいくつかの要請」の節で述べられています。もちろん、この考え方は本書の他の部分の議論にも反映されているようです。この考え方に関連して、第Ⅵ章-Bの「(c-2) 持たれる空間と時間」における「知覚」、第Ⅳ章-Aの「(g-1) 関連」における「自然」の議論を追ってみたいと思います。

まず、「知ることの傍観者理論」に対するデューイの考察は、知覚する身体的プロセスが脱落することに対するジェンドリンの考察に対応するでしょう。

…私たち人間は、科学的な像が提示されたものから成り立っている以上、その中に自分自身を見出すことはできない。私たちはそうした像を知覚する者あるいは構築する者にすぎないように見える。まるで私たちが宇宙の外側にいるかのように、知覚対象の中に現れない知覚する者であるかのようにである。 (Gendlin, 1992, p. 344)

古いモデルの空間と時間は非常に限られている。現実の究極的な枠組みとして受け入れることはできない。それらは誰かによって押しつけられた、非常に抽象的な比較の位置関係である。誰か? 明らかに知覚する者であり、行動において知覚する者ではなく、知覚するだけで、比較だけをおこなう者、知覚されるものに対して外的な関係しか持たない傍観者である。 (Gendlin, 1997/2018, p. 99; cf. ジェンドリン, 2023, p. 167)

位置の空間は傍観者の空間である。それは知覚されるが、知覚する身体的プロセスは脱落し、知覚されたものだけが独立して実在しているように見える。もしそうなら、それらの間にはすでに空間も存在することになる。しかし、知覚するプロセスこそが知覚を生成しているのだ! 知覚はそれ自体で存在すると考えるのは間違っている。 (Gendlin, fair copy, p. 1; 2013, p. 85; 2018, p. 151)

身体的プロセスが脱落することなく知覚の生成を論じることは、ジェンドリンの哲学の本質的なテーマの一つだったと思います。

次に、理想化された観察者の立場から知覚を考えるという問題は、「自然」をどのように知覚するかということにも関係しています。

自然は本来合理的だという学説は、高くつくものだった。その学説は、人間の理性は既にそれ自体で完成された合理性を、外部から傍観するものだという観念を必然的に意味した。 (Dewey, 1929, p. 211 [LW 4, 169]; cf. デューイ, 2018, p. 170)

なぜ自然は法則に「従う」とだけ言われるのか? …自然は、私たちの活動も含めた能動的な相互作用から成り立っているのではないだろうか? (Gendlin, 1997, p. 406; 2018, p. 276; cf. ジェンドリン, 1998, p. 195)

私たちの定式化を予め規定する自然として読み返すことは、私たちの定式化が持つような種類の秩序を自然が持っているように見せかけることになってしまうのである。 (Gendlin, 1997/2018, p. 48; cf. ジェンドリン, 2023, p. 82)

デューイやジェンドリンの根底にあるのは、私たちが自然を知覚するとき、自然に本来備わっている秩序が私たちから切り離されたものとして自存していてそれを私たちは単にコピーするというのではなく、私たち自身が知覚するプロセスに能動的に参与しているのだ、という考え方のようです。


おわりに

デューイを引き継いだジェンドリンは、予測可能な決定論では生命プロセスを説明することはできないと主張しました。さらにデューイに照らし合わせると、予測不可能性は、生命プロセスや有機的な自然を考える上で、私たち自身の参与と無関係ではないことが明らかになりました。しかし、その予測不可能性は、必ずしも秩序の欠如を意味するものではありません。生きている身体がもつ事後的な秩序については、稿を改めて論じることにします (田中, 2024, September) 。


*1) 「傍観者 (spectator)」という語はデューイの著作だけでなく、ジェンドリンの『プロセスモデル』でも使われています。例えば、第I章では環境#1を記述するためにこの語が使われています。しかし、第I章で「ハンター」を含めて使われる「傍観者」という語と、第IV章で科学者の認識を記述するために使われる「理想化された観察者」という語は、指し示す範囲が異なり、必ずしも同じ事柄を指してしているわけではなさそうです。この点については、Luke Jaaniste博士から貴重な示唆をいただきました。


文献

Dewey, J. (1929). The quest for certainty. Minton, Balch. Reprinted as Dewey, J. (1984). The later works, vol. 4 [Abbreviated as LW 4]. Southern Illinois University Press. ジョン・デューイ[著]; 加賀裕郎[訳] (2018). 確実性の探求. 東京大学出版会.

Gendlin, E. T. (1991). Thinking beyond patterns: body, language and situations. In B. den Ouden, & M. Moen (Eds.), The Presence of Feeling in Thought (pp. 21–151). Peter Lang.

Gendlin, E.T. (1992). The primacy of the body, not the primacy of perception. Man and World, 25(3–4), 341-53.

Gendlin, E.T. (1997). The responsive order: a new empiricism. Man and World, 30 (3), 383–411. ユージーン・T・ゲンドリン[著]; 斎藤浩文[訳] (1998). 現代思想, 26(1), 172-201.

Gendlin, E. T. (1997/2018). A process model. Northwestern University Press. ユージン・T・ジェンドリン [著] ; 村里忠之・末武康弘・得丸智子 [訳] (2023). プロセスモデル : 暗在性の哲学 みすず書房.

Gendlin, E.T. (2013). The Derivation of Space. In Cruz-Pierre, A. and D.A. Landes (eds.) Exploring the work of Edward S. Casey: giving voice to place, memory, and imagination (pp. 85–95). Bloomsbury Academic.

Gendlin, E.T. (2018). Saying what we mean (edited by E.S. Casey & D.M. Schoeller). Northwestern University Press.

Gendlin, E.T. & J. Lemke (1983). A critique of relativity and localization. Mathematical Modelling, 4, 61–72.

Gendlin, E.T., Grindler, D. & McGuire, M. (1984). Imagery, body, and space in focusing. In A.A. Sheikh (Ed.), Imagination and healing (pp. 259–86). Baywood.

田中 (2024, September). 「ユニットモデル」や「内容モデル (パラダイム) 」に対するジェンドリンの立場: G・H・ミードの時間論から見た遡及的時間.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?