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言語によって「世界の見え方」は変わり、日本人の「世界の見え方」は日本語によってのみ表現が可能であり、翻訳不能であることを「私は生かされている」という表現から検証する。

思考は言語によって形成される。日本人は日本語によって思考を形成していき、アメリカ人は英語によって、そして、中国人は中国語によって、思考を形成している。

わかりやすいところで言えば、アメリカ人にとって、神は明確な意味をもつが、日本人にとっては、神という概念は神道的な「八百万の神」だと説明できる。同じ神という言葉であっても形成される思考は異なる。もちろん、たとえ日本人であっても、子どもの頃から洗礼を受け、聖書が座右の書であれば、その限りではないかもしれない。

また、「中華」という言葉があるが、これは中国人にとっては、中華文化の発祥地を意味する「中原」という表現に通じ、世界の中心は中国であることを示す。この概念も日本人にはない。

逆に言えば、日本人にはアメリカ人の言う「神」のいる世界を見たこともなければ、中国人が言う「中華」という世界も見えていないということになる。このことは同じ世界であっても、「世界の見え方」は使う言語によって違ってくることを意味する。

高校の頃の思い出の画集

私は高校生の時から東山魁夷の絵画が好きで、東山魁夷の画集を買い求めた。東山魁夷は日本画家として有名だが、特に風景画においては国民的画家でもある。東山魁夷の功績は画家としてだけでなく、著述家としてもたくさんの秀逸なエッセイを世に残した。繊細ななかにも強さを秘めた東山魁夷の文章が私は好きで、よく読んだ。中でも印象深い文章がこれだ。

私は生かされている。野の草と同じである。路傍の小石とも同じである。生かされているという宿命の中で、せいいっぱい生きたいと思っている。せいいっぱい生きるなどということは難しいことだが、生かされているという認識によっていくらか救われる。(東山魁夷「風景との対話」より)

風景との対話

高校生の時に出会った本「風景との対話」(1967年新潮選書)というエッセイのこの一文が私の心を捉えて離さなかった。この文章に出会ったのは35年ほど前。今でも忘れられない文章で、私の心のなかに居座り続けているのである。冒頭が、もし「私は生かされている」ではなく、「私は一所懸命運命を生きている」とあれば、受けた印象とインパクトはまったく違う平凡なものだったかもしれない。そこを生きているということにスポットを当てずに「私は生かされている」と始めに言い切ってしまう潔さ

エッセイや詩においては、含蓄のある表現を人それぞれが味わえばいいのであって、表現するところの意味を説明すると野暮になる。だが、「私は生かされている。」という表現から「見える世界」が、日本語以外では翻訳不能であることを検証したいので、この魁夷の文章が意味するところをまずは自分なりに解釈をしていこうと思う。

この文章の骨格は「私は生かされている。生かされているという宿命の中で、せいいっぱい生きたいと思っている。」となっている。

東山魁夷は、いつも自然に身を置いて、風景画を描くことに心血を注いでいたので、自然の偉大さや荘厳さを肌で感じる一方で、自分の存在の脆弱さや小ささを身に染みていて、自然に畏敬の念をいだいていたであろう。「生かされている」ことを「宿命」と言っているが、これは読者への計らいで、わかりやすくするための表現だろうと私は推測する。が、一方で「私は生かされている」という表現から、色々なメタファーを読み取ることができて、詩的な表現になっていると私は感じた。

最近は、情報化社会になって、わかりやすい文章ばかりが横行していて、誤解のないストレートな表現が多用され、含蓄のある言葉、修辞的な言葉の表現能力が全体的に低下しているのではないかと私は懸念している。それはともかく「私は生かされている」という表現から、人によってどのようなメタファーを読み取るのか興味津々だが、勝手に想像してみると、まず八百万の神に親しみのある日本人なら「人間は大自然の一部だ」という感覚を普通に理解できるよ思うので、「私は大自然に生かされている」という読み取り方をするかもしれない。

しかし、キリスト教的神学論によると自然は神のもので、神中心の自然観からすると「神によって生かされている」というメタファーを読み取ることができる。

また、デカルト的二元論は自然と人間を分けるという発想を生んだ。この二元論は資本主義経済の成長神話と相性がよく、人間にのみ自然資源を採取する権利があり、人は経済成長のために主体的に生きなければならないという価値観が生まれた。その価値観に立つと「生かされている」という表現はそもそもおかしいということにもなりかねない。


日本はいつの時代にも天災が多く、科学技術が進歩した現代でも悲しいことに「自然」に太刀打ちできないことがしばしばある。ときに「自然の怒り」「天の怒り」という非科学的な感覚も持ち合わせている。しばしば天災に見舞われる土地において、天災を受け入れながらも、生き抜こうとする歴史的覚悟のようなものを日本人は長い時間をかけて培ってきたのではないだろうか。

そういう歴史的覚悟があるから、天災が多いと知りながらも、日本人は日本列島に住み続け、天災の少ない地方に移住することもない。何よりも天災が他の土地より多くとも、四季折々、変化に富んだ日本の環境に好き好んで暮らしてさえいるのかもしれない。

ともあれ「私は天に生かされている」というメタファーも日本人ならでは読み取れるはずだ。このように、日本人なら、「私は生かされている」という表現から、「宿命」に限らず、「大自然」や「天」などのメタファーが込められていることが読み取れるのである。

「私は生かされている」という表現は、日本人の生きる姿勢を現している。つまり、人は天意に従いつつ、自然の一部となり、大きな力「生命力」をいただいているという含蓄の深い表現なのである。

ここまでは「私は生かされている」という言葉から日本人が読み取ることができるであろうメタファーについて説明をしてきたが、おそらくキリスト教的価値観のある欧米では「私は生かされている」という日本人には見て取れる世界観や価値観を表現するぴったりの英語はないだろう。

「神が人を生かしている」"The god lets people live."や「神が人に生きることを許している」"The god allows people to live."などと訳さざるをえないのではないかと思う。または、神という言葉を使わないとすれば、「私は生きることを許されている」"I am allowed to live."という言い方になりそうだ。

いずれにしろ、「大自然」「宿命」という意味合いは表現されていないし、「天」については、欧米では神のことだが、日本人にとっての「天」は神ではない。「私は生かされている」という東山魁夷の言葉を英語で直訳することは不可能であり、相当な意訳や説明が必要になるだろう。


では、中国語ではどうだろうか?私は北京の三里屯という土地にある書店に立ち寄った時に、偶然、東山魁夷の「風景との対話」の中国語版と出会った。私は中国語でも読んでみたいと思い、その場で「風景との対話」の中国語翻訳版を購入した。該当箇所の中国語訳は以下の通りである。

我的生命被造就出来,同野草一样,同路旁的小石子一样,一旦出生,我便想在这样的命运中奋力生活。要想奋力生活是颇为艰难的,但只要认识到你那被造就了的生命,总会得到一些求助。

私はこの訳文を読んで正直愕然とした。東山魁夷のエッセイのなかに潜む詩的かつ繊細で力強い表現がまったく反映されていないし、言葉を厳選して一言一言丁寧に書き綴る慎重さも伝わらないまったく印象の異なる文章に思えてならなかったからだ。試しに、この中国語の訳文を逆に日本語に直訳してみたらどうだろうか。

私の生命は造りだされている。野の草と同じである。路傍の小石とも同じである。一度生まれると、このような宿命の中で、せいいっぱい生活したいと思っている。せいいっぱい生活するなどということは難しいことだが、造りだされた生命を認識することでいくらか救われる。

この訳文では東山魁夷のエッセイの醍醐味である含蓄のある表現が、残念ながらメタファーが反映されない薄っぺらな表現に成り下がってしまったと私は感じた。エッセイや詩というジャンルの表現は、筆者の心の内と表現意図に読者が寄り添っていかないと理解できない領域が存在していることが多い。だからエッセイや詩の読解にはそれ相応の語彙力と想像力が要求され、時として読解力が足りないために、文章の読み取りが浅くなったり、理解がたりなかったりということが起こりうる。当然翻訳者には、一字一句深く読み解く力が要求されるので、エッセイや詩に翻訳おいては、論文などと比べて翻訳難易度が高いことも否定できない。

いずれにしろ、この文章の鍵は、冒頭の「私は生かされている」である。この文言に含まれる「大自然」への畏敬の念や「天意」を仰ぎ見る真摯な姿勢や「宿命」を受け入れる静かなる諦めなどの含意が、もし読み取れていたならば、「生きる」を「生活」とは訳さないだろう。中国語訳としては、「生きる」の訳語として「活」を使ってほしかったと私は思う。それに「私は生かされている」という表現は、単なる受動的で受身な態度ではなく、自分の意志ではいかんともできない宿命を受け入れる覚悟があり、強い姿勢のようなものも感じ取れるのだ。あたかも合気道の世界で、大地の力を力を入れずにあたかも受動的に自分に引き込み、普通では想定できない大きな力を発動するような力強さに似ているかもしれない。

「私は生かされている」という、この受身の表現の奥には、大胆かつ全面的な自己肯定感があり、日本人が誇るべき姿勢があると私は思う。だから、東山魁夷も「せいいっぱい生きるなどということは難しいことだが、生かされているという認識によっていくらか救われる。」と言っているのだ。生かされているという認識はつまりは全面的自己肯定感に他ならず、この認識をもつことで救われるということにも合点がいくのである。

ここまで考えてみると、東山魁夷が文章に込めたメタファーを含め、そのニュアンスまで翻訳するとなると、直訳では到底不可能で、相当な補足説明と意訳が必要なのである。ちなみに、このメタファーを読み取るためには、人間が生まれ持った重要なものほど、自分の意志で決めることのできないものばかりであるということを知り、受け入れることも大事である。しかも、理屈や意識ではなく、感覚でアプローチしないとメタファーは理解できない。生まれてくる国や場所、親の存在、男か女か、いつ生まれいつ死ぬかの時間など、人として重要なことであればあるほど、自分の意志の及ばないところで決まっているという事実を誰も避けて通ることはできない。

ちなみに「私は生かされて、生きている」という意味合いを伝えるために、私は中国語で、以下のように意訳並びに補足説明をしてみた。

人活着而“被活”着。或者,“被活”着而活着。这也是绝对矛盾的逻辑结构。在生命中存在着绝对的矛盾。在此关于“被活”的概念解释一下。生命的很多的基础是自己控制不了的。比如地方或国家等的生活环境,出生的家庭等的环境,各种规定等等。从这些角度来看人生的话,人并不是完全主动地活下去,而是被环境等因素控制来活着。所以我想把这些简单概括为“被活”。也可以说“被活着”是“被命运活着”。

これもまた、東山魁夷が伝えようとした「私は生かされて、生きている」という表現から見える心象風景を、私は見事にぶちこわしてしまった。


最後に別な例で、「彼女の顔は表情が全くない、冷たい能面だ」という表現がある。この能面がメタファーだが、下の写真のような喜怒哀楽の見えない能面から無表情であることがイメージできると思う。

英語なら"Noh mask”とでも訳すのかもしれないが、日本人がイメージするような無表情な顔を連想することは難しいだろう。ちなみに、中国語なら「面具」と訳せると思うが、下の写真から表情のない顔を思い浮かべることができるだろうか?

以上、言語によって「世界の見え方」や捉え方は異なるということを見てきた。また、翻訳が難しい日本語の表現があるということも確認できたと思う。ただ「能面」というメタファーの場合もそうだが、メタファーを理解するには、言語の意味の問題以外にも、メタファーに関連する共通感覚の問題もあることを補足しておきたい。

ここでは翻訳できない事例を見たが、実際は翻訳可能な表現がほとんどで、翻訳によって共通のイメージを共有できるのも事実だ。私はあえて重箱の隅を突っつくような検証をしたに過ぎない。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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