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視野の広さ≠客観性<価値観<情緒

物事を俯瞰して見ることができないと、視野が狭くなり、判断を誤りやすい。逆に、物事を俯瞰して見ることができれば、視野が広くなり、全体像を把握しやすくなり、客観的判断の助けとなる。だから、ビジネスにおいても、人間関係においても、社会生活においても、俯瞰で物事を見ることが大事だとよく言われる。

空飛ぶ鳥が見る景色を再現するように描いた図を鳥瞰図とも俯瞰図とも言うが、いずれも高い視点から描かれるものだ。俯瞰で見るとは、「物事の風景や状況」を、鳥瞰図や俯瞰図のように、全体を把握できるように見ることを言う。俯瞰して見るということは、物理的に高い視点を持つこと以外にも、思考の上においても、高い視点や階層で物事を構造的に把握することも含まれる。

もしあなたが会社の経営者であれば、市場環境や競合の動向などのビジネス環境を包括して、自分の会社の状況を俯瞰して見て、会社の強みやチャンス、リスクなどを客観的に分析して、経営判断の一助とすることができる。あるいは、もしあなたが小説家であれば、自分が書いている作品の登場人物やその人間関係、そしてプロットなど、俯瞰して全体像を思い描きながら、小説を完成させていくだろう。

俯瞰して見るということは、物事の全体像を客観的に把握することができるので、大変役に立つ見方である。しかし、物事の全体像を客観的に把握できたとしても、それが正しい認識かどうかは別問題なのである。ビジネスの場合であれば、ビジネスの内容やスコープを始め、自分の立場や役割が決まっているので、自分の置かれたビジネス環境を俯瞰して見て正しく分析することは、比較的容易い。

ところが、自分の人生や自分の暮らす世界を俯瞰して見ようとすると、突然面倒なことになる。自分の暮らす世界一つ取っても、それを会社や家庭だと言う人も多いだろう。また、恋人と一緒にいる空間だったり、アスリートであればトレーニング場や試合場だったりと色々な世界があるだろう。あるいは、日本全体を自分の住む環境と見る人もいれば、世界や地球を自分の環境と捉えている人もいるはずだ。もしかしたら、宇宙まで俯瞰して見えているという人もいるかもしれない。

つまり同じ世界を同じように俯瞰して見ることをしても、人によって見える情景や環境はまちまちであり、必ずしもこれと言った絶対的に正しい風景は存在しない。さらに言えば、俯瞰して見えているものは、そもそも全体像でもないし、客観的実像でもないのである。所詮、俯瞰して見ることは、物事の把握のための一つの方法論に過ぎないのであって、自分が客観的な見方や判断ができているとは限らないし、その客観性は証明できない。

だからこそ、俯瞰して見る上で、最も大事なことは、人としての価値観をどう持つかに尽きると私は考えいる。人としてこの世界とどう向き合うかという価値観なくしては、「世の中の現実」を俯瞰して見ることは難しいのである。

また、俯瞰して見る場合の対象世界には、常に共同体コミュニティのなかでの自分自身も含まれる。もしあなた自身が人としての価値観を何も持ち合わせていないとしたら、あなたはコミュニティ世界との関連性や繋がりが持てず、さらにコミュニティ世界から受け入れられることもなく、社会性のない、孤立した存在となる。

コミュニティ世界とは、人としての価値観があって初めて繋がることができるのであって、逆に言えば、人としての価値観で人々が繋がることで、コミュニティ世界が成り立っている。

繰り返すが、人としての価値観なくしては、自分の暮らす世界を俯瞰で見ることはできない。それでも世界を俯瞰で見ようとしても、それは意味なき行為である。つまり分かり易く言えば、何も考えず生きている人間は、社会性が欠如するばかりでなく、自分の置かれている環境を俯瞰して見ることができないということだ。

さて、価値観に基づき俯瞰して自分の環境世界を見ることができたとしても、その人が持っている価値観によって、仮に複数人が同じ環境世界に住んでいたとしても、それぞれ全く違った風景に見えるということを、意外と見逃してしまう。同じ世界も価値観によっては違った見え方になるのだ。

例えば、同じ街に二人の青年がいる。一人は、人は騙し騙されるのが当たり前という価値観を持っている。彼の描く鳥瞰図は世知辛い世界だろう。またもう一人の青年は、約束を守ることを美徳とする価値観を持っていて、彼の俯瞰図は、コミュニケーションが活発で、笑顔のある世界かもしれない。

また、人は自分にとって都合の悪い現実は見たくないもので、都合の悪い現実が自分の視野に入らないこともある。逆に、人は自分の都合のいいように現実を見るようにもできている。「自分の都合」というものが、実は最大の曲者で、世界は一つなのに、その現実は、「自分の都合」によって、色々な色に染まって、いくつもの世界の鳥瞰図が出来上がる。

世界には196の国がある。それぞれの国に頭のいい為政者がいて、為政者たちは、皆等しく、広い視野で、客観的かつ冷静に、この地球世界を見ているはずだ。それでも、国によって、描かれる地球世界の鳥瞰図は違う。少し先の未来鳥瞰図も違うはずだ。それは、それぞれに持っている価値観が違うからである。

ある国は、資本主義を掲げ、またある国は社会主義を標榜するし、国家観は一つとして同じではない。また、ある国は、相も変わらず地球資源を鼻息荒く奪取しているし、その一方で、絶滅危惧種の保護に必死になっている国もある。

日本に目を向けてみれば、資本主義の限界を見出し、社会主義社会を見直そうとする動き(脱成長)が出てきているようだが、資本主義経済のグローバル化の動きに何の疑問も持たないで、「命よりも経済活動や国家体制が重視される世界」を、指をくわえて見ている人も大勢いる。一億人以上いる日本人のなかでも、日本や世界がどう見えているかは、必ずしもひとつではないが、日本人の価値観が多様なのかどうかはいささか疑問ではある。

さて一方、俯瞰して見る方法論は、おそらく世界共通で、変わらないにも関わらず、一つの同じ世界なのに、同じように見ることができない。だから、俯瞰して客観的に見ることができるということは、素晴らしいことでもなんでもないことで、どのような価値観を持っているかが最も大事なのである。

今年1月、「過激派」の最大勢力である「中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)」を率いてきた清水丈夫議長(83)が、51年の潜伏期間を経て突如姿を現して、ニュースになった。中核派は、“革命のためなら暴力をも肯定する”という姿勢を持ちながら、近年ではYouTubeを用いて若者の勧誘にも成功しているようだ。中核派の若手リーダーの一人、石田真弓氏(34)が出演した『ABEMA Prime』を、私も見た。(この記事は3年前に書いたもので、リアルタイムな情報でなく申し訳ありません)

警察に“極左暴力集団”と定義されるグループである中核派も、その政治思想が重んじられるあまり、人を傷つけることをも躊躇せず、暴力や武力を以て交戦することを厭わない姿勢を示している。中核派の幹部連中も政治的な知識や見識は正直広いし、知識量も豊富。知識ベースでは、彼らも俯瞰して政治や社会の情勢を見ることができている。

しかし、彼らが持っている根本的な価値観である政治思想が強烈に極左的であり、かつ過激であるため、同じ社会を見ていても、見え方が世論とは明らかに違う。彼らの思想には、労働者という概念は存在するが、人間らしさという概念は見受けられない。少なくとも私は、中核派が豪語するような「暴力による革命が必要な世界」の鳥瞰図を描くことは絶対にできない。

なお、政治活動団体や会社での組織(あえて政治団体と会社を併記しているが、あしからず)においては、組織内での価値観のルール化や標準化がなされ、自分たちの環境を俯瞰で見ようとした時、自ずとその見方も規格化されるので、そこで描かれる俯瞰図は、組織の人間の誰が描こうが、ほぼ同じものとなるだろう。

この場合は、組織の一員は、すでにある政治思想や会社での価値観に縛られているので、客観的に俯瞰できているとは決して言えない。政治団体や会社での価値観は極めて主観的なものである。また、人としての価値観よりも組織の価値観が優先されるため、俯瞰する際も、人としての価値観が何かを問われることはない。

ところで、知識の多い者、知見の優れた者ほど、過激な思想や教えに傾倒しやすい。客観的判断や常識的な判断ができることは、もはや優れた能力ではないと知るべきだ。ある程度の学力や常識が身に着けば、客観的判断は誰にでもできるのだ。

しかし、人よりも少し、思想的に多めの知識を得た人間は、客観性を超越した、否、自分の思考を超越した普遍的かつ体系化された思想に魅了されがちなのだ。その思想が荒削りの思想であっても、自己の思考を超越していればそれでいい。

思想的知識や知見を身につけること自体、知的快楽行為である。思想的な知識や知見を身につければつけるほど、さらなる知的快楽を求めるようになっていく。飽くなき快楽を覚えてしまうと麻薬と同じである。その思想にどっぷり嵌りにいく。そして、抜け出せなくなる。自らが自分の脳を、思想で洗脳していくのである。洗脳行為のプロセスは、すべてがすべて受け身というわけではないのだ。

思想には、人間の糧になるものもあれば、毒になるものもある。注意点は、あくまでも、その思想における人間の位置づけがどこにあるかである。人間が棚上げされたり、度外視されたりした思想は論外。害毒であって、近づいてはならないと私は強調したい。

政治思想や宗教、国家観は得てして、人の幸せや豊かさを謳いながらも、その政治的大義名分やプロパガンダ、主義主張に固執するあまり、人間の尊厳を棚上げしてしまいがちなのだ。ある思想が人間の尊厳が第一だと宣言していても、実際の思想啓蒙活動や思想家の言動が、人間の重みと思想の重みのどちらに重きを置いているかを見れば、その思想の正体は明らかになるはずだ。思想が主で、人が従となっている思想は、百害あって一利なしだと思うが、世の中には害毒になる思想がたくさん存在している。

私は、時代がどう変わろうが、人の心を中心とした価値観が基本中の基本だと言いたい。人の持つ情緒を基軸とした価値観が最も大事なのだ。社会運営においても、経済活動においても、科学技術の研究開発においても、教育においても、情緒を基軸にした価値観が望ましい。

情緒については、概念的に説明するのも野暮なので、情緒を感じることについて、思いつくまま書くてみると、

虫の声を聞いて季節を感じる
おふくろの料理を食べて心が温かくなる
風鈴の音を聞いて夏の風情を感じる
寺の鐘の音を聞いて神妙な気持ちになる
日の出や日の入りを見て、命の尊さや儚さを感じる
台風一過の突き抜けるような青い空を見て清々しく、ワクワクする
満点の星空を見て、宇宙の偉大さに呑みこまれそうになる
音楽を聞いて、勇気が出たり、優しい気持ちになったりする。たまに、わけもなく涙が溢れる
小さな赤ちゃんに触れて、とにかく可愛くて仕方なく、抱きかかえたくなる
七夕の短冊を見て子供たちの明るい未来を期待して祈る
一緒に汗を流し苦労した友達と成功の喜びを分かち合う
愛し合う恋人たちを見て微笑ましく思う などなど

地球は、経済活動のおかげで、地球のありのままの姿をなくしてしまった。コオロギやミミズはアスファルトに埋め立てられ生き場を失い、セミも鳴く場を失った。空気は濁り、経済活動は24時間365時間止まることを知らず、いつしか満点の星空も消えてしまった。こうした環境下で、現代人は、情緒豊かな暮らしができなくなりつつあるのだが、文化や芸術によって、情緒ある暮らしを取り戻すことができると私は思っている。

また、宗教にも色々ある。人間の尊厳を見つめなおすきっかけになるのであれば、それは立派な宗教であり、その宗教的価値観を以て、俯瞰して世の中を見ていくのも素晴らしいことかもしれない。

私の主張が、綺麗ごとに聞こえるという方もいらっしゃるかもしれない。しかしながら、これから地球環境がどうなっていくかもわからない。もしかしたら、大量の情報の海に人が溺れて身動きが取れなくなるかもしれない。間違いなく言えることは、人々の感情の劣化や乾きは止まることを知らない。

だからこそ、私は主張したい。政治家が口角泡を飛ばして発する美辞麗句は、「論外」だとガン無視すればいい。ただ、情緒豊かな人こそ綺麗ごとを飾らず言える社会、そして、綺麗ごとが素直に受け入れられる世界が、人々の心を豊かにするはずだ。乾いた心に潤いをもたらす情緒豊かな言葉や表現がたくさん溢れる世界は、きっと幸せな世界だろう。

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