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ハンニャハラミタ

般若波羅蜜多は、知恵の完成とも訳せるらしい。

禅宗の坊さんの本が「はじめに」で
般若心経の全体性(たぶん所謂Wholeness)を指摘していて、「個」と「科学技術」を相対的に批判している

ざっと「般若心経」と名前のつく本を何冊かめくると、この全体感とかWeb3/DAOみたいな話がほぼどの般若心経本でも出てくることに気づく(i+i=we的な)

私は科学技術肌なので、いきなり、「はじめに」とかで科学技術を批判されると、いや、あなたそもそもWholenessといってその全体の中からなぜいきなり科学や個はとりのぞいちゃうんですか?とバイアスがアレルギー的に反応しがちで結構コレを抑えるの大変です

でも、とりあえず、何をこの坊さんはいいたいんだ?と読んでいて気になった一文が

理知的な分析知は必ずや「全体性」を分断する方向にはたらく

これも、仏教の本を読んでるときは、頭の中がそういうあたなとわたしみたいな分離やめましょうねってはなしの「はず」と思って読んでいるので、え?ってなるんですけど、文中にある「必ずや」というなんとなく仏教っぽくない(=絶対ってないんじゃねーのかとつっこみたくなる)ところを一旦忘れると、

理知的・分析知は全体性を分断する方向というのはそりゃそうですよねって思った

というか、科学って前提条件・制約条件をおいていない理論は”絶対に”意味がなくて、そして、科学技術においては、数学で記述される限りかつ前提・制約条件が明確なら”絶対”(=100%再現性がある)といっていい学問だと思うんですよね

高校生で、ある質点を投げ上げる時にもっとも遠くに飛ぶ射出確度は?答え45度
でもこれって、質点(回転しない)、空気抵抗もゼロっていう前提条件があるんですよね。それがくずれれば答え変わる。

なので、そういう前提条件をうまくつかって分離しないと議論にならないからそれはしょうがないし、でもこの分離する技術がめちゃくちゃ世の中を便利(もうこれ以上便利にしてどうするの?というくらいまで)にしてくれたんだよなぁ〜って

なので、ハンニャハラミタの本で、あんまり「絶対」とか前提条件を置かずに科学的なことはいわずに、もうちょっと相手のことを褒めながら入ればもっと、「個」「自然科学」しか頭がないような人もすっと入れるのにもったいないなぁ〜、言ってることとっってもいいこといってるのになぁ〜

ハンニャハラミタって哲学なんだなぁ〜
外(環境)の哲学は自然科学を
内(心)は仏教や般若心経
内と外をつないでくれるであろう芸術は書道
ってやるとなんかふとつながって全体感が出てくるときってあるんだなぁ〜と

15分の読書を日課にしようとして、だらだら書くだけで15分オーバーの週末のスタートでした。

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