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 最近の研究室のテーマとして、
もうお気付きだとは思うんですが、
実を言うと「般若心経」の内容に沿って
「雑感」みたいなエピソード
展開しながら、
解説しております。

 あくまでも内容解説ではなく、
そこに書かれてあるフレーズをもとに、
可愛い助手や聴講生にもわかるように、展開しています。
 ですから、めんどくさい解釈議論は
「不戯論」や「無記」の立場でおりますので、
そのつもりでご容赦ください。

 何度か今まで、般若心経の冒頭に出て来る、
「観自在菩薩」から菩薩や如来についてお話をしました。

 今回はざくっと表題から行っちゃいましょうッてなわけで、
「般若波羅蜜多」という言葉にかけてお話ししてみることにいたします。
なにゆえ、こういう展開にしたかって言いますとね、
まぁ今は言わないでおきましょう。

  般若って言ったら、
やっぱふつうは能で出て来る、
あの鬼の面を思い浮かべましょうな。

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でも、あの鬼が般若じゃあないんです。
なにゆえあれを「般若」と呼ぶようになったかと言いますと、
そもそもこの面は、
女性の嫉妬の悲しみと怒りの極限を表現した造形なんです。

  能の演目で言えば、「葵上」の六条御息所とか、
「道成寺」の蛇体の鬼などに使われるもので、
これをはじめて作ったのが、
室町時代に活躍した能面作り職人集団「般若坊」であるところから、
この鬼の面を「般若の面」と呼ぶようになったそうです。

つまりこの鬼の面は、
嫉妬に狂った女性の心の顔はこういうんだよって言うことですよ

般若坊の名は、
大和国の「般若寺」にその工房があったところに由来します。
で、肝心の「般若」の意味ですが、

ざっくり言いますと
「智慧」とか「真理」という意味のパーリ語、「 पञ्ञा(パーニャ)」
の漢音訳です。
仏教サイドで言えば「さとり」というわけですな。

 ですから、時々「般若の智慧」
なんてことを言っている場合があるんですが、
般若と智慧はまったく同じ意味です。

 般若波羅蜜多とは、「波羅蜜多」が同じくパーリ語で
「 पारमिता (パーラミター)」という漢音訳で
「完全」とか「完成された」という意味で、
般若波羅蜜多とは「完全な智慧」という事をいうわけです。

 さて、解説をしようとは思っていないので、
この分野はこのくらいにしといて、

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ここで話題にしたいのは、人ってなにゆえ生まれ、
そして生きているんだろう。って言う命題です。

 実はこれって、あたしが高校生の時から考えてたことで、
これをテーマに数十年にわたって
未完の小説を書いている命題でもあります。

で、その小説のヒロインには、
まだ答えを提示できないでいます。
でも、それを示すために、
彼女もろとも、第一次登場人物には
この世からいなくなってもらうしかない展開になりました。

 人の存在は何をもって存在といい、
何があたしなの?って言う素朴な疑問はあるでしょうが、
結局めんどくさいから、そのままうっちゃっておいてる。
そういうのが、まぁ普通だね~、てな事になりましょうね。

  最近この試行錯誤の結果、
どうやらあたしが自分の存在を
「人」としての「あたし」であると捉えていることというのは、
どうやら「こころ」とか「想念」の問題だと気づいたわけです。

即ち、「われ思う故に我あり」という、
デカルトの方法序説の認識ですな。

たとえば仏教でいえば「信心」と「信仰」の違いというか、
そういうものに気がついたって事です。

しかし、実はこの「こころ」自体、
般若の観点から言えば、
「ないのよね」という立場に立ちます。

ていうか、すべからく心とか現象というものは「ない」のだという事。
これを文字にすると「空」という概念になります。
つまり記号的には「0」です。
これは、前回解説したとおりです。
 
 また難しくなってきたので、簡単な話に戻すと、
要するに、「屁」とか、「トイレットペーパー」
みたいなものだということかしら。

ていうか、石をぽいっと投げてそこに石があったら、
それが真理なのだ
。という事。

 つまり、ありのままの状態で流れていくのが真実であり、
人の心がそれを良いとか悪いとか振り分けているだけで、
その心自体、大自然の営みの前にはあやふやで、
無茶苦茶
弱っちい存在なんじゃないの?
ていう話なんです。

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