「自由」という「刑罰」
「自由」とはある意味恐ろしい。
最近こう考えるようになっています。
だってね、「自由」ですから
それはそのまま「誰のせいでもない、おまえの選択の結果」
こういう事が突きつけられるからです。
こういう状態を「実存的自由」というのですが、
はっきり言って、決断には「賭け」が伴うのが必然です。
こういうときに、
「宗教」とか「慣習」
そういうものに「丸投げ」すれば
「自由」の束縛から逃れ
「宗教」や「慣習」のせいにできるわけです。
そこには「自らの想い」は
すでに捨てなければならない。
「自由」にやったら
「慣習」の対極になり、すべての不都合が
「自由」を選択したことになる。
不本意ながら「慣習」に従うことは
「自由の刑」に
はまりたくないからだと思うのです。
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