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PTAの謎を探ってみる  その4

「外来制度」がすぐに広がる歴史的理由

  前回も触れましたが、当時の文部省は、
昭和22年に「父母と先生の会‐教育民主化のために‐」と題する
PTA 結成の手引き書マニュアルを作成して、
全国にPTAを作るように働きかけたんですが、
これが大ブレークして広がりを見せるんでございます。

 つまり、戦後まもなくの時期は、
「なんでも民主化」が大流行したからなんです。
まぁ「青い山脈」なんかが大流行したのと同じノリでございます。

 で、戦時中に低調になっていた
学校の後援会やら、父母の会なんてものが、
物資の乏しい学校事情も相まって、
「学校の民主化に親も協力しよう!」ってなノリで
こぞって「PTA」の看板を打ち立て、
あっという間に全国津々浦々の学校にPTAが作られます。

 そのスピードがすごいのなんの。
なんと通達の1年後にはその数7割に達してます。
何でそれができたかというと、実はその背景に、
元々学校には「後援会」という組織が
ほとんど存在していたという物理的要因がございます。

 戦前から学校に存在した後援会組織は、
その多くが教育振興を表向きにしてはいたけれど、
実態的には物的援助を主とするもので、
学校運営予算の穴埋め的なものでしたから、
運動会の手伝いとか設備の営繕活動、
寄付集めとかそんなものが主な活動でした。

(あれ?どっかで聞いたような)

もう勘がいいお方はもうお察しになったと思いますが、
こうしてできたPTA組織のほとんどは、
旧来の後援会の「発展的解消」という形をとり、
実情は「PTA」の看板を付け替えただけで、
活動内容は旧来と全く同じものだったというわけです。

昭和23年の文部省調査報告では

旧来のものをPTAに切り替えただけで、真にPTAであるものは極く少なく、おおむね後援会的性格を払拭できず、単なる看板の塗り替えに過ぎないものが多い

と、苦言を述べている有様です。

 また、PTA結成の動機も「県の指令によるもの」がほとんどであり、
自発的というより、行政の指示によってという
受け身的な結成動機がほとんどであったわけです。
ですから、学校に子どもが入学すると、ほぼ強制的な加入が義務化します。

PTAの本旨は、保護者に限らず、市民の「自由参加」なのですが
何処へやら・・。という元凶はここから来ています。

考えれば、明治時代に「学制」が発布された際、
江戸時代以来の「寺子屋」があっという間に「小学校」になったり
戦時中に小学校が「国民学校」となったり、昨今は「特別支援級」ですか。
これらの実態って、中身は何も変わってはいないのですが・・。
そもそもわが国は「看板の付け替え」はお家芸だったのでしょう。

 ですから「時流に乗った」という動機も数多く、学校のお手伝いという
とてもPTAの本旨を理解して結成されたとは言えない事情がルーツです。

 したがって、PTAも上部組織に行くに従って「意識高い系民主的PTA」になり、
単位PTA組織の段階だと、「お手伝いをやらされている学校後援会」という二極化が否めないですから、現場レベルでは「めんどくさい」という図式にならざるを得ないのです。

なんか輪番だとかで、PTA研修委員になっちゃった・・

 PTAの研究大会や講演会参加人数が「動員」に頼らざるを得ない実情も、この「意識の二極化」から来るものであることは当然です。

 また、この頃はPTA組織が、地域の有力者の権威基盤になっているという実態も報告されており、
教育振興を理由にした「寄付集め」に適した組織に変貌した実態もうかがい知れるわけです。

 今や、過去からの「踏襲」ではなく、そもそものPTA本旨
あらためて洗い直すか、「新時代の教育支援システム」
として、考え直すときブラッシュアップが来ているのかも知れませんね。



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