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言語とアイデンティティの考察

いま、ドイツで暮らしていて、感じることの一つに

「海外の方は、自分の意見をちゃんともっている」

があります。

でも、こんなことは、いろんなところで言われてきていることですね。

私自身も、感じただけで、そういうものだと勝手に受け入れていました。

日本人は、農耕民族で、海外の人は、狩猟民族だったから感覚が違うのだ。とか、日本には「沈黙は金」という言葉があるくらい、あまり話さないことが美徳とされていたり、「空気を読む」というその場の雰囲気を感じて行動したりすることが求められます。

こんな環境で育ったのなら、自分の意見をいう場面は、なかなかない。

だから、日本人は自分の意見をあまりもっていないのではないか

と考えていました。

しかし、最近になって、それとは別に、「言語」の影響もあるのでは?

と考えるようになりました。

英語やドイツ語では、必ず主語を使います。

特殊な文法を使わない限り、省略されることはありません。

一方で、日本語だと、多くの場面で主語が省略されます。

海外の言語は、こうした「私(英語ならI、ドイツ語ならIch)」を

何度も何度も使います。だから、「私」というものをいつも意識しているのではないかと考えます。(もちろん、彼らは、無意識レベルで私を使っていると思いますが、、、)

しかし、日本では、「私」を省略し、あいまいにします。

例えば、友達と会話をしていて、その友達が「その映画、面白いと思う」といったとします。

私たちなら、文脈や話している人数で、ああ、その意見は、その友達の意見なんだと察することができます。

しかし、海外なら、主語がないので、その意見は誰が思っていることなの?となります。

「私は」と主張をしない日本

もし、「私」というのを省かずに、ものごとを考えたり、話したりすると、「本当の私」に気づき、アイデンティティを確立しやすくなるのかも、、、


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