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漂泊幾花 外伝 ~般若理趣義解1~


特急「さくら」は、長崎から浦上咲と柴田耕作の「旅」の終わりを乗せ、東京への帰路、咲の提案で京都に寄ることになった。

京都は桜の時期をとうに過ぎて青葉の季節になっていた。盆地特有のうだるような暑さが始まっていた。京都駅のコンコースで、咲は耕作をじっと見ながらこう提案した。
「・・耕作、ここで自由行動にしようよ。待ち合わせ場所は、・・・うふふ、自由が丘の駅前。」
「・・え?自由が丘って・・・。」
「そう・・、東京で待ち合わせよ、3日後の12時。あたしは西側改札口の前にいるわ。」
「・・・って・・・。」
「うふふ、じゃ、あたし忙しいの、行くところがたっくさんあるわ。あなたも、そうでしょ?。」
咲はそう言うと耕作に軽く口づけをし、改札口から手を振りながら京都の町並みの中に消えていった。

Scene1 観世音菩薩の存在

咲は一枚の紙を手にしていた。
(これの意味がいずれわかるからって・・)

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 その紙には黒々とした墨書で、妙適淸淨句是菩薩位・・うんぬん・・

そう書かれてあった。当然のことながら、咲には何のことか解らなかった。この紙は、長崎に行く前に耕作と寄った木屋町の酒場で出会った御前様と呼ばれていた「破戒僧」風の僧が、その場でさらさらと書いたものを手渡されたものだった。

(何のことだか結局何も解らないけれど、何が書いてあるのか聞きたい・・・。)

 咲はそう考えはじめていた。そのためには、3日のうちに、またあの「御前様」に会わなければいけない。

(でも・・・、いったいどうすれば。)

 咲は、三十三間堂の長い縁側に腰掛けながら、中空をあおいだ。

「みょうてきせいじょうく、ぜぼさつい・・。」

 咲は、処置なしだという風に、あらためて三十三間堂の中にはいると、そこに安置された見事に金色に輝く観音像を一体一体見て回った。

 千の手を持つ観音像が、時には厳しい顔の観音、かと思えばとてつもなく慈悲にあふれた顔をしている観音像など、また、頭上にいくつもの顔を乗せた観音など、それぞれは極めて特異であった。ここには千体あまりの千手観音像があるという。

「・・観世音菩薩は、ざっと三十三の姿をしはるんだす。この観音さんは、千手観音いいます。他にも観音さんは、聖観音とか、馬頭観音とかいろいろあって、三十三間堂の三十三はそこからきとります。せやけど、すべて同じ観音なんだす。」
 若い僧が、咲にそう説明した。

「え?・・・一つ一つ名前も付いてるし・・・。千手観音とか・・。」
僧はけらけらと笑った。
「そうだすなぁ、みな別もんのように思うのは無理からぬ事やと思います。しかし、観音さんは観世音菩薩、或いは観自在菩薩いいましてな、それはお一方しかおへんのどす。」

咲は、その言葉に不思議そうに訊ねた。
「では、なぜこんなにちがう観音様があって、それがみな同じというのは・・・。なんだかよくわからないのだけれども。」
「嬢はんは、いつも同じ気持ちで日々過ごしてますかいな?」
「・・・あ・・・。」

 咲は不意を突かれた気がした。若い僧はにやりと笑いながら話を続けた。
「まぁ、簡単に言いますとな、観世音菩薩いう仏はんは、いわゆる菩薩という、仏陀を目指す人のことをいうのだす。観世音菩薩いうのは、衆生一切を救済するという願いを立て、三十三とおりに姿を変えて人を救うのだす。」

「仏とはちがうのですか?」

「解脱された方は如来といわはりましてな、そら、もう絶対だす。だから、彼岸此岸を自由に行き来できる。それに対し菩薩いうのは、それを目指し修行してはる人の総称でもあるのや。だから、人を実際に救うのは、如来いうより菩薩さんの方やとも言えますなぁ。」

「ふうん・・・。」

咲はちょっと考え込んだ。

「・・・でも、あたしは、悟っちゃった人より、悩んで努力してる人が好き・・・。」
「ほう・・、せやけど、菩薩さんが悩んでるゆうのは。なんか想像つきまへんがな。」
「あら、観世音菩薩がどうしたら人を救えるか。。。、という目的で、三十三の化身に変わってベスト尽くしたっていうのは、悩んだ末の三十三の姿だったんじゃないのかしら・・・。」

 咲は、そこから、大きな思いをもとに言った。

「そうだわ、観世音は、どんなことしても伝えたいとか救いたいという大きな欲があったんだ。」

 欲望というものは、よいものではない・・。咲はそのように考えていた。欲とは煩悩のもとであり、そこからすべての苦しみや諍いなどが起こる。そう考えていた。咲自身も、自分が「死にたくない」という思いにとらわれているのは、その「欲」にすべてが起因すると考えていたから、その欲をなくそうという事ばかりに努めて来たのだった。観世音菩薩が三十三もの方便を使ってまですべてのものの救済したいとするその「欲」と、咲が考える「欲」は、そのベクトルがちがうだけで実は「心の働きの本筋」において同じ事なのではないのか。

咲はそう考えはじめていた。
(あたしが、生きる証しを求めてさまよったり、耕作に貪り抱かれたりする事も含めて、自分の心の迷いを救いたいという欲と、観世音菩薩のすべてを救済したいという心からくる欲は・・・・実は同じ、そして方便)

 咲は日差しが強まった園庭に出ると、大きく背伸びをした。

(・・いいお天気。そうか・・・、この「いい天気」はあたしが決めた「いい」なんだな・・・。
 あれ・・もしかしたら、その観世音の化身とは、その時の「よい救済」・・であれば「観世音」とは実は・・。)

 咲は、夥しいとまで感じられる観音像の「群れ」を見つつ、何かに感じ入っていた。

 もしかしたら、「どのような存在」であっても、「観世音」の様々な姿だって事・・?

次回へ続く

 


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