「ムラ」の掟と「一揆」という現象
さて、「カミ」との契約という話から、
日本のように多神教であれば、神と人間はどのような関係があるのか考察してみましょう。
神との関係において、日本では独特の現象が見受けられるのです。
それは「カミ」を仲介にした結束です。
これは一神教の「神と自らの契約」ではなく、
集団の結束を「カミ」に誓うというものです。
ここではカミは「人々の約束」の証人
という立場をとるわけです。
現象的には似ていますが、ここにおける集団の結束は、
あくまでも「神に対する忠誠」ではなく、集団に対する忠誠であるわけです。
この儀式において、カミはあくまでも「仲介」の立場であり、「認証」という権威を与える存在でしかありません。
その立ち位置はきわめて無責任であるわけです。
ですから、その誓うカミも一定ではなく、多数の神に誓うという形で誓文を作るわけです。
しかしこれは人々の誓いであって、カミはあくまでも「証人」という立場にあるわけです。
集団結束の証人としての「神」
すなわち、契約は「カミ」に対するのではなく、「集団」に対してであるということです。
たとえば「一揆」という言葉がありますが、
これはみなが心を一つにする。という意味で、その「証人」として「カミ」を据えたというわけです。
ですから、そのカミはどのようなカミであってもいいというわけです。すなわち、すべてのカミはその神の領域において平等な立場であるというわけだと言うことですね。
日本文化においてのカミは、人々の結束の「正当」を権威で保証する存在なのだ。
ということもいえるのかもしれません。それが極端化したのが、明治維新であり、それにつながる皇国思想であったのかもしれません。
神はそもそも人の「不安」や「願望」が作り出した概念ですが、これがないと人は「不安」に押しつぶされてしまう。
ですから、そういった安心したい心の動きから「宗教」が生まれたのです。
しかしながら、それがゆえに、社会学的には危険な要素も持っているわけです。
あたしが、某団体に殺されなければ、このメカニズムを次回から解析していくことにしましょう。
continue
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?